第8話
飛鳥は、アッシュからの視線を受け止め、ゆっくりと深呼吸をした。
その傍には、命綱をつけた少女――ミアが不安げな表情で見上げている。それを安心させるように、飛鳥は笑いかけた。
「大丈夫よ。落ちはしないわ」
「でも、命綱――」
飛鳥は、命綱をしていない。だが、平然と彼女は笑って首を振る。
「落ちないから、必要ないもの――だから、ミアは安心して力を使って」
「ん――分かった」
勢いよく顔を上げて決意を見せる。そして、ミアは祈るように手を胸の前で握りしめる――わずかに翡翠の色を帯びつつある目を、そっと伏せさせた。
瞬間、ふわりと舞い上がる風に包まれながら、飛鳥は落ち着いて視線を投げた。
(距離は――約、四百歩。なるほど、よく距離を見ている――)
とはいえ、と苦笑いを零しながら、飛鳥は矢筒から矢を一本引き抜いた。
(帆を狙い撃て――とは全く……)
要するに、帆を引き裂いて機動力を奪いたいのであろう。
もうすでに互いの矢は届く距離とはいえ、潮風が強く吹き付ける船上だ。それで帆を射抜くのは、並大抵の射手では難しいだろう。
しかも、不安定な足場。いつ振り落とされるかも分からず、その足場で強弓を引かねばならない――だが、と飛鳥は淡く笑う。
(その程度のこと――朝飯前に、やっていましたよ)
呼吸を繰り返すたびに、音が消えていく。
人々の叫び声も、矢の飛び交う音も、波の音も――ただ、聞こえるのは風の音。
語りかけてくるような、優しい風を聞きながら、息を吸い込む――。
自然と弓弦に矢をつがえ、ゆっくりと引き絞る。一瞬だけ呼吸を止め。
解き放つ。
音は、なかった。だが、それは真っ直ぐに敵の帆へ飛来していく。
ミアが力を込め、風の道を作ってくれる。それを感じ取りながら、続けざまに、飛鳥は矢を引き抜き、つがえてはすぐに解き放つ。
弧を描き、矢が宙を引き裂き、帆へと吸い込まれる――。
異変が現れたのは、すぐだった。
まるで、剥がれるように、敵船の帆が少しずつ外れていく。一拍遅れて、騎士たちが、そして海賊たちが気づく。海賊たちが慌てたように声を上げ、帆柱に這い登る。
(――遅い)
飛鳥は口角を吊り上げ、狙いを定める――そして、矢を一本、解き放った。
その矢は、真っ直ぐに敵船の帆の真上に吸い込まれる。そこを起点に、崩壊が始まった。
帆が、崩れ落ちていく――。
目を見開いていたのは、アッシュも同じだった。
(期待していたのは、帆を破ることだけだったが――まさか、剥いでしまうとは……)
だが、静馬からの刺すような視線で我に返ると、素早く下知を放つ。
「総員、艪につけ! 全て櫂を出せ! 全速前進だ!」
「早櫂だ! 早櫂急げ!」
「帆はそのままだ、追い走りぞ、追い走り!」
騎士たちが盛んに駆けずり回る。船の両脇から、長い櫂が出ると同時に、太鼓が一定リズムで打ち鳴らされる。その拍子に合わせて、櫂が大きく海を掻く。
戦闘前の、並の櫂捌きではなく、文字通り、全速力での推進だ。
逃がさん、とばかりに敵船から雨霰と矢が降り注ぐ――それを、打ち払う静馬の背に、アッシュは叫ぶ。
「退け! シズマ! 追い波を食らうぞ!」
すでに、猛進を始めた船は、激しく飛沫を上げている。横から猛烈に殴りかかってくる高波に、思わず舌打ちしながら、静馬は船尾から離脱する。
だが、船尾の舵にいる船長は、動かない――食らいつくように、舵にしがみついている。
「殿下、船長は――!」
「彼なら問題ない! その訓練は積んである!」
追い波が激しく船尾に降りかかり、まるで滝のようだ。到底、無事でいられるようには思えないが――ここは、信じるしかない。
アッシュは静馬と共に下がって、甲板を駆ける――。
追い波の影響で、激しく前後に揺れる。その中で、ひらりと宙から飛鳥がミアを抱きかかえて降り立った。
「帆を剥いだおかげで、徐々に距離を取れています。ですが、敵も櫂を出しました」
「案ずるな。連中はそこまで速度を出せない」
「――どういうことですか?」
静馬の質問に、アッシュは視線で波飛沫を指し示す。
「この追い波が、原因だ。連中の船は、空気抵抗を削るために、船の高さを低くしている。その中で艪を使うとなると――どんどん、追い波で船に水が溜まる」
こちらの船は、鈍足だが大きく安定している。
排水機構もあるので、ある程度の追い波まで人力がなくとも排水できる仕組みだ。あちらが排水で人手を取られる分、こちらはその人手を艪に回せる。
その言葉を示すように、徐々に背後の海賊船は遠ざかっていく――。
その海賊船が追走をあきらめ、一気に引き離されていくのは、すぐだった。
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