第9話

 気まずい沈黙が満ちる中、フェンは身を起こしてアッシュに向き直る。やがて、彼は視線を逸らしながら、ぶっきらぼうに告げる。

「――あの衝撃の後、お前はぐったりして動かなかったんだ。心配ぐらいして、何が悪い」

「そんな――でも、泣かなくても……」

「それは……あれだ、目薬を差したからだ」

「一人でできないのに?」

「うるさい、黙れ」

 船室以来の、穏やかな時間だった。荷馬車の上だが、アッシュといるだけで居心地がいい。思わずフェンは目を細めて彼を見つめていると、彼はわざとらしく咳払いした。

「まあ――なんだ、うん」

 珍しく歯切れが悪い。やがて、アッシュの視線が向けられる。

 深い紅の瞳が、真っ直ぐに見つめてくる。フェンはそれを見つめ返していると、アッシュはまた咳払いをして――小さく告げた。

「お前が、無事でよかった――フェン、お前だけは失いたくなかった」

 そして、少しだけぎこちなく笑みを浮かべる。

 かざらない、素朴な笑みに思わず胸が高鳴った。急に、彼の視線が気恥ずかしく感じる。思わず後ずさりかけ――ふと、彼の手が伸びた。

 そっと身が寄せられる。いつもの、強引な抱き締め方ではない。

 ふんわりと包み込むように、そっと胸の中に受け入れるように抱きしめ――ぽん、ぽんと軽く頭を撫でてくれる。

 優しい感触に、どうしたらいいか分からず、目を白黒させ――。

「で、殿下――ちょ、ちょっと、いいですか?」

「なんだ?」

 慌ててその胸に手を当て、さわさわと確かめる。腕に触れ、首に触れ、そして、頬に手を添えてじっとアッシュの目を覗き込む。

 戸惑いの色が、彼の目に浮かんだ。まごついたようにつぶやく。

「ど、どうした?」

「どうしたか、は、こっちの台詞です――まさか、頭でも打ちましたか? それとも、毒キノコとか変なものを拾い食いして……」

「――は?」

 アッシュが呆れたような声を上げる。フェンは胸に手を当てて、その鼓動を確かめる。

「こんなに殿下が優しいなんて――天変地異が起きてもあり得るわけが――」

「もう、いい」

 ぶっきらぼうな声が、フェンを遮った。ぐっと腕に力が込められ、乱暴に抱き竦められて身動きが取れなくなる。その耳元で、アッシュはわざとらしくため息をついた。

「シズマに言われて、素直に接したつもりだったが――なるほど、確かに一理あったな。お前の、俺に対する評価が、実にはっきりとよく分かった」

「え、あ、あの、殿下……?」

「うるさい、黙れ」

 一瞬、強く抱きしめられ、息が止まりそうになる。だが、少しだけ力が緩められ――そっと髪が梳かれる。そして、素っ気ない声で告げられた。

「お前は、俺の傍にいろ――それだけで、いい」

 その言葉は乱暴だけど……不思議と、温もりにあふれていて。

 フェンはおずおずとその背に手を回し返して――はい、とはにかんで答えた。


「全く、二人は仲がいいな、本当に」

「ええ、妬けてきてしまうわね」

 荷馬車から出たアウレリアーナは、静馬と共に馬首を並べた。その静馬の口調には、王族に対する遠慮がもうない――。

 主従関係ではなく、今は親愛の相手として話している。

 アウレリアーナもまた、騎士としてではなく、一人の女、アウラとして――静馬に目を細め、視線を向けた。

「ね、シズマ」

「ん? なんだ、アウラ」

「――心配、したんだから」

 アウラが手を伸ばし、静馬の服の裾をつまんだ。その声は、どこか寂しそうで――瞳は伏し目がちで揺れている。

 静馬は目を細めると、詫びる代わりにその手を取り、軽く引く。

「こっちに。アウラ」

「え、ええ……」

 アウラは自分の馬から、静馬の馬の後ろに移る。静馬は背を向けたまま、小さく告げる。

「――馬の上は揺れるから、密着していても、問題ないぞ?」

「あ……うん、そうね。シズマ」

 そう言いながら、アウラはそっと彼の腰に腕を回し――そっと抱きしめる。

 そうしながら、背に頬をつけ、小声でささやく。

「――おかえり。シズマ」

「ああ、ただいま――心配を、かけた」

「うん、心配した。あとで、いろいろ聞く」

「お手柔らかにな。それと、アウラ」

「ん? なに?」

「信じてくれて、ありがとう」

「そんなの、当たり前じゃない」

 お互い、小声でのやり取り。だけど、身体を密着させているから、十分にその音が伝わってくる。優しい気持ちと共に、お互いの気持ちを交換させる。

 今は穏やかに、この気持ちを温め合い――。

 後の、甘い時間のために、この気持ちをじっくり煮詰めるのだ。

「あとでゆっくりね。シズマ」

「ああ、あとで、ゆっくりだ。アウラ」

 ここに二人のカップルもまた、甘く満ち足りた時間を過ごすのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る