第二章 火の国
第1話
風雲を告げる、吟遊詩人、ゲイリーからの手紙――。
それを受けたアッシュの行動は、迅速だった。
その三日後――アッシュとフェンは馬を飛ばし、火の国の港町に駆けつけていた。
「――お疲れ様です。殿下」
フェンは、ソファーに座り込んでいるアッシュに水を差し出す。
彼は黙ってそれを受け取り、口に運んだ――その表情には色濃く疲労が浮かんでいる。それを気遣うように見つめながら、フェンは思う。
(さすがの強行軍――殿下も、お疲れだ……)
無理もない。この三日間で、アッシュは王宮で駆けずり回っていた。
閣僚に対する根回し。陛下から外交大使としての全権委任――。
政治的な措置と承認を瞬く間に、彼はもぎ取っていった。
それから休む間もなく、彼は海沿いの交易港――ユグドの町に駆けつけていたのだ。
今いるのは、ユグドの一つの商館の応接間。そこの、ふかふかのソファーにぐったりと身を任せていた。それだけで、疲労の程が分かる。
フェンは心を痛めながらも、甲斐甲斐しくお代わりの水を用意する。
しばらく、アッシュは水を飲んで休んでいたが、不意に視線を上げる。
「――ウェルネス王国からの、船は来ていないか」
「ユグドを管理する商会に問い合わせましたが、まだ来ていないそうです」
「ウェルネスと貿易している商船は?」
「三つあるそうです。一つは今、ユグドに常駐しているとか」
「担当者に会いたい。今は、ウェルネスの情報が少しでも欲しい」
「すぐに、手配致します――殿下は、今はお休みを」
「そうもいかない……大国との、取引になる上に、風神の巫女が関与している」
アッシュは身を起こす。明らかに、無理している顔色だ。
少しでも休んでほしい……だけど、それを受け入れそうな気配ではない。フェンは一つ吐息をつき、騎士を呼んで命令を出す。
「ユグド商会に、連絡を。ウェルネスへの商船の担当者を呼んでくれるかな」
「了解しました。それと、騎士団は沿岸部に配備が済んでいます」
「了解――ウェルネスの船が、どこから上陸するか分からないから、すぐに報告できるような体勢だけは、崩さないように」
「はっ!」
騎士がきびきびとした足取りで出て行く。それを見届けてから、アッシュに視線を戻す。彼はすでに何かに目を通している。
「それは――入出港者の、名簿ですか?」
「ああ、良い機会だ。少しでもこのユグド商会の動きを追っておきたい」
「――休んでください、と申し上げていますが」
フェンが少しだけ語気を強める。アッシュは黙って目を閉じていたが、ため息交じりにフェンの方を見つめ返す。
「――全く、お前は相変わらずうるさいというか……」
「殿下が全然、言うこと聞いてくれないからです」
腰に手を当ててアッシュを睨みつけると、彼はあきらめて書類を閉じる。
「仕方ないな――なら、少し話に付き合え」
「お話、ですか?」
「さすがに、大国との取引――落ち着かなくてな」
その言葉に、思わずフェンは目を見開いた、アッシュはむすっと視線を逸らす。
「悪いか――俺だって緊張する」
「それは、正直意外です。どんなところでも大胆不敵なのに」
「阿呆、それは相手が知れているからだ――ウェルネスは、全く情報がない」
アッシュはそう言いながらさりげなくソファーを横にずれ、少しだけスペースを空けてくれる。意図を汲み取り、フェンはその隣に腰を降ろす。
「ウェルネス王国――この数十年で急速に周辺諸国を迎合した国だ。国力は予想もできない、もちろん、文化レベルも」
「もしかしたら、すごく文化が発展している可能性も――」
「ないわけでは、ない。そんな国の機嫌を損ねてみろ。この国は押しつぶされる」
珍しくアッシュが弱気な言葉を紡いでいた。フェンはその横顔を見つめながら、自分の胸に手を当てる――そこが、締め付けられるように、苦しい。
こんなとき、殿下の役に立てたら――と思うのに。
(傍に、いることしか、できないなんて……)
だから、せめて、と手を伸ばし――彼の手を握る。
アッシュは少しだけ目を見開いたが、わずかに口角を吊り上げる。
「お前に心配されるとは――焼きが回ったか」
「心配ぐらい――させてください。私はそれ以外、何もできないから……」
「いや、十分、力になってくれている」
握られた手に、力がこもる。ごつごつとして大きい、温かい掌――。
いつも、触れている手であるはずなのに、何故か、どきりとしてしまう。
それはきっと――いつになく、彼の握り方が、優しかったから……。
アッシュとフェンの視線が合う。真紅の瞳と、蒼天の瞳が交わり合い、徐々に近づき――。
「失礼します。殿下」
ノックと共に、不意に響き渡った声に、思わずフェンは身を跳ねさせた。慌てて立ち上がり、アッシュの傍に控える。彼は悠然と髪を直すと、視線を上げて落ち着いた声を発する。
「入れ」
「はっ」
騎士が入室し、敬礼する――その後ろには、小柄な男が控えていた。
少し小太りにも見えるが、立ち振る舞いは堂々としている。
「ユグド商会、国外担当課のウェリネス方面担当者の、マウロ・ヘンリク殿です」
「お目にかかれて光栄でございます。アッシュ殿下」
ヘンリクと呼ばれた男は前に進み出て、拝礼する。アッシュは眉一つ動かさずに頷いた。
「呼び立ててすまない、ヘンリク殿。少々、ウェルネスについて聞きたいことがある」
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