第二章 悲哀の子
第4話 槙野珠希の脅迫
社の建つ山の麓には、とても小さな公園があった。
鬼ごっこはおろかキャッチボールもできないような面積を、中央に設置されたジャングルジムがさらに狭く感じさせる。案の定子どもたちは寄りつかないようで、整備を放棄されたのかジャングルジムの塗装はあちこちが剥がれてしまっていた。
そもそも陽向町には子どもが少ないのだろう。今のところこの町で見かけた子どもは珠希と、惣菜を買った私営スーパーにいた五才くらいの幼児だけだった。限界集落というほどではないにしても、過疎の一歩手前くらいには陥っていそうなものだ。
この国では、ずっと昔から少子高齢化が叫ばれている。
それらの問題は現在に至っても解決の兆しが見えていない。他の問題に関してもそうだ。政治家は的外れな政策で問題を解決するどころか加速させていく。現状でも既に深刻極まりない状況にあるというのに、誰もが今の苦境をやり過ごすことで精一杯だ。
こんな社会では、将来に希望を抱くことのほうが難しいと思える。どんどん苦しく、悪くなっていくのなら、生き続けることにどんな意味があるだろう。
僕にはとうとうその意味を見つけることができなかった。
だから僕はここに居て、現実から逃げ切る方法を探している。
*
社でのヒイロとのやり取りを終えた後の帰り道。昨日今日と通りがかったときには誰も居なかった麓の公園に、人が居た。
小学生くらいの子どもが三人、何かを取り囲んでいるようだった。顔は見えないが、何やら不穏な雰囲気であるように思える。根拠のない勘だったが、接近するにつれてそれが気のせいではなかったことが明らかになる。
囲まれているのは、尻もちをついた人だった。それも、見覚えがある服を着ている。
大きすぎる青色のジャージ。あれは珠希だ。
「生意気なんだよ!」
三人の中で一番大柄な少年が声高に言った。
「俺たちのこと、馬鹿にしてんだろ」
珠希は黙って俯いている。フードを被って顔を隠しているようでもある。
僕はどうするべきだろうか。真っ先に思いついたのが見なかったふりをすることだった。割って入ろうという発想はない。火に油なのは明らかだったからだ。
性根が腐っているなと自分でも思う。けれど実際、そうだった。僕には他人の窮地に身を投じるような勇気はない。それは昨日知りあったばかりの少年が被害に遭っていたところで変わるものではない。
僕は早々に公園内のいざこざを視界から外し、意図的に足音を小さくする。これで傍観者でもなくなった。あとは今見た光景を忘れてしまえばいい。
「お前がいるから俺らは気分が悪いんだ」
「どっかいっちまえ。ここからいなくなれ」
少年たちの声が聞こえる。僕は耳を塞いだ。彼らは立て続けに罵声を浴びせかけているようだ。隙間だらけの手のひらでは完全に音を遮断することはできず、言葉から濾しとられた悪意だけが僅かに鼓膜を揺らす。
珠希が彼らから受けている迫害は、僕にとって他人事じゃない。
その証拠に僕は、彼らの心無い言葉に傷ついている。
何故ならその言葉は――
じゃり、と地面を浅く削るような音がした。思わず視線を上げる。見ると、珠希が少年たちの包囲の隙間を突っ切った瞬間だった。低い姿勢から飛び出した珠希の速さに、不意を突かれた少年たちは追いつけない。彼らを置き去り、珠希は公園の外へと駆け抜けた。
呆然とする僕の真横を、珠希が通り過ぎていく。
彼は僕の姿を認めるといっそう地面を蹴る力を強めた。青い背中がどんどん遠ざかっていく。余ったジャージの裾が、マントみたいにはためいていた。
あんな風に僕も恰好よく逃げられたなら、と思う。
十も年下の子どもに憧れを感じるなんて、本当に僕は終わっている。
*
珠希が走ったであろう道筋をなぞって民宿に着くと、カウンターに来客向けの立札が置かれていた。
『主人不在。ご用件は横のメモ帳にて』
昨夜のうちに連泊を申し込んだ僕は部屋の鍵を持っている。自由に出入りできるので特に用件らしいものもなく、ひとまず部屋に戻って休憩することにした。
が、その前に気になることがあった。珠希少年の件だ。
僕は彼が囲まれているのを見て見ぬふりをした。それを今、後悔している。彼に向けられた罵声は、僕にとって他人事にするべきことではなかったからだ。
自分の存在を否定する言葉を浴びせられる辛さを、僕は無視するべきじゃなかった。
だから謝りたい。それから彼の話を聞きたい。そのくらいのことを僕はやるべきだと思った。
靴棚には珠希のものとおぼしきランニングシューズだけが入っていた。寄り道したわけでもなく、僕より先に帰っているのは確かなようだ。探して見つかるものでもないかもしれないが、何もせず部屋で寝ているわけにもいかない。
廊下を奥の方へ進む。昨日見た限りでは突き当たりに幕が下ろしてあったから、そこまでが客の立ち入れる範囲だと思われる。とりあえずはそこまで行って、人の気配がしなければ引き返そう。
物音が聞こえてきたのは、浴室と書かれた扉の向こうからだった。
厳密には扉の先は脱衣所で、物音はさらに奥の、浴槽があるところからしている。水の流れる音、桶の当たる音などが断続的に聞こえているから、誰かが入浴中なのだろう。
誰か、というか考えられるのは珠希しかいないが。
そのとき僕に閃くものがあった。このまま浴室に入って、背中を流してやるのはどうだろう。裸の付き合いという言葉もあるし、踏み込んだコミュニケーションで距離を縮めることも話を聞く上では必要かもしれない。
少々悩んだ末に僕は扉を開き、脱衣所に足を踏み入れる。このタイミングが最悪だった。
まず、珠希は既に入浴中だという先入観がいけなかった。水が流れていたのは浴槽に湯を溜めるためで、桶の音は単に端へ除けられただけだと考えることもできた。何より僕は自分の耳を信用しすぎた。扉二つ分隔てられているところの物音を細かく聞き分けるどころか、脱衣所内での衣擦れの音すら聞き逃していたのだから。
幸か不幸か、珠希は僕にすぐには気づかなかった。でなければこんな冷静に分析している暇もなく悲鳴が上がっただろう。
そう、悲鳴だ。
脱衣所で服を脱いだ裸の少女が、僕の姿を視界に捉える。
「ぃや――――っ!」
投げつけられた脱衣かごが僕の顔面に着弾したのは、その直後のことだった。
*
夕食では露骨に無視された。当然の対応だと思う。
もちろんあの後はすぐに謝った。非は完全に僕のほうにあったし、許してもらえないのも仕方のないことだった。
この一件で珠希は僕のことを変態か覗き魔だと認識しただろう。謝ったところで事実は変わらないし、宿を追い出されても文句は言えないと、覚悟していた。
いつ退去勧告を受けてもいいように荷物をまとめてから眠りに就いた、次の日の朝。
がちゃり、という鍵の開く音で目を覚ました。
「おはようございます」
入ってきたのは珠希だった。手にはマスターキーとおぼしきものを持っていて、それで内側からかけていた鍵を開錠したのだろう。
珠希の恰好はこれまたワンサイズ大きい鼠色のパーカーだ。ただ今までと違っているのは、パーカーの裾が届く太腿から下の肌が外気にさらされていることだった。
「おはよう、珠希くん」
「……嫌味のつもり?」
珠希が僕を睨む。ただでさえ鋭い目の形なので、圧が子どものそれじゃない。
「ち、違う、寝ぼけてただけだよ。他意はない」
慌てて否定すると、今度は首をひねって不信感をあらわにする珠希。
「ふざけてるな。自分の立場、分かってんの?」
「それはまあ、覚悟はしているけれど」
「どうだか」
高圧的に僕を見下す珠希。外面だけの敬意がすっかり消え失せ、客として見做されなくなったことを肌で感じる。
だがそれだけにとどまらず、珠希は僕の腹を無造作に踏みつけた。
「ぐおっ」
思わず声が出る。珠希の表情は変わらない。ゆっくりと、だが容赦なく体重が足の裏から乗せられていく。
「苦しい? でも抵抗はするなよ」
「そんな横暴な」
「だいじょうぶ、殺しはしないし」
「それの何が大丈夫なんだ……ぐっ」
内臓が圧迫されている。息を整えようとしても肺が思うように膨らまない。左半身にだけ脂汗が滲む。起き抜けの刺激で、自律神経が混乱しているらしい。気分が悪くなる一方だ。
珠希が加虐の匙加減を正確にわきまえているとは思えない。これは見た目以上に危険だ。抵抗しないでいるのにも、限界がある。
「要求は、なんだ……」
「第一に俺が女だって気づいたことはうちの親に知られないように振る舞って」
妙に早口で珠希は言った。
「それと昨日公園で見たことも内緒にして。理由は分かるよな」
僕は黙って頷く。
「次に俺からの頼みは断らないこと。もし従わなかったら着替えを覗かれたって親に訴えるから」
それは単純かつ強力な脅迫だった。
予想できる範囲ではあったものの、それを持ち掛けられるタイミングを避けるのは難しくないと思っていた。そうしてものの見事に先手を打たれたわけだ。
「分かった、その要求、呑むよ。だから」
「…………」
腹を踏む足の重圧が少し和らぐ。だが依然起きあがることは難しい状況にあった。
ふと珠希の白く細い脚を見て、サイズの大きい衣服を身に纏っていた理由に合点がいった。彼女くらいの年齢の男女で明確な差異があるわけではないが、珠希自身にとっては意図して隠したいもののように感じるのだろう。
おそらく珠希は自分が女だと見られるのが嫌なのだ。少年らしい口調や声色も、料理の手伝いをしていることを客人に知られたがらなかったのも、それに関係している。
何か事情があるに違いなかった。だがこの状況では、問い質す立場にはなれない。
「年下の子どもに強請られる気分はどう? 澤口さん」
「すごく情けない、と感じる」
「そっか」
素直に答えても珠希は眉一つ動かさない。僕の反応に興味がないどころか、自分の言葉すらもただ言ってみただけのような投げやりさがあった。
そんな珠希に、僕は不思議な親近感を覚えた。兄妹とはまた違う、物事の捉え方が似ているような、そういう波長の合致。
「興奮してる?」
「……どうしてそんなことを訊くのかな」
「ガキの裸が好きなんだろ。だったらガキに裸足で踏まれるのも嬉しいんじゃないかと思ってさ」
「酷い誤解だ」
だがその口ぶりから、珠希は本気で僕を覗き魔の変態だと思っているわけではなさそうだと分かる。あれが不幸な事故だったと理解していて、そのうえで僕を脅している。それが成立すると考えて行動しているあたり、かなり聡い子どもだった。
わざわざ素足でここに押し入ってきたのも、僕に昨日の情景を想起させて罪悪感を抱かせるつもりだったのではとさえ思う。これが単なる深読みであればいいが、もし意図的なのだとしたら末恐ろしい発想だ。
僕にそれを確かめる気力は残っていなかった。さっきから珠希の爪先が、ぐりぐりと腹部にねじ込まれている。思考に集中していなければ痛みを紛らすことができなかったから、そうしていただけに過ぎない。
「そろそろ足を降ろしてくれないか」
僕の申し入れに、珠希は首を縦に振って足を腹の上から除ける。妙に聞き分けが良くて逆に警戒が残るが、本来のこの子は素直な気性なのだろう。
腹に残った痛みの部分をさすりながら、上体を起こす。視点が変わると途端に珠希が幼く見える。というより、見下す圧が弱まって年相応に見えるようになった、というべきか。
「あんたのこと、夜高って呼び捨てにしてもいいよな?」
珠希の確認はあまり意味のないものだったが、間を持たせるためにはちょうどいい台詞だといえた。
「構わないよ。僕はきみに脅迫されているわけだから」
神様だけじゃなく、ひと回り年下の男装少女にも従属しなければならないという状況。
そのうち生殺与奪の権利も剥奪されてしまいそうな、鬱蒼とした三日目の始まりだった。
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