第9話

 二人は応接間から出る。前を早足に進むアッシュの背に、フェンは声をかけた。

「――殿下、随分と悩まれましたね。一蹴されるかと思いましたが」

「ふん――ウェルネスとの国交との利益は見過ごすことができない」

「ですが、不確かなもので、騎士たちの命をさらすことはできないのでは?」

 フェンが訊ねると、彼は足を止めた。ゆっくりと振り返った彼の、不機嫌そうな眼光がフェンに注がれる。

「――なら、断ればお前はどうした?」

「それに従うまで、です――ただ……」

「できるだけ、力になれることはしたい――そうじゃないか?」

 彼は一歩詰め寄ってくる。思わず言葉に詰まりながらフェンが後ずさると、アッシュはそれ見たことか、と鼻を鳴らしながら、もう一歩詰める。

「お前のことだから、分かる。お人好しで、こうと決めたら頑として引かない――だったら俺も我を通すまで、だ」

 後ずさり、踵が壁にぶつかる。あ、と思った瞬間、彼の手が顔の傍の壁にどん、と押し付けられる――間近に迫った真紅の瞳が、じっと見つめてくる。

 互いの吐息が、ぶつかりそうなほどに近い距離で、彼は囁くように告げる。

「お前は――俺の傍から、絶対に離さない。覚悟しておけ」

「で、んか……?」

 迫力のある声に、思わず呑まれる――端正な顔が、目と鼻の先にある。

 心臓が狂おしいくらいに暴れている。頬がかっと熱くなる――だけど、逃げ場もなければ、視線も釘付けになって動けない――。

 その瞳に、吸い込まれて――どこまでも、心が溶けてしまいそうな感覚――。

「返事は」

 ぶっきらぼうな、だけど、不思議と温もりのある声に、促されるように――。

 フェンは顔を真っ赤にしながら、こくん、と小さく頷いて告げる。

「殿下の、お傍に――常に、います……ですから、その……」

「――そうか」

 彼はあっさりと身を引く。それに名残惜しく感じながらも、まだ、頬が灼熱のように熱く、心臓はばくばくと高鳴っている。

(さっき、アスカのことが羨ましいと思ったけど……)

 きっと、これを人前でやられたら、今以上に心臓が高鳴ってしまうだろう。

 これ以上、心臓が高鳴ったら、きっと胸が破裂してしまう。そっと胸に手を当てようとして――ふと、自分の手がアッシュに握られていることに気づく。

「えっと……殿下?」

「離れないのだろう」

 大きくて、優しい掌が包み込んでくる――その温もりに、手を引かれて。

 ただ、フェンは為すがままに、彼の傍を歩くことしかできなかった。


 その頃――応接間では。


「いいのですか、静馬様。一存で、いろいろと決めてしまって」

 飛鳥は静馬の隣で、甲斐甲斐しく手当てをしながら小さく問いかける。静馬はそれを聞きながら、くすりと笑みを浮かべた。

「こちらで決めたことは一つ足りとてないぞ?」

「え――でも、魔剣に関しては……?」

「もちろん、包み隠さず教える――自分が、知り得る限りの情報を。だけど、私は魔剣の使い手ではない」

 あの刃を発光させたのは、楊心流剣術――ただの、技術であり、魔剣ではない。

 つまり、中臣静馬は、ただの一人の剣士にしか過ぎない。

「その一人の剣士から、彼らは魔剣のことを聞き出せるだけだ――まあ、僕は魔剣について正直、さっぱりだから、何も得られないだろうけど」

 静馬は肩を竦める。飛鳥は軽く目を見開き、でも、と口ごもる。

「貿易上の優遇は――」

「これは検討するだけだ。優遇するとは明言していない」

 さらりと静馬は言葉を返した。飛鳥は頷く。なるほど、確かにそうだった。

「ともすれば――全て、ある意味では、空手形……?」

「そうなるな。もちろん、期待に添えるようには全力を尽くす。それが筋ではあるが、今、この段階で火の国は何の得もしていない」

 静馬ははっきりと断ずると、少しだけ仕方なさそうに笑う。

「アッシュ殿は、聡明な方だから、見抜けるかと思ったが――意外に、詰めが甘い。何か迷いが見えたので、そこに付け込ませてもらった」

「――確かに、静馬様は政治家に向いていませんね。詐欺師です」

 くすくすと飛鳥は笑いながら包帯の端を結ぶ。肩を軽く叩いて微笑んだ。

「何にしても、無事で、よかったです」

「ああ、飛鳥も」

 二人は視線を交換し合う。一瞬だけのアイコンタクト――だけど、静馬と飛鳥はそれだけで通じ合える。戦場を共にした、二人ならでは、だ。

 それだけで、彼女は仕方なさそうに笑い、彼は悪戯っぽく笑ってみせる。

「――ここからが正念場だぞ?」

「これ以上、無茶はさせませんからね」

「手厳しい。ま、二人で頑張ろうか」

「はい、二人で一緒に」

 二人はそう言いながら、こつん、と軽く拳を合わせて微笑み合った。

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