第9話

「――なんとか、なったか……」

「お疲れ様です。殿下」

 船室でアッシュが思わずぐったりと椅子に座り込むと、フェンはくすりと笑いながら、いつものように水を差し出してくれる。

 それを受け取り、軽く口をつけながら、フェンに訊ねた。

「船長たちの様子はどうだ?」

「さすがに船長は水を浴び過ぎたので、体調が優れません――ですが、受け答えははっきりしているので、すぐに復帰するかと」

「シズマとアスカは?」

「ぴんぴんしています――手合せしないか、と言うくらいに」

「――あの二人は何者なんだ、一体」

 雨のように降り注ぐ火矢を平然と斬り捨てる剣士に。

 遠く離れた帆桁の結ぶ紐を正確に射抜く弓手。

 常人離れした手際に、戦慄せざるを得ない。フェンは少しだけ苦笑いをした。

「それだけ研鑽を積んでいた、ということでしょう。きっと」

 そうなのだろうが、認めなくない想いもある。アッシュは話題を変える。

「――それで、ゲイリーとミアは?」

「ゲイリー殿は激しい揺れで船酔いし、今は休んでいます――ミアも、大分疲弊したようで」

「そんなに、か?」

 少し意外であった。フェンならもっと大規模な術を、息も切らさずにやってのける。

 この前、平然と海を割っていたのが、記憶に新しい。

「水と風では、案外、都合が違うのかもしれません」

「そうか……同じ流体ではあるが――様子を見ておけ」

「了解しました」

 フェンは静かにそう応える――その語気に、アッシュは眉を寄せた。

(いつもは、もっとはきはきと答えるはずだが――)

 見れば、どこか蒼い瞳は伏し目がちだ。少しだけ、気にかかる。

「――どこか、怪我でもしたか?」

「いえ、そうではないです。すこぶる快調ですよ」

 フェンは笑顔でそう受け答えする――どこか、強がっている様子だ。

 だが、そう言うなら詮索することはない。すぐに、いつもの笑顔で小気味のいい、弾んだ声を聞かせてくれる――。

 下がれ、とアッシュは声を掛けようとして。


『仲を深めるのは、よくお話しすることが大事です』


「――少し、話をしないか」

 思わず、零れ出た言葉に、自分自身が驚いてしまった。

 え、とばかりにフェンは目を見開くのを見て、腹を括る。

 言ってしまったものは、仕方がない。アッシュは迷いながら口を開く。

「その、なんだ――ウェルネスの一件以来、ゆっくりお前とも話せていない」

「そう――ですね。そういえば」

 ぎこちなくフェンは笑ってくれる。その笑顔だけで、何故かアッシュの胸が高鳴る。咳払いしてそれをごまかすと、やや早口に言う。

「と、とにかく座ったらどうだ」

「え――しかし、殿下……」

 何故か、視線を泳がせるフェン。遅れて、アッシュも気づく。

 船室には椅子がない。アッシュが腰かけているのは、横長な木箱だけ――気まずい沈黙の中、アッシュは少しだけ横にずれてスペースを空ける。

 しばらくの沈黙の後、真っ赤になったフェンが、いそいそと彼の傍に寄る。

「し、失礼します――」

 そっと隣に腰を降ろす――わずかに、肩が触れ合い、びくりとフェンが震える。

 ほんの少しだけ距離を開けて腰かけるフェン。釣られるように、アッシュも身体が固まってしまい――内心で舌打ちする。

(なんだ、このぎこちなさは……まるで、初心な者同士と言われても仕方ない……)

 飛鳥の指摘通り、『奥手』で『遠慮がち』を体現したようで腹立たしい。

 だが、アッシュからは――どうしても、フェンに近付けない。

 触れたい、と思う一方で、強く傷つけたくないという想いが込み上げてきて、二つの気持ちが胸の中で揺さぶられるようで――。

 まるで、隣にいる少女が、硝子で出来ているように思えてしまうのだ。

 緊張でからからに口が乾く。それでも、強引に口を開き――。

「――あの」

「――おい」

 二人の声が、ぶつかった。思わず視線が交わり――不意にフェンは、笑み零れた。眉尻を下げ、いつもの包み込むような笑顔で笑う。

「すみません、殿下――お先にどうぞ」

「――そう、だな」

 少しだけ悩んだが、それに背を押されるようにアッシュは訊ねる。

「少し、元気がないように思えたが――体調は、問題ないか」

「あ、はは……体調は問題ないですよ。ただ……」

 少しだけフェンは口ごもる。さらり、と視界の隅で、銀髪が揺れる。短い息が、思いつめているように、小さく吐き出される。

「――少し、だけ……不安に、なってしまいました」

「不安?」

「はい――」

 そっと俯き加減になったのか、銀髪がさらりと揺れた。彼女は沈んだ声で続ける。

「シズマは、凄まじい剣の使い手です。それに――アスカは、弓矢の名手だけでなく、ひたむきにシズマを支えて、理解しようとして、さらに軍の用兵まで優れている。なんだか、自信がなくなって来て――現に、海賊撃退の際は、役に立てませんでした」

 沈み込んだフェンの視線は明らかに思いつめていた。床をじっと見つめ、重苦しく息を吐き出す――アッシュはそれを黙って耳を傾けていたが、やがて口を開く。

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