第5話 庶民的な神様



 面倒なことになった。境内のある山への道を歩きながら、僕はようやくそれに気がついた。


 珠希の脅迫に逆らえないのは、現実的問題として宿泊地を失うからだ。珠希は僕が今日を含めてあと八日間この町に滞在することを知っている。仮に珠希が着替えを覗かれたと主人である純二さんに訴えたら、民宿マキノはおろか陽向町内の宿には泊まれないと考えたほうがいいだろう。そこまで広くない地域のネットワークで、下手をすれば町そのものから追い出される可能性もある。


 加えて言えば、僕は珠希に対して二つの罪悪感を覚えてしまっている。償いができるのならそうしたいし、後腐れがないほうが以降の計画にも支障が出なくなる。


 けれど、僕にとっての最優先事項はヒイロから与えられた使命を果たすことだ。寄り道をしている時間的余裕はない。


 要するにこの状況は、完全なる板挟み状態にあった。


 最悪の場合は野宿という手もあるだろうか――と検討し始めたあたりで、昨日の公園の前を通りがかる。あの三人組の姿はない。彼らは珠希とどういう間柄なのだろうか。単に加害と被害の関係だけだとは思えない。根拠らしいものもないけれど、経験的にそんな感じがする。


 公園のすぐ隣にある石段の始点に着いた。三日目ともなるとのぼるのが面倒になってくる。でもヒイロと会う方法が他にないので、仕方がない。


 と、思っていたのだが。


「あら」


 山道の中盤あたりで、階段をおりてくるヒイロと鉢合わせた。


 ヒイロはふわふわと浮遊するような足取りで危なげに見えた。だが段を踏み外すこともなく、慣れた調子で接近してくる。


「夜高さん、今日は早かったのですね」

「朝に来訪者があって、起こされたんだ」

「それは残念でしたね」

「そんなことより、神様がどうしてここに?」


 尋ねると、ヒイロはにやにやと薄笑いを浮かべた。


「ひょっとして夜高さん、わたしが境内の中にしか居られないとでも思っていたんですか?」

「いや、だって普通はそう思うって」

「神様に人の理屈は当てはまりませんよ。昨日言ったばかりじゃないですか」


 意地が悪い。そんなことを言われたら、何でもありだ。


「それできみは山をおりてどこに行くつもりなんだ?」

「駄菓子でも買いに行こうかと」

「小学生かよ」

「失敬な。わたしは貴方が来たときにお出しするつもりだったんですよ」

「そうなのか」

「うう、信じてませんね。分かりました、貴方に駄菓子はあげません」


 ぷりぷりしながら僕の脇を通り抜けるヒイロ。追って僕も階段をおりる。


「悪かったよ。せめて気持ちだけは受け取らせてくれ」

「駄菓子は要らないんですか」

「そういうのは卒業したんだ」


 故郷にいた頃は姉とよく買いに行った。安い値段でいろんな味を楽しめるから、二人で選ぶのも良い娯楽だった。姉が中学生になって一緒に行く機会がなくなったあとは、駄菓子そのものに興味がなくなってしまった。


 振り返れば、大切なのは誰かと共有することだったのだと思う。同じものを食べて、どんな味だったかとか、これは気に入ったとかを言い合うのが楽しかった。


 それがいつからか、他者と何かを分かち合うことを億劫に感じるようになっていた。自分の感性が信じられなくなり、共有という行為は単なる恥さらしに成り下がった。在りもしない模範解答を探すのが苦痛でしかなかった。なのに、止めることはできなかった。


 常に自分が間違っているという精神的なリストカット。


 その傷痕だけが、今の僕を駆り立てているから。


「駄菓子はお賽銭で買うのか?」


 僕はヒイロの背中に話しかける。


「当たり前ですよ」


 そっけない返事に、少し安心した。




 蝦蟇口の財布から取り出した小銭で代金を支払った後、五百円相当の駄菓子群をレジ袋に詰める。それらのほとんどが飴とチューインガムで、味が長続きするものばかりを選んでいる印象だった。


 客や店員はヒイロの姿を見ると全員例外なく挨拶をした。「ヒイロさま、御機嫌よう」「ヒイロさま、当店をご利用いただきありがとうございます」と掛けられる声に、ヒイロも欠かさず明るい笑顔で対応する。それから隣にいる僕をひとりひとりに紹介した。この人はわたしの信徒だから、何かあれば親切にしてあげてください、と。


 今日まで神様の存在に触れてこなかった僕からすれば、この状況は不可思議だった。だがこの町の人々にとっては自然に受け入れている日常で、疑う余地もないようだ。


「これが本当の、お客様は神様ってやつです」


 そういう発言が自分の格を下げていることに、この神様は気づくべきだと思うが。


 とにもかくにも、買い物を終えた僕らは私営スーパーを出た。時刻はちょうどお昼時。階段をのぼるのは腹ごなしを済ませてからにしようと僕が提案し、麓の公園で腰を落ち着けることになった。


 ヒイロは神様だから、食事は必ずしも摂らなければならないものじゃない。本人曰く「在り方の問題」だそうで、人間の営みから離れた暮らしをすると神様に寄りすぎてしまうのだという。


 飲まず食わずでも神様はなくならない。生理的欲求も当然ない。だけどそれらが在るように振る舞うことで、ヒイロは人の形を保ったまま町中を歩くことができる。人の食事を摂るためには人型でなければならないという理屈が生じるからだ。


 僕が思うに、神様の理屈というのは人間のそれとは逆だ。人は生きるために食事が必要なわけだが、神は食事という営みに合わせて存在を定義する。同様に考えれば、この町の住民が土地神を信仰し続ける限り、ヒイロはそれに応える形で在り続ける。


 この仮説に妙な説得力があるのは、それがどこかで聞いたような話の焼き増しだったからだ。ゆえに空想から空想を生んだところで、たいした意味はなかった。


「〈悲哀の子〉は助けを求めていません」


 そう言ってから、ヒイロは色の変わる飴玉を口の中へ放り込んだ。


「当人がそれを必要としていないんです。だからわたしはその人物を特定できない」


 救うべき相手が誰なのか判明していないこと――僕が課せられた使命を果たすための、ひとつめの壁。


「必要としていないなら、助け船を出すのは余計なお世話じゃないか?」

「そうもいきません。〈悲哀の子〉の関係者が、その人物を救うことを強く望んでいまして。この土地を見守る者としては到底無視できません」

「本人が望んでいなくても、か」

「それだけ想いが強いということです」


 飴玉をゆっくりと味わうように、ヒイロは目を瞑る。長い睫毛が艶めいて見えて、僕は気づかれないように視線を逸らす。


「以前にも同じようなことがありました。愛し合うふたりのうち、一方が病に臥せて余命宣告を受けたのです。もう一方の女性は、このまま別離するくらいなら共に安らかに死なせてほしいと望みました。わたしは彼女から対価を貰い、その願いを叶えました」

「彼女を死なせてあげたのか」

「夜高さんは、そう思われますか?」


 突然の問いに、僕はすぐには答えられなかった。


「……望みどおりに救いを与えたんだから、神様としては妥当な仕事だろう」

「神様としては、ですか」


 眉尻を下げるヒイロ。


「いいですか夜高さん。多くの人間はこう考えるんです。『神様が願いを叶えてくれるのに、どうしてその女性は愛する相手の生存より自らの死を望んだんだろう』と」


 それは考えもしなかった。同時に、失敗したと思った。


 ヒイロの大きな瞳が、僕を映し出していた。


「本来、神様に願って望みを叶えてもらうのは非効率です。対価を支払っても割に合わない、むしろ自分自身の努力で叶えたほうが楽な願いしか聞き届けられない。だから人間にとって、気休め程度に神を頼るのがちょうどいい。信仰とはそういう構造なんです」


 信じる者は救われる。だが、神様が救うとは限らない。


 少なくとも、ここの神様は見守るだけだ。願いは叶えない。叶ったように見えるのは、その願いが因果を引き寄せるから。


 ヒイロは言う。


「夜高さんの読みは半分当たりで、半分は外れです。わたしは確かに彼女の死期を早めました。でもそれは彼女の願いを叶えたからではありません。対価として余命を貰うことで、結果としてそうなっただけです」


 自らの命を絶つのは簡単だ。苦しみを度外視するなら、いくらでも方法はある。


 ヒイロはその容易さに応じて、願いを聞き届けたに過ぎない。


「その人は、愛する人と安らかに死ねたんだな」

「ええ。それでも、余りある対価でした」


 悲しい話だとは思わなかった。どんな過程があったにせよ、彼女の願いは叶ったのだから。


 その女性が愛する人の生存を真っ先に望まなかった理由なんて、知らなくていい。


「飴がなくなっちゃいました」


 薄紫色が移った舌をちろりと出して、無理やりおどけてみせるヒイロ。


「話を戻してもいいですか」

「ああ」


 先例を語っているあいだ、ヒイロは辛そうな顔をしていた。それは自分が彼女の命を奪ったも同然だ、と責めているようでもあった。


 あるいはすべて作り話だったともとれる。表情の機微も手の込んだ演技で、僕がどんな反応をするか試していたのかもしれない


 でも僕は失敗した。期待にえなかった。


 死が彼女にとって最上の救いであったと、理解できてしまったから。


「強すぎる祈念は他者の意志を押し退けます。恋人たちのうち一方の願いだけがわたしに届いたように、〈悲哀の子〉の意志もまた別の誰かの願いにかき消されているかもしれません。ただ〈悲哀の子〉が救われないといけないということだけは、間違えようがない。だから、わたしはその子を見つけ出さなくては」

「雲を掴むような話だ。手がかりはあるのか?」

「はい。現時点で夜高さんは〈悲哀の子〉に出会っています」


 ヒイロははっきりと断言した。


「わたしに時間を捧げた後、夜高さんもまた因果に引かれ始めました。探すまでもなく自然に、貴方はその子と対面しているはずです」


 僕の脳裏に、ただちに浮かんだ姿があった。


 槙野珠希。


 あの子の救われるべき理由を、僕は知っている。

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