第16話「這い寄る因縁」

 夕刻、その日の授業をすべて終えたダイナ・ファッバーロは家路に就いていた。

 学園前のストリート・フラムベル通りは、他の道路と交差する形でいくつかの区画に分かれており、ダイナの居室でもあるグレースの花屋はそういった横道に店を構えている。

 奥まった横道にある小さな花屋をセテラが見つけられたのは、ただダイナという見覚えのある、かつ大柄な人物が店先に座っていたからだ。


 とはいえ、そのような場所の事情を差し引いても、裏道を選んで通りたがるのはずっと前からのダイナの癖だった。あるいは、かつての常識の名残だと言ってもいい。

 王都パルミオーネは生活水準が高く、治安が良い。必然、活気があり人が多い大通りほど安全で、薄暗い裏道は何らかの犯罪の温床となりがちだ。


 この豊かで美しい都市の下、地底に広がるもうひとつの世界ではそうではなかった。

 大通りでも裏道でも人が死ぬ確率には差がなく、それならば暗く複雑な裏道を通った方が、悪辣な輩を撒くのに都合がよかった。


 ファッバーロ姉弟はもはや、あの呪われた街の住人ではない。

 そうなるよう取り計らってくれた人が居る。学校の勉強は難解で退屈だが、家族のためを思えば必要な苦労だとわかっていた。

 ダイナはすべてに納得していた。与えられたものに報いようと生きることに迷いはなかった。


 そして、与えられた側の人間だという自覚があるからこそ―――ダイナは失念していた。

 己が過去に遺してきた日々、との因縁を。


 記憶の隅に、引っかかるものがある。

 それは随分と風化していて、しかし決して、忘れることなど出来ていなかった。

 久しく感じていなかった臭い。赤い鉄。青く黄色く茶色く黒い、えた臭い。


「―――――てめぇ」


 周囲に人影はない。

 いくらメインストリートから外れた裏道とはいえ、この辺りの元々の住人や、業者と業者の間を行き来する商人さえ通らないというのは不自然だ。


「どこのモンだ、オイ。の名前を知らない訳じゃねぇだろ。俺たちに手を出したらどうなるか、わかってやってるンだろうな」


 その、独白に、


「アハッ。変わってないっすね、ダイナさん」


 少年のような、けれど純真な子供にはありえない、淀んだ狂気の滲む声が返事をした。

 ダイナの眼前に声の主が躍り出る。彼よりも二回り近く小さい体格。癖のある伸び放題の黒髪に、胡乱げに揺れる茶橙の瞳。肌の色はやや濃く、それはつまり、裏面街の住人に多い特徴を示していた。


「ほざけ。御託を聞くつもりは無ぇ、何しに出て来やがった―――ハオマ」


 ハオマという名を呼ばれたその少年は、暗緑色の襤褸の上着を弄びながら、悪戯っぽく笑った。


「いやぁ、別に。久しぶりに地上うえに出てみたら、ダイナさんを見かけたんで。元気かなぁってツラ拝みに来ただけっすよ」


「随分デケェ口叩くようになったじゃねぇか。俺に向かってそんなつまらない冗談が言えるなんざ、地下したでよっぽど美味いアガリにありつけたんだろうな」


「あれ? ダイナさん、何か怒ってます? やめてくださいよ、オレたち笑顔でお別れしたじゃないっすか。せっかく再会したのにこんな空気になるとかおかしいでしょ?」


「怒ってなんかねぇよ、俺もまた会えて嬉しいと思ってるぜ。昔馴染みの友達ダチ、腹ァ空かした犬ッコロみてぇにこっちを見てやがる。嬉しくて涙が出そうだ」


 一触即発。秋も深まるこの時節、既に去ったはずの夏の熱気にも似た、重苦しく湿っぽい緊張感が満ちる。

 それはダイナが幼少期を過ごした、そしてハオマにとっては生まれてからずっと浸っている、の空気そのものだ。


「……ま、いいっすよ。何にせよ元気そうで安心しました。これは本当っす」


 ハオマは突如として表情を弛緩させ、そのままゆっくりと歩き出した。

 すれ違いざまダイナの背中に触れようとして、自身を見下ろす鋭い眼光に気づき、わざとらしく肩をすくめてから通り過ぎる。

 果たして、どこに隠れていたのか、裏路地のあちこちから十数人の少年少女が現れ、ハオマの後に続いて去っていった。


 そのほとんどは、ダイナにとっても見知った顔だ。

 知らなかった顔は、みな例外なく年端もいかない子供だった。

 何も変わっていない。かつてダイナが作り、彼自身の手で幕を引いたはずの、一夜の夢物語。


 彼らの気配が完全に遠ざかった後も、ダイナはずっとその場に立ち尽くしていた。




――――――――――――――――――――――――――――――




 南方、赤髪と茶色の肌を持つ人々が住むラバルカン大陸には、『ラバルカン大迷宮』という極めて広大な迷宮ダンジョンがある。

 その規模は単なるダンジョンの域に収まるものではなく、もはや地上との鏡写しのような地下世界だといっても過言ではない。

 未だ全容は解明されておらず、広大無辺の地底領域から産出する資源を求めて多くの人が集い、ダンジョンへの出入り口にひとつの都市が出来上がってしまったほどだ。


 そのラバルカン大迷宮の異名に、"すべての迷宮の母"というものがある。

 ダンジョンは土地に過剰な魔力が収束することで形成されるが、何の原因も前触れもなく、虚空から突然現れるわけではない。

 通常、あらゆるダンジョンは要石と呼ばれる魔導具アーティファクト、もしくはボスと称される魔物を『コア』として有する。

 そして、世界最大規模の威容を誇りながらも、ラバルカン大迷宮はこの核を持たない。

 正確には、要石級のアーティファクトやボス級の魔物は出現するが、そのどれを取り除いても消滅する様子が一切見られない―――否、むしろそういった"ダンジョンの核となる存在"を自発的に創造し、全世界にを広げているのだ。


 ラバルカン大迷宮は自ら"成長"する恐るべきダンジョンだが、地底を介して世界中の土地を無分別に接続した結果、聖域カテドラルに近い安全圏が形成されることもある。

 ファッバーロ姉弟の故郷である『裏面街りめんがい』もまた、そうして生まれたラバルカン大迷宮の支脈のひとつだ。

 一般には王都パルミオーネの地下空間として認識されているが実態は異なり、地理的にはアンファリス大陸とラバルカン大陸を隔てる大海原の直下に位置する。


 裏面街について、いささか厄介なのがこの位置関係だ。

 ラバルカン大迷宮は原則的に、ラバルカン大陸を治めるオーラシオン連邦領ボロスター直轄州の国土とされるが、世界中に根を伸ばしている支脈についてはこの限りではない。

 大迷宮内のカテドラルとしては"迷宮都市"ボロスターよりも歴史が古く、中央アンファリス系と南方ラバルカン系の住人が入り交じった独自の文化圏が形成されている。

 アンファールとオーラシオンの間でも、隔たった海を越えて―――などという代物は頭痛の種でしかなく、長らく領有権が曖昧な土地とされてきた。

 そうして公的な統制が難航すると、いつ頃からか、行き場のない浮浪者や犯罪者が流入し始める。気が付けば街には暴力と退廃が蔓延し、今やどの国も引き取りたがらない特大の負債と化した。

 世界の裏側でうごめく闇を一箇所に押し込めたような、見捨てられた街。それが裏面街という場所なのである。




――――――――――――――――――――――――――――――




 ハーゲン・ファルバディオ。

 裏面街で小さな医院を営む男。

 暴力的で暗い過去を持ち、この世の誰にも頼れない人間たちが、しかし最後の希望をもってすがりつく闇医者。

 何であれ患者の生命を第一とし、ハーゲンの医院内では不戦不殺のルールが布かれている。

 如何なる乱暴者であっても、このルールに抗うことは出来ない。ハーゲンは常に中立で、どんな人間も患者として扱うが故に、裏面街すべての勢力の内情に通じている。法ではなく体面と義理によって物事が裁定される黒社会において、『どこの、誰が、どうやって、誰を襲ったか』を知る立場にあるハーゲンは、単なる医者以上の権威を持つ存在だ。

 そして、そのような立場を差し引いても、ハーゲンはまず何よりも賢明で、穏やかで、勤勉な医師だった。彼に命を救われた患者が、誰一人としてその恩を忘れることがないほどの。


 俺たち姉弟の父親は、そんな男だった。

 母親は俺を産んですぐに亡くなってしまったらしく、俺と3つ違いの姉貴も、母さんのことはあまり覚えていないという。

 ハーゲンは、黒社会にどっぷり浸かった人間とは思えないほど――尤もその仕事と立場上、街に溢れ返るクズどもに比べれば、そう人の道を外れる必要が無かったのかも知れないが――規律や礼儀にうるさく、他人に甘く、頑固な奴だった。


 俺は親父のことが嫌いだった。

 親父も裏面街の住人として、少しくらいは荒事に慣れていたし、医者というのも存外に力仕事をやる機会がある。他に従業員が居なかった――過去に助手を務めていたという母さんと、母さんが死んでからその役目を引き継いだ姉貴を例外として――ハーゲンの医院では尚の事だ。人体の性質や弱点を知り尽くしていて、手先の器用さだってある。腕っぷしには文句のつけようがない。

 だがそれでも、顎一つで何十人も殺してきたような悪党の親玉や、頭をやられて二度とまともには戻れない薬物中毒者ヤクチュウにすら笑顔で接する甘っちょろさに、俺は嫌悪を通り越して恐怖すら覚えていた。


 ―――そう、恐怖だ。俺が親父に抱いていたのは、きっと反発ですらなかった。

 人間の命も尊厳も啜り喰らう裏面街の中心で生きていながら、ハーゲン・ファルバディオは決して自分の信念を曲げず、善良な医療者であり続けた。

 それはある意味では絶対的な強者にしか許されない生き方で、だからこそ親父は、俺以外の多くの人間にも畏れ、敬われていたのだと思う。


 11の頃、俺は組織の頭領になった。

 組織と言っても大したものじゃない。身寄りの無い子供が集まり、間抜けな大人をターゲットに盗みをやって、飯や金を融通し合うだけのグループだ。

 それも、体格が良くて腕っぷしの強い奴が正義で、自分より小さい子供を殴りつけては残飯を漁りに行かせるようなカスが幅を利かせてた。

 何を血迷ったかは知らねぇが、俺たちの家に盗みに入ったそいつらを、俺がその場で叩きのめしたのが始まりだった。


 親父は甘っちょろいが悪い人間じゃないし、そんな親父の背中を見て育った姉貴も優しくて頑固な女になった。

 ファルバディオという家は、裏面街にあってあまりに眩し異質過ぎて、不愉快ではないにせよ息苦しかったから、外に居場所が欲しかったのかも知れない。


 最初はほんの気晴らしだった。

 裏面街の黒社会に生きる大人たちは、学も腕力も無い子供が相手をするにはあまりに手強いが、全員が全員そこまで考えの深い奴ばかりじゃない。

 俺はあまり頭が良い方じゃないが、裏面街の平均的な子供に比べればいくらかマシな部類だった。親父は多忙だったが、その忙しさに比例した稼ぎもまた得ていて、俺たち姉弟の面倒を見ることに不自由していなかったからだ。

 グループから、年下のガキを殴って言うことを聞かせるようなクズを追い出した後は、まぁそれなりに素直で使える連中が残っていた。


 ―――――『餓狗の腐牙タスク・オブ・ロット』。

 俺の事実上の右腕をやっていたハオマの提案で、俺たちは自分自身に名前を付けることにした。それらしい気の利いた言葉を知っているのは俺だけだったので、俺が皆の要望を聞いて、それっぽい名前を考えた。

 俺たちはいつしか、コソ泥未満のガキの集まりから、そこそこ厄介な野盗の一団になっていた。


 時には似たような若者のグループとトラブルになったこともあった。

 本物のヤバい組織のデカい財源シノギに首を突っ込んで、本気で命を狙われることもあった。

 幸い、同格未満のグループならば、四の五の言わずに殴り倒せば二度と逆らわなかった。

 格上の相手に喧嘩を売ってしまった時は、俺以上に頭の回るハオマが上手く立ち回り、しまいには俺の親父の名前を使えば穏便に済んだ。裏面街の無法の世界にあっても、俺たちが身寄りの無い子供の集まりであることが、相応に同情の対象になっていたのもあると思う。

 いくつもの幸運に助けられて、俺たちは裏面街の陰で屍肉を喰らう、弱者たちの牙であり続けた。


 だが、いつかはそのようにいられなくなることを、俺だけは知っていた。

 親父が裏面街で絶大な影響力を持つのは、その方針がだからだ。

 ハーゲンは強者と弱者を区別しない。救える者はすべて救う。故に誰からも恨まれない。

 腐牙タスクは違った。俺たちは弱者にのみ味方をする猛毒の刃だった。そして強者たちには、いつでも弱者を虐げる俺たちに復讐する権利があった。


 俺たちのやっていたことは親父にも筒抜けだっただろうが、一度も反対されたり文句を言われることはなかった―――少なくとも、までは。


地上うえに家を買ったんだ。お前たち、もうしばらくしたら、そこで暮らしなさい」


 俺が15の時だった。

 親父は突然そう言って、一方的に話を進めていった。

 ダイナの持っていたを売り込んで、王都の人間に支援の約束を取り付けた。グレース姉貴にはもっと本格的に薬学の知識を教え込むから、支援を続けてもらえるように、熱心に働いている姿を見せろ。

 その計画は完璧だった。ハーゲン親父本人こそ裏面街に残る必要があったが、他に何の心配もなかった。


 俺は―――しかし、あまり迷わなかった。

 人間の汚さを知り尽くし、そんな人間の内の一匹である自分をも蔑んで生きてきた。

 だがそれでも、家族や恩人の情だけは否定し切れるものではなかった。結局のところ、俺を世界の悪意から遠ざけていたのは、俺が何よりも畏れていた親父の善性だと、薄々気づいていたから。

 何も持っていない俺たちには、自分が自分でいるために、一本通った筋が必要だった。俺にとってそれは、親父の善意―――肉親の愛に報いたい気持ちであったり、姉貴に穏やかな世界で幸せに生きて欲しいという願いだった。


 決して腐牙タスクの連中がどうでもよかったわけではない。

 暴力と略奪にしか生きる道を見出せない、不器用で無力な子供たちへの哀れみが無かったとは言わない。

 ただ、家族と仲間の両方は選べないし、そしてあいつら自身、よりにもよってこの俺からの哀れみなんて受け取りたがらないだろう。

 今や俺は持てる者で、持たざる者の敵だ。あいつらに恨まれることは怖くなかったが、一時でも俺を慕ってくれた連中に、俺を手に掛けさせるのは忍びなかった。

 何より、俺が腐牙タスクの奴らに殺されてしまったら、それは親父の善意と姉貴の未来に泥を塗ることになる。


「―――餓狗の腐牙タスク・オブ・ロットは、今日で解散だ」


 俺が地上に行く件はさすがに黙っていたが、それ以外のことはすべて正直に話した。

 俺たちは所詮、学も腕っぷしもコネもろくに持ってないガキの集まりだということ。

 そんなガキどもが盗みや騙り詐欺を続けていたら、いつか絶対に、もっと恐ろしい大人たちから復讐されるということ。

 今まで上手くいっていたのはたまたまで、ファルバディオの名前も、何度も笠に着ていたら効力がなくなること。

 幸い、お前たちは殺人コロシ麻薬クスリ売春ウリもやっていないから、身の振り方はいくらか選べるということ。


「……すぐに飲み込むのは難しいと思う。無理にわかってくれとは言わねぇ。もちろん地上うえに行って何もかもやり直すのが一番だが、地下ここに残ってデカい組織の下につくのもアリだ。ただ、じゃ絶対にダメだってことだけは忘れんな。俺は、お前らが犬死にするのは見たくねぇ」


「ま……待ってくださいっ、ダイナさん! オレ、オレたち、あんたが居なくなったら、どうやって生きていけばいいんすか……!」


「自分で考えろ。心配すんな。お前たちなら上手くやれる。お前らは……俺とは違う。俺にはもう、この裏面街で生きていく自信が無い」


 ―――つまるところ、最初からそう言うべきだった。


 家族と仲間、両方は選べなかった。今でも納得はしていない。

 ただ、自分が選んだ道の結果くらいは、自分で責任を持ちたいと思う。

 俺はあいつらに恨まれることは怖くない。だが、今ここにある平穏を卑下することも良しとしない。

 俺は―――この後悔と決意の、両方を背負って生きていく。




――――――――――――――――――――――――――――――




「さぁ―――――ダイナさん。帰りましょう? オレたちの街に」


 腫れたように朱い黄昏の中で、少年がゆらりと口元を歪めた。

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