間章「奈落の鎖」
時は少し遡って。
アンファール王国首都、パルミオーネ市。パルミオネスト大王宮。
王族の居城と中央政府議会の議事堂を兼ねる、アンファールの政治の中枢とでも呼ぶべき王宮には、数多くの来賓室や応接間が設けられている。
そのような来客を歓待するための一室に今、ひとりの青年が招かれていた。部屋には青年の他に、今回の
「―――先日のバゼドーでの一件、ご苦労だった」
そう言って客人を見る切れ長の目には、アンファールの王族に特有の
声からも実年齢に相応しくない落ち着いた印象を受けるが、口調は決して冷淡ではない。あるいはそれは、供された料理を黙々と貪り続ける眼前の青年が、彼女にとって数少ない気を許せる相手であることの証左か。
「彼らとも上手くやっているようで何よりだ。安心したよ」
「おう。いやァ、こっちこそ悪ィな。あのクソッタレな人格破綻者ども、たまにゃガス抜きしてやらねェとガキの使いも出来なくなるからよ。助かったぜ」
「……やれやれ。君は相変わらず……。もう少し、言い方というものを考えようとは思わないのか?」
「お生憎様、あんたほど育ちが良くなくってね―――王女殿下」
女性の名は、グレイシャ・エヴィリオ=アンファール。
アンファール王国の現国王、ウォズワルド・エヴィリオ=アンファール直系の娘、王女ジュリエッタの妹。第二王女。
弱冠18歳にして、王都と地方都市の橋渡しとなる政府組織『統括局』の長官を務める英才であり、王室特務査問会の外部監査役でもある。
査問会を率いる筆頭宮廷魔術師アルト=ペイラーにとっては、役職の上ではほとんど対等な関係だが、実態としては直属の上司にあたる。
「その呼び方はやめろと言っただろう。アンファールの王女はあくまで姉上だ。私のことはリーシャと呼べ」
「ケ、俺ァ事実を言ってるだけなんだがな。それで……」
アルト=ペイラーの紅い瞳が、リーシャの青い目と重なった。
「言いたいことがあるんだろ。直接呼びつけて昼飯まで寄越すなんざ、よほど深刻な用事と見えるが?」
「ふっ。まぁ、ご明察の通りだ。話が早くて助かる」
リーシャが優美な仕草でティーカップを持ち上げ、紅茶を一口だけ含んでから元の位置に戻す。
と同時に、控えていたリーシャの――正確にはかつては国王ウォズワルドの世話役であり、王女姉妹が生まれてからはそちらの担当にシフトした――執事が、何枚かの紙片を差し出してきた。
それはセントマルクス騎士団の諜報部門から提出された報告書で、主には先日の事件の際に取り逃がした、ガンド・ラダスベノグに関する事柄のようだった。
「この2ヶ月、水面下で奇妙な動きが増えてきた。恐らくはガンド・ラダスベノグによる、『憂える鷲の会』再編に向けた下準備だろう。組織再編とは言っても、此度はほとんどガンドの一人芝居のようなものだが……。いや、こうなるとむしろ、大立ち回りと評価するべきかも知れない」
「ふゥん。あー、確か……亜人や魔族との融和に反対した、テロリスト集団のカシラだっけか。ククク……化け物を嫌う割にゃ、手前ェ自身が化け物になってちゃ世話ねェけどよ」
「同感だな、大きな声では言えないが。そして、これを機に復活した『鷲の会』が、またいつ武装蜂起するとも知れない。私たち王族や中央議会の人間を含め、市民を人質に取られでもすれば一大事だ」
「もっと直接的に、亜人連中の居住区を襲撃されたりするかもな。特に石頭のエルフどもなら、それだけで王国への信頼を失うだろォよ」
宮廷魔術師が口にした懸念は、リーシャもまた理解するところだった。
アルトにしては珍しくやる気の見える姿勢には驚かされたが、それ自体は良い傾向なので今は棚に上げておく。
「ガンドがバゼドー監獄でどんな能力を身に着けたのかも、復活しつつある『鷲』の一派の全容も掴めてねェんだろ。何か起こってからじゃ遅いが、起こったところで奴らの犯行を立証できなくなる可能性もある。中央議会にだって、ガンドの言い分に賛同してた人間は少なくないはずだ」
「うむ、その通り。私も本来であれば、この件の解決を最優先とすべきだと思うが……これからの時期、我々には避けて通れない務めがある」
ひっそりと瞑っていた瞼を片方だけ薄目に開き、リーシャはアルトの様子を窺う。
彼が王宮調理室秘伝のソースで味付けされた羊肉のステーキを頬張り、咀嚼し、砂糖で飽和寸前の紅茶で強引に呑み下すのを見届けた第二王女は、目の色を呆れに変えつつ続きを口にした。
「―――『イヴド祭』だ」
アンファール王国最大の祭典のひとつ、『イヴド・マルサの収穫祭』。
秋の実りへと感謝を捧げ、同時に来たるべき冬の時節の安寧を祈念する恒例行事だ。名称に冠される『イヴド』とは、アンファリス大陸に伝わる神話体系に登場する地名であり、また現在のアンファール王国の建国に携わった実在の人名でもある。
「……ハ。懐かしい名前だ」
「? まるで知り合いだったかのような口ぶりだ」
「何でもねェ。ンなことより早く続きを話せ」
「そうか。ついに『ペイラー』の名の秘密を喋る気になったと思ったんだが」
しばし沈黙が流れたが、10秒経つより先にリーシャが口を開いた。
「……いや、いい。余計な詮索だった。ではイヴド祭についてだが」
―――祭りの趣旨としては、初代アンファール国王アルティリアス・オルフェナウス=アンファールの盟友にして、元は農民出身だったという伝説の将軍、イヴド・マルサの華々しい経歴にあやかったものだ。
そのため、イヴド祭は豊穣を祝う収穫祭であると同時に、武練を司る総合闘技大会の全国杯も兼ねている――冷静に考えれば奇妙に思える組み合わせだが、イヴド祭が現在の形になったのは300年以上前の出来事であり、史料も少ないので実情は杳として知れない――のだ。
農家と飲食店が潤うのは当然として、総合闘技大会を見物しに王都へやって来る観光客も多い。毎年、イヴド祭の時季になると、王都の宿屋はどこも満室になるほどの盛況ぶりを見せる。
「いざ開催するとなれば、余程の事態が起きない限り、私たちはそちらの運営にかかりきりになる。当然、各方面から護衛を募るが、イヴド祭の開催期間中に私たちが取れる対策はそこまでだ。ガンドの件に表立って対処することは不可能と見ていい」
「やってる方はそんなに忙しいのか、アレ。知らなかった」
「私は反対したぞ? せめて規模を縮小して、こちらにもっと人員を割けないのかとも言った。だが、議会の年寄りどもがうるさくてな……。一度退けたはずの逆賊を恐れて歴史ある祭典を取り止めるなど、王国の威信に関わる。特に今年は建国より400年の節目だ。『鷲の会』も壊滅して久しいのだし、
「そいつァ良い、珍しく正論じゃねェか。近衛の連中にとっても、身内の恥を
「しかし、イヴド祭の開催を前提として王都の市民を全面的に守るとなれば、だ。近衛や臨時で雇う傭兵だけでは、手の回らない部分も出てくるだろう」
「世間体もあるしな。重武装の兵士が物々しい雰囲気で町のそこかしこに張り付いてたら、楽しい祭りのルンルン気分も台無しだ。で? 近衛の奴らを置いておけない場所ってのは?」
「主には2つ」
心底頭が痛いと言わんばかりに眉根に皺を寄せ、リーシャは懸念事項の在り処を伝えた。
「ひとつは、君もさっき言った亜人種たちの居住特区だ。彼らから譲歩の姿勢を引き出せたことは、王国のここ50年の歴史で最大の功績だが、それでも私たちを全面的に信用していない亜人は多い。ガンドほどではないが、人間の側にも現状をよく思っていない者も居る……。兵の増員は慎重に行わなければならん。こちらには特使を派遣して、警備体制の強化に同意してもらうよう協議する手筈になっている」
「ほォ。するってェと、もう片方が俺たちの出番か」
「もうひとつは、『アンファール国立パルミオーネ中央学園』―――王立学園だ。いや、魔術師ギルドの上層部に比べれば幾分マシなんだが、あそこはどうにも閉鎖的な体質で困る。学園長が『前途ある若者たちの為の学び舎を戦場にする気か』と言って聞かなくてな……。全く、いつも学園を警備しているのだって、セントマルクスの騎士なんだが……」
「かははっ……オイオイ、それこそ最先端技術と重要機密が山積みの魔術師ギルドならともかく、ひよっ子だらけの学園なんぞ狙っても何の得も無いんじゃねェの」
冗談めかして笑うアルトだったが、そこでふと思い当たる節があった。
普段からセントマルクスの騎士が警備しているなら、貴族家の子供が多く通っていることを差し引いても、増援の優先度はそれほどではない。
それもわけありの組織である査問会に打診を、ということであれば、尚のこと不自然である。
「……あァ、でもあそこは、学部によっちゃ兵士の訓練校も兼ねてるのか。政治屋どもの天下り先としても有力らしいな。近衛が古巣のガンドなら、ネズミを潜り込ませてそいつらをどうこうするのも不可能じゃねェ」
「つまりはそういうことだ。『鷲の乱』の前後で国内のガンド派閥は粗方片付けたと聞いているが、警戒するに越したことはない」
ティーカップを執事に下げさせたリーシャが、机上に肘をついて手を組んだ。
果たして―――宮廷魔術師アルト=ペイラーの剣呑な視線を真っ向から見つめ返せる人間が、この国に何人居るだろうか。
「この部屋には盗聴対策の結界が施してある。これは極秘の任務だ。受けてくれるな?」
「いいね。美人との蜜月だ。男冥利に尽きる」
「似合わない冗談はよせ。真面目に聞くように」
竹を割ったような返事をされたアルトは、普段の様子からは想像もつかないほど弱々しい苦笑を浮かべた。
元より、その圧倒的な腕力で望むものを手に入れてきたアルトには、こと弁舌の才能は乏しい。こういった場合において、アルトはリーシャに大きく出られないのだった。
彼は最強であっても無敵ではなく、魔導の究極を知ってはいても、全能の神ではない。
「対『鷲』捜査線はセントマルクス騎士団に引き継ぎ、しばらくは楽な仕事が欲しいと言っていたな」
「それは、まァ。何なら普通に休暇でもいいくらいだが」
「駄目だ、働け。望み通り楽はさせてやる。―――君には、魔術の講師として王立学園に潜入し、内情を探ってもらいたい」
「マジで言ってんの?」
明らかに動揺するアルトに対して、特に取り合う素振りも見せず、リーシャは滔々と話し続けた。
「視点の転換さ。正面からの捜査が行き詰まったなら、もっと外堀から埋めていくというだけのことだ」
「無視かよ」
「私は飛び級で卒業したから、そう思い出も無いが―――王立学園は貴族社会の縮図だ。しかしそれでいて、まだ世の道理を飲み込めていない子供たちの世界でもある。諸侯の家に動きがあれば、学園の生徒たちに影響が及ぶこともあるだろう。どんな些細なことでもいい、何か気付いたら報告してくれ」
「こいつ無敵か……!? いやまァ第二王女なんだし、確かにこの国じゃほぼ無敵だろうけど……!」
しばし、ふたりは無言で見つめ合う。
そして結論から言えば、アルトは他人を睨むのは得意でも、自分が睨まれるのは苦手だった。
「…………はァ。あー、クソ、わかったよ。やりゃあいいんだろ、やりゃあ」
アルトはナプキンで乱暴に口元を拭い、『ごちそうさま』と呟いて席から立ち上がった。
表情は再び人を食ったような笑みに戻っていたが、その眼には新たな使命――あるいは新たな戦場――に対する決意が燃えていた。
「それで?
「ん? それは、別に。君ひとりで行ってもらおうと思っているんだが」
「……は?」
「さっき君にはと言ったろう? 君以外の者は近衛の増援に充てる予定だ。『
「ふざけんな!! むしろその連中相手にどォして俺だけ外すんだよ!?」
「なに、気に病む必要はないぞ? さっきはそれらしい理屈を並べたが、正直なところ王立学園の線にはあまり期待していない。実際、先月には既に、ガンドの信奉者を1人捕えているじゃないか。他の候補と比べれば一番楽な相手だ」
「それは、そう……だが……ッ! つゥか、そうだ、お前とガイウスだけで
「ちなみにこの件は君以外の人員には通達済みだ。最初は不服そうにしている者も居たが、にっくきアルト室長の情けない面が見られると焚きつけたら、深い理由も聞かずにみんな飛び出していったよ」
「あいつら後でみんな殺す」
「それに、ちょうど魔術師ギルドから最新型の
「クソッ珍しくまともな仕事しやがって……!」
立ち上がったばかりの椅子に倒れ込むようにして座り直し、単騎にして王国最強の戦力の一角を担う宮廷魔術師は巨大な溜息をついた。だらりと背もたれに腕を預け、静かに天を仰ぐ。
「まぁ、そう悲観することばかりでもないだろう。自分が教わるばかりではなく、他者に教えようとして初めて学べることもある。君の立場なら本職ほどスケジュールを詰める必要も無い、休暇代わりのゲームだとでも思って挑戦すればいい」
「未来ある学生の領分をゲーム気分で侵害するなよ。……王立学園に入れる時点で優秀なのは間違いねェだろォが、半人前の学生なんぞに俺の魔法は盗めねェぜ。別段隠すもんでもねェけどよ。つーか……、そォいうのはシアにでも頼めよ。あいつなら喜んで披露してくれるはずだ」
「それは」
そこで、今日、初めてリーシャが言い募った。
彼女は思慮に長け、そして自分の目的のため、配慮や遠慮を理解した上で無視するタイプだが、それでも慎重にならざるを得なかった。
特にアルトの前で、あの者の話をする時は。
「……笑えない冗談はやめてくれ。5月の活性化の時も、方々から随分詰め寄られた」
「は。ンなこったろうと思ったよ。……悪ィ。あいつ共々、迷惑掛けた」
そう小さく零したアルトは、しばし虚空を見つめ続ける。
彼がこうして笑うでも怒るでもなく、ただ静かに佇んでいるのは珍しい。少なくとも、誰にでも今のような表情を晒す男ではない。
「……、……すまない。君に対して愚痴など、気を遣わせてしまったな。私たちにとって、どれほど剣呑な存在であろうと……牢の壁を隔てて引き裂かれた、君たちふたりの悲しみは理解できる。シア=ペイラーの処遇に関しては、今後とも可能な限り便宜を図ろう」
「あァ。頼む」
いつもの底意地の悪そうなにやつきはどこへやら、アルトはまるで別人のように穏やかな微笑を浮かべた。
自分は幸運だ、とリーシャは思う。彼が自分の言うことを聞いてくれる現状に、というだけではない。
"
「構わない。君たちだって、我らが王国の臣民なんだ。笑顔で居てくれるのが一番だよ」
言って、第二王女は流麗な
ともすれば世界の脅威になっていたかも知れない、この頼もしく危険な人物が、己の導きを受け容れて、アンファール王国の一員でいてくれること。
ひとりの人間を救えているらしいという事実が、リーシャにはただ嬉しかった。
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