第5話

 太鼓の音を聞いたとき、フェンはゆっくりと茂みの中から立ち上がった。

 身体を隠していた迷彩柄の外套をかなぐり捨て、辺りを見渡す。

 気配は、感じられない。海賊たちは、全て正面に集中している。

(殿下が、派手に立ち回ってくれている……)

 そして、海賊はアッシュとフェンがそこにいると、思い込んだ。

 連中は、欲望の権化だ。二人を捕らえられれば、王家から多額の身代金を要求できる――その餌に、ものの見事に食いついた。それが囮だと気づかずに。

 あそこにいるフェンは、飛鳥の変装――。

 おかげで、フェンの潜んでいた要塞の裏手は、手薄だ。迷わず、彼女は茂みから身を抜け出し、一気に駆け出す。

 要塞は、三方を水に囲まれている――深く波が荒々しく打ち付けている場所だ。

 泳ごうにも、そこは岩礁地帯。波に翻弄され、岩場にぶつかれば大怪我は間違いない。

 そこから侵入するのは、正気の沙汰ではない――普通なら。

「アンジェラ――力を、貸して……!」

 彼女は小さく口ずさみながら、ためらいなく地を駆ける。

 それに応じるように、胸の中で、小さなため息が聞こえた気がした。

 瞬間、水がうねりを上げて跳ね上がり――ざばんと音を立てて、海が割れた。

 目の前で、水底が露わになる。一本の、要塞へと続く道が。

 フェンは、そこから迷いなくまっしぐらに駆ける。

 そして、要塞に到達すると、素早く岸壁に取り付いて這い登る。ごつごつした岩場をすぐに登って要塞の中に侵入すると、息を整える。

(地下牢は――恐らく、あっち)

 この要塞が、水の国の頃と同じなら、構造も同じだ。

 うろ覚えの記憶を引き出し、音を立てずに要塞内を駆けて行く。その先に、立っている一人の兵士。それが、振り返って目を見開く。

 その瞬間には、フェンは踏み込んでいた。剣を抜き放ち、喉元を刺し貫く。

 目を見開いて、絶命する――刃を引き抜きながら、その兵が見張っていた入口を見やる。

 地下へと続く通路。鉄格子で、封鎖されている。

 見張りの兵の腰に下がっていた、鍵束を奪い取り、その鍵を試していく――。

 一本目、違う。二本目、これも違う。三本目――。

(――ッ、よしっ)

 かちゃり、と回った手応え。フェンは素早く牢の中に滑り込んだ。

 中は、じめじめと薄暗い。水の滴る音が響き渡っている。彼女は息を殺しながら、ゆっくりと、だが確実に早く階段を降りていく。

 そして、その最下層――そこの部屋の、鉄格子――。

 その中に、三人が囚われている。その中に、見知った顔があり、思わず息を呑んだ。

「ゲイリー殿っ!」

「――あ……ま、まさか……っ!」

 壁に寄りかかっていた男が、猛然と立ち上がった。

 薄汚れているが、間違いない。あの、吟遊詩人、ゲイリーだ。フェンは持っていた鍵束で牢を開け放つと、彼は安心したように表情を緩めた。

「た、助かったぁ……」

「まだ、安心するのは早いよ。ええと――」

 残りの二人を見やる。一人の少女は、ぐったりと床に横たわっている。その少女を黙って抱き上げる、一人の青年があった。

 真っ直ぐに、澄み渡った眼差し――それに、思わず目が奪われる。

 視線がぶつかり合い、すぐに理解し合う。相手が、何者なのか。

「――貴方が、シズマ・ナカトミ」

「――貴方が、フェン・ヴィーズか」

 視線が交錯する。彼は頷くと、素早い身のこなしで牢から出た。とても牢に囚われたとは思えないほどの機敏な動きに、フェンは思わず目を見開く。

 彼は壁に掛けられ、鎖で雁字搦めにされた太刀を見やると、それに手を上げた。

 すっと中空を、手刀が駆ける。瞬間、ばきん、と音を立てて鎖が砕けた。

「――え、これは……」

「話している時間も、惜しい」

 彼は低い声でそう告げると、その太刀を掴みながら、ゲイリーに視線を送った。

「ミアを、頼んでもいいか。ゲイリー殿」

「お、おうよ――」

 静馬の腕から少女の身体を受け取るゲイリー。静馬はすぐに身を翻し、他の牢の鉄格子に駆け寄った。そこには、ウェルネスの騎士たちが三人いる。

 フェンが慌てて鍵束を取り出す――だが、彼は一顧だにせず、太刀に手を掛けた。

「下がれ、みんな」

「はっ!」

 全員が跳び退くように鉄格子から下がる。瞬間、彼の手元から閃光が迸った。

 気づけば、刃が上段に振り抜かれている――刃を抜く手が、一切見えなかった。

 一拍遅れて、鉄格子が崩れ落ちる。騎士たちは、そこから飛び出しながら笑う。

「さすが、隊長! 相変わらずの化け物だぜ!」

「無駄口はいい。すぐに脱するぞ!」

「了解!」

「先導します。こちらに」

 フェンが階段を駆け出す。その後ろを、ミアを背負ったゲイリーが。そして、静馬と騎士たちが最後尾について地下牢から駆け上がる。

 外に出ると、激しい喧騒が耳朶を打った――正面で、海賊と軍がぶつかっている。

 だが、大分、押し込まれている――数の差と、地の利で後れを取っているのだ。

(このままだと、殿下の方がまずい……っ)

 わずかに生まれる迷い。その間に、ゲイリーと静馬が地上に出ていた。

 静馬の視線が、素早く辺りを見渡す。そして、要塞の正面で目を留めた。

「――海賊が五百余り。対して、自軍が百。包囲されているか」

「はい――ですが、今はお二人を逃がすのが優先――」

 フェンは迷いを振り切る。素早く、岸壁を滑り降りようとして――。

 その肩が、がっしりとした手で止められた。

「待て。フェン殿」

 静馬はそう言いながら視線が動く。その視線が、岸壁の下にある小舟に止まる。

「――ゲイリー殿。あの小舟で、ミアと共にここから離れてくれ」

「お、俺一人でかよっ!」

「大丈夫だ――お前たち、頼んでも良いか」

「了解しました」

 静馬は視線を三人の騎士たちに頷く。彼らの真剣な眼差しに励まされたように、ゲイリーは唾を呑み込み、ミアを背負い直して頷く。

「わ、分かったぜ。だが、シズマさんたちは、どこに――」

「あっちだよ」

 彼はそう言いながら視線を正面に向ける。ゲイリーに、背を向けて。

 まさか、とフェンは息を呑んだ。

「シズマ殿、まさか、戦う気では――」

「囚われている間も、鍛錬は欠かしていない。十分に、戦える」

 その言葉からは、隠しきれない闘志が伺える――その背からは、激しい気迫。

 フェンはそれを感じ取り、目を閉じる。そして、はっきりと告げた。

「分かりました。私もお供します。付け焼刃の連携にはなりますが――」

「そこは、なんとか私が立ち回る――背中を任せてくれるか? フェン」

 遠慮はいらない。そう言っているようで、どこか心地よく感じる。

 フェンは剣を抜き放ちながら、笑みを返した。

「もちろん――任せるね。シズマ」

 そして、二人の騎士は駆け出す――激しい気迫を身に宿して。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る