1週間。僕は抜け殻のように生きていた。すべてはあの神楽坂美姫のせいだ。キスの衝撃はあまりに強く、強すぎるほど僕を揺らし続ける。

 神楽坂美姫はそんな僕を見て満足そうな笑顔を浮かべていた。なにが満足なのかはこれっぽっちもわからなかったが、抜け殻の僕と会話をしていたらしい。

 そんな夢のような世界は長くは続かない。現実はもっと過酷で悲惨だと僕は知らなかった。


 相も変わらず夢を見ているように生きていた僕にそれは起こった。

 

 いつものように満員電車に乗っていると、突然左手に焼きごてをあてられたような痛みが走った。思わず手に持っていたカバンを落としてしまう。まさか……。いやそんなはずない。でも……。ありとあらゆる考えが僕の頭の中で生まれる。自分で確かめる勇気はない。しかしわかってしまった。隣の人の青ざめている顔で。

 次の駅で僕は電車を降りることしか考えられない。満員で本来なら出るのも難しいはずなのに、みんな近寄りたくないという顔で僕に道を譲ってくれた。それは否が応でも僕に現実を突きつける。


 そっと左手の甲を確かめる。そこには……


 僕は神様に“選ばれた”。余命は1か月だ。


 それからは早かった。誰が呼んだのか駅員の人が僕をどこか知らない部屋へ連れていき、気が付いたら病院――国立の“選ばれた”人間に診断を下す病院――だった。


 自分でもよくわかっていない。親が呼び出されドクターから話を聞いている。あまりの現実感のなさにまだ夢を見ているのかと疑ってしまうほどだ。でも時間が止まったり逆方向に流れたりしないように、僕の意識は現実に引き戻される。

「直樹。お母さんはこれから仕事に戻るからあとはあなたの好きなように生きなさい」

 とても冷たい顔と声でそんなことを言ってくる。母親の顔だとは到底思えない。

 

 打ちのめされた僕。なにがあっても味方だと思っていた母親はすでにいなかった。スーツを着た人が僕をきれいな部屋へ誘導していく。もう僕は考えることができず、言われたことを言われたようにすることでしか自分を保てないようだった。


「初めまして。私は“選ばれた”人に余生を穏やかに過ごしてもらうための説明をしています。

天(あま)塚(つか)美(み)優(う)と申します。今日からよろしくお願いしますね」

 人好きする笑顔で「余生」と言われてしまった。そのことに何度目かわからないショックを受けてまた何も言えない僕。

「ではこれから“選ばれた”人にお渡ししているパスについて簡単に説明します」

 そんな僕の様子を見ても変わらぬ調子で話を続けられた。

「この水色の腕輪がパスと呼ばれるものです。

パスはパスポートのことで無料券みたいなものです。テーマパークでみんな買うパスポートを想像してもらえればほとんど差異はありません。

ここからは長いのでこちらの紙に要点をまとめてあります。規則として今ここで読んでもらう必要があるのでお願いします」

 

① このパスにはおサイフ携帯のような機能があり、レジでこれをピっとすればなんでも買える。

② ほとんどの法律から縛られなくなる。未成年でもたばこやお酒、風俗のようなものまで許可される。

③ 許されないのは今も生きている人間の営みを妨げること。

ざっとまとめるとこんな内容だった。確かに簡潔でわかりやすい。

「質問はありますか?」

 首を横に振ることで否定を示す。

「では穏やかな余生を。ありがとうございます」

 満面の笑みで言うことではないと思ったが口には出さなかった。


 質問なんてあるはずがない。テレビでも新聞でもこのパスのことを取り扱っている。俗に水色の人と呼ばれるのだ。

 これの目的は断じて「穏やかな余生」のためではない。これは余命を告げられて自暴自棄になり犯罪に走る人間を抑制するためにある。試したくはないが、これは着けている人間をリアルタイムで監視し、問題のある行動が見られた時には殺人マシーンになるだけだ。

 僕が水色の人になってもう5日が過ぎた。その間何をしていたかと言うと、何もしていなかった。もう来月には僕は死ぬ。何をしても意味のないことだとしか思えなかった。贅沢においしいものを食べて何になる? ブランドもので身を固めてどんな意味がある? 勉強をして何に活かす?

 僕の頭にあるのは“なぜ僕なんだ”ということだけ。だって僕は“選ばれた”人を従え導くはずの人間なのに。なぜ塵芥ではなく僕なんだ? 絶望を目の当たりにして初めて考えた。


 なぜ僕は生まれたんだ?


 人間はいつか死ぬ。これは変わりようのない事実だ。生きている間に何を成し遂げて死んで行くのだろう。じゃあ僕は? 僕はなにも成し遂げていない。父も母も兄も僕に価値がなくなった瞬間、いないものとして僕を扱うようになった。

 もしかしたらあいつなら……と思い久しぶりに制服に袖を通し学校へ向かった。


 昼休みの時間に学校に着いた。僕がニーチェ病を発症したことは知っているはずだ。なのに誰も心配どころかあいさつすらしてこない。今までちやほやして持ち上げていた連中は全員なにもなかったかのように僕の横を通り過ぎていく。母親の冷たい対応と何ら変わらない。

 

 そして目的の人はいつものように僕の席の前にいた。僕の顔を見ると、くすっと笑って――僕には嘲笑にしか感じられない笑顔で手招きをしている。

「どう? 神様に“選ばれた”感想を教えてよ?」

 いつものふざけた調子ではなく真剣な顔で聞いてくる。

 僕が言葉を選んでいると

「ここじゃあれだね。場所を移そうか」

連れてこられたのは僕が初めてキスをされたあの暗がり。

「どう? 答えは見つかった?」

 再度問われる。僕には正解がわからない。ただわかることは

「どうして僕なんだ? お前みたいに体を安売りしているようなバカな女じゃなくてどうして僕なんだ?」

 こうやって八つ当たりをすることだけだ。

「なるほどね。じゃあ特別。あたしのを見せてあげる」

 そういって左手の皮をめくったように見えて、それは薄い手袋のようなものを外していた。そこに刻まれた数字は10。

「あたしは最初12だった。童貞君、あなたはいくつ?」

僕も答えるしかない。そんな雰囲気だった。仕方なしにその数字を見せる。

 お互いに無言の時間が流れる。

 最初に口を開いたのは神楽坂美姫だった。

「お互い死ぬことはわかったんだしさ。童貞君も気持ちいいことしてみる?」

 僕がなんて答えるかわかっているくせにわざわざ聞いてくる。

 そのまま僕たちは合図をしたわけでもないのに同時にその場を後にした。


 それから僕は学校に行くことはなかった。

 そしてひたすら考えた。僕が生まれた意味を。こんな最期を迎えるために生まれたのか? そもそも僕は自分で何かを選んだことがあるのだろうか? 父や母の言う通り生きていた。そこに僕の意思は介在しない。果たしてそれを生きているといえたのだろうか?


 人は失って初めてその物の価値を知ると誰かが言っていたのを聞いた記憶がある。僕は死を目の前にして初めて生を実感した。

 当たり前の毎日。あれは生きているとは言わない。ただ経験しているだけだ。生まれた意味を考えながら、問いながら積み上げていく。それでこそ生きていると言えるのだと遅まきながら気が付いた。


 そして僕は零を迎えた。


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