第7話

 その翌日――遠く離れた火の国。

 人でにぎわう都。道々には、笑顔を浮かべた民たちが行き交い、露店では商人たちが盛んに呼び声を張り上げている。

 活気に満ちた街――それは言うまでもなく、良き治政者によって作り出されていた。

 その治政者がおはすのは、中心にある白亜の王宮――。


 その廊下を歩む、一人の女騎士がいた。


 長い髪を揺らしながら、ふんふん、と鼻歌交じりに靴音を廊下に鳴らす。

 目指す先は、アッシュ・エイデンの執務室だ。

 彼女の自然な笑顔からは、見るだけで楽しくなってくるような、温かい魅力に満ちている。彼女は慣れた足取りでアッシュの執務室の前に立ち、戸を叩く。

 やがて返ってくるのは、ぶっきらぼうな声。

「――入れ」

「失礼いたします」

 鈴の鳴るような声で返事をし、女騎士――フェン・ヴィーズは中へ入った。

 少し薄暗い、いつもの執務室。そこの椅子には、いつものように一人の男が座っていた。大胆不敵を絵に描いたような、不遜な顔つきの王子――アッシュ・エイデンだ。

 だが、今日は様子がおかしい。

 何故か天井を睨みつけるように、ずっと上の方を睨んでいる。

 はて? とフェンは思わず首を傾げた。

「殿下、どうされましたか?」

「――いや、なんでもない」

 いつもと変わらない口調で、彼はゆっくりとフェンに向き直り、いつもと変わらない、鋭い剣呑な眼差しで見つめてくる。真紅の瞳の煌めきに、少しだけフェンはどきっとする。

 その刺すような眼光は、いつ見つめられても慣れない。

 彼の視線にはいつだって、迫力だけじゃない――どこか、包み込むような優しさがあるのだ。それを指摘すると、いつも否定するけど。

(口は素直じゃないけど――視線はいつも正直だものね)

「――何がおかしい?」

「いいえ、おかしくありませんよ」

 知れずに笑み零れていたフェンは、不機嫌そうなアッシュの前に持って来た書類を置こうとして――ふと、その机の上に転がっているものに目が留まる。

 スポイト状の容器に、じっとりと濡れたような布巾――。

 なんとなく、アッシュの目に視線を戻す――真紅の瞳で分かりにくいが、目が充血しているような気がする。彼は気まずそうに視線を逸らした。

「――なんだ」

「もしかして、これ、点眼薬ですか?」

「……悪かったな」

「別に悪くはないんですけど――どうかしましたか、目を痛めましたか?」

 途端に、心配になってくる。

 フェンが顔に手を伸ばすと、アッシュは鬱陶しそうにその手を払って、なんでもない、と答えた。

「――執務のし過ぎで、目が疲れただけだ。そうしたら、あの女がこれを置いて行った」

(あの女――アンジェラね)

 城内にいる医者で、姉のような存在を思い出す。くすり、と笑いながらフェンはそのスポイトのような容器を持ち上げる。

「これ、コツが入りますからね。特に、馴れないと怖いというか」

「なくても困るものでもない――気にするな」

「いいえ、気にします。ほら、殿下、上を向いて下さい」

 仕方なさそうな――いや、それにしても上機嫌そうな笑顔で、フェンは机を回り込んでアッシュの傍に寄る。彼は仏頂面で顔を背けた。

「気にするな、と言っている」

「私は気にします」

「…………」

「殿下?」

 優しく諭すような声に、アッシュは観念したようにため息をこぼした。

 フェンは一度、こうしようと決めると意地でもやり抜く、頑固な女性であることは、アッシュが身に染みて分かっていた。

 しかも、他人のために自分を犠牲にしがちだから、性質が悪い。

 不承不承、アッシュは上を向くと、フェンは後ろに回り込んで、優しくその顎に手を添える。顔の覚悟をそっと調整すると、限りなく優しく瞼を押さえる。

 上から覗きこまれ――アッシュは、フェンの顔を見上げる形になる。

(――あ……)

 フェンの真剣な顔が、目に入った。

 長い銀髪が周りを取り囲むように降ってきて、フェンの顔しか見られない。その瞳が優しくアッシュの目を見つめ、慈愛に満ちた眼差しでささやく。

「動かないで、くださいね?」

「あ、あ……」

 釘付け、だった。その形のいい唇が動くだけで、思わず胸が高鳴ってしまう。

 否定したくても動けず、その蒼い瞳に見入られ――。

「――ッ!」

 目に、軽い衝撃。それに驚いている間に、もう片方の目にも、衝撃。

 冷たい水に覆われた感触に、アッシュが顔を振ろうとするが、そっと柔らかい掌が両頬を押さえて動けなくなる――ぼやけた視界の中でも、彼女が笑ったのが分かった。

「ダメです。殿下――しばらくじっとしていてください」

 そう言いながら、彼女は優しく目をふさぐように掌を覆い被せてくる。目頭をそっと人差し指で押さえられ、じんわりと薬が目に浸透していくのが分かる。

 掌からの、温かい温もりが目に心地いい。

 いつの間にか、アッシュは身体からも脱力し、フェンに全てを委ねていた。

 どれくらいそうしていただろう? そろり、と掌が離れて、ぼんやりとした明かりが目に入ってくる。その中で、覗きこんでくる、蒼い瞳。

「どうですか? 殿下」

「あ、あ――」

 思わず答えが出ない。息もかかるほどの間近で、彼女が微笑んでいる。

 その蒼い瞳は、アッシュしか映していなくて――胸が、どぎまぎする。

 認めたくはない――だけど、自覚してしまう。

(ああ、俺はこいつの真っ直ぐな目が、好きなんだ――)

「――悪く、ない」

 ようやく、唇を動かすと、彼女はにっこりと優しく笑ってくれる。

 その笑みが、どうしようもないほど無邪気で――同時に、気づいてしまう。

(こいつ――こんなに近いのに、意識していないのかよ……)

 自分だけ意識しているのに、悔しくなってきて。気が付くと、アッシュは憎まれ口を叩く。

「お前、こんなに近付く必要あったのか?」

「え――あ……っ!」

 一拍後、今更気づいたように大きく目を見開く。白い肌が一気に朱に染まっていく。

 慌てて距離を取ろうとするフェン――だが、アッシュは先んじて手を伸ばすと、その頬に両側から手を添え、逃げられないようにしていた。

 逃げられず、真っ赤な顔を直視され、たまらず目を伏せさせるフェン。

 仕返しができたことに、アッシュは満足して手を放そうとすると――。

「でん、か……」

 掠れた、声が耳朶を打った。何故か、胸がどきっとする。

 わずかに上げた蒼い瞳が、大きく潤んでいる――熱っぽく、唇が開かれ、ふわりと吐息が鼻にかかった。じっと見つめてくるその瞳に、胸から愛おしさが突き上げてくる。

 二人は、何かに突き動かされるように、顔の距離を徐々に近づけ、唇が――。


「――あー、二人とも? さすがにちょっとそれ以上はまずいんじゃない?」


 ばっと二人は弾かれたように跳び退いた。

 一瞬で何事もなかったかのように、主従の距離に戻るフェンとアッシュ――その様子に、開け放たれた扉から覗きこんでいた一人の文官が苦笑する。

「ノックはしたんだけどね? 気づかなかったから、覗いてみたんだけど――」

「お、オルフェ――いつからそこにいた?」

「えっと――フェンが抱きついたところから」

 昼からお盛んだねえ、と苦笑いの文官――オルフェに対し、そんなんじゃない、アッシュが噛みつくように吼える。フェンは恥ずかし過ぎて何も言えない。

 顔を真っ赤にして俯いていると、オルフェはやれやれと首を振りながら手に持った手紙をひらひらとさせる。

「とにかく、お手紙――越海便で来たから、急いで届けないと、って思ってさ」

「早く寄越せ」

「はいはい」

 オルフェが差し出した手紙を、ひったくるようにアッシュが受け取り、裏側を見る。

「――ん? ゲイリーから、か?」

「あの、吟遊詩人、今海外にいるみたいだね」

「…………」

 黙って机に上に放り投げるアッシュ。フェンはため息交じりに手紙を取り上げた。

「ダメですよ」

「いや、読む気がおきん。絶対に面倒ごとだ」

「――まあ、読みましょう」

「うん、読んだ方がいい」

 ここで誰も面倒事を否定しないあたり、ゲイリーへの謎の信頼感がある。

 フェンが代わりにそれを開封し、中の手紙を読んでいく。妙に小綺麗な字を読み進めていくうちに、フェンの顔つきがだんだん変わっていく。

 それに気づいたアッシュが眉を寄せる。

「――殿下、これは……」

「読ませろ――ふむ」

 フェンから手紙を受け取り、素早く目を通していく。そして、アッシュは険しい表情になると腰を上げた。

「フェン、騎士団に出撃命令だ。少数精鋭で、護衛させろ」

「了解しました。殿下は?」

「陛下への根回しだ――さすがにこれはオルフェには任せきれない」

「ど、どうしたんだ、二人とも――」

「いいから伴をしろ」

 オルフェの言葉を遮りながら、アッシュは手紙を投げつけるように突きつける。

 それに目を通していくオルフェの顔色が瞬時に変わる。

「これって――まさか」

「ああ――ウェルネス王国からの正使。いや、それだけならまだいい――」

 ぎり、と歯噛みをした上で吐き捨てる。


「風神の巫女だと……? また、厄介な……!」

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