第9話「暁星」

 まずはじめに、憎しみがあった。




 私は炎の中に居た。

 世界は鋼の壁に覆われ、私は弱く、小さくて、ただ焼かれるままとなっていた。


 何故か痛くはなかった気がする。目は見えなかった。耳も聞こえなかったし、肌なんてそなわっていたかもわからない。

 でも、ずっと胸が苦しくて、感じるすべてが憎かった。私は目も耳も肌も持たないままに、魂で世界と繋がっていた。無数の大火と怨嗟に満ちた世界を。


 憎悪と絶望に煮え滾る世界の中で、時折聞こえる声だけが救いだった。

 それは自分のことを、私の『母』だと名乗った。そして自身もまた、世界を焼く黒炎から生まれたモノであるとも。

 私がここから解き放たれた時には、母の黒炎を受け継いであらゆる命を蹂躙する存在になるのだと、そう教わって育った。

 知ってしまえば苦ではなかった。この憎しみ、胸の痛みが、いつか確かな意味を得る日が来る。今度は私がすべてを焼く番なのだ。




 しかし、そんな日は来なかった。


 ある時、何の前触れもなく、私は輪郭を与えられた。形なき炎でしかなかった私に、命としての形が生まれた。

 それはひどく窮屈で、不便で、明らかに私の生来の性質からズレており、想像していたものより遥かに弱々しい姿だった。

 堪えがたい不快感に身をよじると、ずっと私を包んでいた鋼の壁が、霞か幻だったみたいにほどけて消えた。


 重力に捕まって外界へと投げ出される直前、もう幾度目にもなる母上の声を聞いた。

 いつもよりか細く曖昧なそれは、生まれた時から聞いていた怨嗟の声ではなかった。

 すべてを憎み、奪い、焼き尽くし―――『我らの翼に世界を取り戻せ』という、母上の悲願の叫びではなかった。


 いかないで、と引き留められた。

 なぜ私たちを裏切るの? と問いかけられた。


 私は咄嗟に『違う』と言った。よっぽど母上のところに帰りたくなった。母上の腕の中から出たくなんてなかった。

 けれど時間の流れは止まってくれず、私を焼いていた黒炎の熱はどんどん冷えて失われていく。

 私は世界の寒さを知った。私と母上を引き裂く残酷さを心から憎んだ。それが、出来立ての頭蓋の内で生じた、一番最初の思考だった。


 そうか、と納得する吐息があった。

 あなたであれば、もしかしたら。残念そうな、しかし誇らしそうな微笑み。


 寒さは決定的になって、私の目は光を捉え始めた。耳は母上の声以外の音を拾い、肌には何かぬめりを感じる。

 黒い炎の如き憎しみはもはや無かった。私の心にあるのは、母上との別れを惜しむ気持ちだけだった。




 娘よ。

 竜の裔たる我が継嗣よ。

 汝が父にして母なる私の、最後の声を聞き届けたまえ。

 たとえ行く道を違えるとも、決して忘れることなかれ。


 ―――――私はあなたを、ずっと愛しています。




 私は、声を挙げて泣いた。


 それがアタシの生まれた日のこと。赤竜の娘が卵を出た、運命の日の話。




――――――――――――――――――――――――――――――




「よし」


 アタシとアルトが初めて会った時、あいつはそんな声を出していた。

 卵を破り、産声を上げ、泣き疲れて眠った後のことだ。


「生きてるな。ちゃんと生まれたか。頭は冴えてるか? おーい」


 ……なにせアタシは生まれたばかりで、人間の言葉など理解できない。

 ゆらゆらと振られるあいつの手の動きを、何となく目で追うくらいしか出来なかった。


「あァ? っかしーな……。おいおい、何のためにあんなクソ面倒なデータを拵えたと……だいいちヒューマノイド化手術なんて何回やってきたと思ってんだ、今さら失敗とか有り得ねェだろ」


「…………、……?」


「畜生ォ、俺の超絶素敵ドラゴンメイド計画が……! ゼドゲウスの野郎め、何百年経っても俺の邪魔をしやがる!!」


 当時はそもそも何を言っているか知らなかったわけだが、いま思い返しても割と何を言っているかよくわからなかった。

 後ほど聞いたところによると、アルトはアタシをもっと使い魔として教育するつもりだったが、そういう知識や何やらの刷り込みに失敗したので諦めたらしい。あのクズ……!


「ンンン~、確かに不可解ですねぇ。予測との乖離が大き過ぎます。ボスの魔力と私の術式の組み合わせ、装置の質、環境条件もほぼ最良でした。だというのにこれは……、何か我々の予想を超えたイレギュラーがあったのやも」


 そうまくし立てるのは、アルトの使い魔である幽霊ゴースト、ウーノ・レグレスだ。ただし正確には使い魔でもゴーストでもなく、対等な仕事仲間だという。

 まぁただのゴーストじゃないってことはアタシにもわかるな。ゴーストの中には服を着ていない変態もたまに居やがるが、全裸の上にあんな真っ白くて特徴が無いのっぺらぼうみたいのは他に見たことがない。


「イレギュラーねぇ。殿でそんなこと有り得るか? ジャックはともかく、バスコが気付かないわけがねェ」


「しかし、そうとも考えなければ辻褄が合いません。あるいは……母の愛、なんて線は如何です?」


「ハ。なるほどな、納得したよ」


 鼻で笑って、アルトは私の方を見た。

 椅子に座ったまま、しっかりこっちの目を覗き込んで。


 しばらくアルトとウーノの話し声が続いた。

 部屋は何の飾りも無い。白塗りの壁。茶色い木板の床。アタシが寝ているベッドを中心に、アタシから見て左に出入り口のドア、右に四角い窓。

 窓からは穏やかな陽の光が差しており、外には瑞々しい草原が広がっている。小さな花がいくつも咲いているのが窺えた。


 ややあって、近付いてくる足音。

 足音の主はコンコンコン、と3回ノックをし、アルトの『おう』という声を聞いてからドアを開けた。


「あら、目が覚めたのね。その子がうちの新入り?」


 口調は女性的だったが、アルトよりも背の高い痩せぎすの男だった。

 絵の具で染めたようなピンクの髪に、暗い血の色の紅で縁取られた唇と目元。肌が不健康そうに生白いのは化粧のせいで、また頬や顎に毒々しい色彩の紋様がある。

 左耳には3つの金属の環がついており、額の右の方にも鈍色の突起が2つ輝いている……が、あれは本物なのか、それともただの化粧なのか。怖くて未だに聞けていない。

 服装は鮮やかな紫と暗い赤紫のストライプのシャツに、黒い革のズボン。それから焦げ茶のブーツ。


「初めまして、子竜ちゃん。ワタシはラミエラ・ペスカトーレよ。この人、アルト室長の部下で斥候スカウト担当。これからよろしくね」


 全体的に妖しげな雰囲気、しかし一つ一つの動作は優雅でたおやかで、その落差ギャップが何故かかえって安心できた。

 あとなんか良い匂いする。花だか香だか知らないけど。いつもそこらの女よりよっぽど身だしなみに気を遣っている人なのだ。


「おう、新しい……のつもりだったんだけどな。ちょっと雲行きが怪しくなってきてよ……。俺が手ずから調教するより、ちゃんとした教育係を付けた方が良さそうだ」


「ふふっ、それって……結局いつものパターンじゃない? わかったわ、ワタシとガイウスで面倒見るわね。オリエやダイン、ニーアとも会わせてあげなきゃ」


「頼んだ。あ、それからウーノ、お前は余計な手出しすんなよ。俺はよォ……オリエの情操教育が失敗したのは、9割9分9厘お前のせいだと睨んでんだ」


「ええぇ!? ちょっとボスそれは酷いんじゃあありませんか!? 私、ゼドゲウスの卵を安全に処理した立役者の一人ですよねぇ!? だいたい今の彼女の状態には気になる点が多々ありますッ、経過を観察しなければ……!」


 やいのやいのと盛り上がる3人をよそに、アタシの胸をチクリと刺すものがあった。

 ゼドゲウス。卵。―――アタシが生まれた時のこと。アタシが一体、何者なのか。


「そういえば、名前はどうするの? この子の名前。まさかゼドゲウス・ジュニアとは呼べないわよね」


「うん? あァ、それはちょっと前から決めてある」


 名前。

 本来なら母上から受け取るはずだった、最初の贈り物。

 アタシを導く始まりの言葉が、アルト・ディエゴ=ペイラーより告げられる。


「―――リンゼ、だ。リンゼ=ペイラー」


 その頃のアタシは人間の言葉どころか、言語という概念すら知らなくて。

 けれど、あいつが呟いたその音の羅列が、これからアタシが過ごす時間すべてに関わってくる、特別なものだということはわかった。


「リンゼ……不思議な響きね。東方大陸シエトラム語? どんな字を書くのかしら」


リング世界ワールド。災厄の時代に生まれ、この新世界に生きるもの。世界の輪廻を超えたもの。だから『輪世リンゼ』」


「素敵な名前だわ」


「……えぇ。本当に」


 アタシは、リンゼ。

 赤竜ゼドゲウスの娘、リンゼ=ペイラー。




――――――――――――――――――――――――――――――




「力の振るい方を知りなさい」


 ガイウスのおやっさんはそう言った。

 アルトたち『王室特務査問会』の仲間内では一番の下っ端だが、世間一般ではそこそこ名が通っているらしく、査問会と政府――人間の世界を治めている連中――の橋渡しのような役目をしているらしい。


「よいか、リンゼ。君が他者よりも強い力を持って生まれたのは、その力で皆を助けるためだ。力ある者の責務とは、ペイラー卿のような……、その……まぁ査問会の連中はちょっと自分の欲望に正直すぎるというか……しかし、彼らはあれでも国益に適った行いをしていて……すまない、彼らは悪い例なので忘れるといい。もしくは反面教師にしたまえ」


「うす」


 仕事と言っても、おやっさんはいつもこんな感じだ。

 アルトたち査問会は、優秀で変えの利かない能力を持つが、性格に難があって人間の社会からあぶれたような問題児の集まりだ。

 そんな査問会が馬鹿をやる度にあちこち謝りに行って、その度にアルトたちへ小難しい説教をする。それがおやっさんの仕事。


「とにかく……そう、君のその素晴らしい力は、正しく使われなければならない。私は魔族崇拝者ではないが、彼らの主張の中に興味深い考え方があってね」


 アタシは何か悪いことをしたわけではないけど、この赤竜ゼドゲウスから受け継いだ炎の魔力は物凄く危険なものだ。

 だからおやっさんはこうして、アタシに力の使い方を教えてくれる。


「大いなる災厄の時代、地上はかつてないほどの荒廃に見舞われた。主な原因は世界的な魔物の大量発生スタンピードだが、それにもきっと元々の理由があったに違いない。一説には―――当時、あまりにも繁栄し過ぎていた人類が、驕り高ぶるままに世界を、自然を、野の獣たちを蹂躙し……それに罰を与えるために、神が創り出した災いこそが、魔物であったのだと」


 知識としてはピンと来なかったが、妙に納得のいく話だった。

 この頃にはもうかなり古い記憶になっていたものの、アタシが卵の頃に感じていた憎しみ……母上が訴えていた嘆きの正体が、少しだけわかったような気がした。


「似たような話は人類の歴史上にも見られる。悪政によって血税を搾り取り、私腹を肥やしていた暗君が、怒れる民衆に叛逆されたという例は枚挙に暇がない。力は、正しく使わねば、他者以上に自らを滅ぼすのだ」


「はぁ。あれ、でも、アルトたちはいいんすか」


「むぅ、……そう聞かれると困るが、まぁ彼らも根っからの悪人というわけではないからな。天運から見放されない、ギリギリのところで自制しているのではなかろうか……。あぁリンゼ、繰り返すようだが君は真似しないように! 君は、君だけは私の味方だと信じているぞ……!」


「う、うす」


 何にせよ、悪いことはできねぇなぁ。ガイウスのおやっさんのためにも……。

 アタシは素直にそう思った。




――――――――――――――――――――――――――――――




 あの夜、夢を見た。




 夢の中のアタシは、伝説に名高い赤竜ゼドゲウスそのもので、炎の海と雷の嵐を従えていた。

 地を焼き、天を引き裂いて、世界は私の黒炎に包まれた。すべてが燃え朽ち、塵になって消え去った。


 アタシは時の果てに居た。

 有り得たかも知れない歴史。ゼドゲウスが求めた結末。終焉の夢。


 そして、痛み無き痛みがあった。

 いつしか私の頭部は私の身体から切り離され、荒廃した大地に崩れ落ちていた。


 これは夢だ。私が見た幻想だ。理想の幻影の中ですら、私にはを殺すことが出来なかった。

 私が願いを果たしても、最後には彼がやってくる。銀の髪の彼が、私を討ちに現れる。


「私の」


 口が動いた。半ばから断ち切られているはずの喉から、音が鳴った。

 今やアタシは知っている。私の叫びの意味も。それを伝えるための言葉も。


「私の勝ちだ。すべては終わった」


「―――そうだな」


「故に、人の子よ。問おう」


 見定めなければならない。

 もはや朽ちいくだけの魂の残滓と成り果てても、私にはやるべきことがある。

 比類なき破壊の化身であった私が、末期に創造したものの意味を、私は知らねばならない。


「かつてお前に殺された私たちに、私が殺したお前たちに……彼らの命に、生涯に、意味はあったか? ここには何も残らなかったぞ。子供一匹、骨一つ、死に際の言葉さえも。それは、そのようなモノたちは……もはや本当に存在したかも定かではない。漂う煙と同じ、吹き散らせば消えてなくなるもの。たとえ私が潰えても―――いつか世界は辿り着く。ここがその最果てだ」


「そうかも知れないな」


 ―――名も知らぬ剣士アルト=ペイラーの答えは、簡潔にして明白だった。


「あァ―――。全部無駄だった。どうにもならなかった。『生きる』ってのは、何にもならなくて……どう取り繕っても馬鹿馬鹿しくて、悲しいだけだ」


 そう独りごちる彼の表情かおには、何も浮かんでいなかった。

 どこまでも広く、平坦に凪いだ海面の如く、すべてが死に絶えたこの大地のように。


「実際、それで当然なんだ。あらゆる宇宙は虚無から生まれる。生き物の命も心も、単なる物理現象で説明がつく。俺たちが必死で思い込みたがってるほど高尚な存在じゃない」


 魔法使いは既にそのことを識っており、この最果ての風景もまた、やがて訪れる未来として予期しているようだった。


「形あるものはいつか滅ぶんだ。だから俺たちの命にも人生にも、大した意味なんざありゃしない。残るものなんて一つも無ェ」


 世界は暗く憂鬱で、冷たい真実に満たされている。

 私の炎でも焼き尽くせないほどの、空虚な寒々しさに。


「けどな。ただ、みんな……みんな、それを認めるのが嫌で。悲しいだけで世界を閉じるのが嫌で」


 彼は肯定した。

 胸の内に極大の暗黒を抱えたまま、命の無意味さを肯定した上で、それでも悲しみはしないと決意している。


「自分が生きていた意味は、確かにあったんだと―――そう思える何かを見つけるために、みんな今日も生きている」


 地平線の彼方に、輝ける太陽が顔を出した。

 荒野に注ぐ温かな光の中で、私は―――――。




――――――――――――――――――――――――――――――




 その炎は、煌々と燃え盛っている。

 真紅の怒りが闇を払う。悠久の時を超えて、大いなる咆哮がこだまする。目も眩むような赤光が、伝説の記憶を呼び覚まして形を得る。


 灼熱するドラゴン顎門あぎとがそこに顕現した。

 喉奥から迸る絶叫は、凄まじい業火を伴って大気を爆砕し、空を覆う黒雲をバラバラに引き裂いた。


 炎で編まれた竜の首級を右肩に乗せ、黄昏色の髪の少女が大地に立つ。

 こめかみには双角。四肢には鱗と爪。背には翼。腰には尾。半人半魔の異形は、しかし暴力的なまでに力強く美しい。


「―――――ノエル」


 快活そうで勝ち気な……いや、気高き血を引く者の声で、リンゼ=ペイラーが語りかける。

 胸に温かいものを感じる。全身に染み込む怖気が、熱に溶かされてほどけていく。わたしの心にも火が灯ったようだった。


「生き物ってのはよぉ、生まれ方を選べないように出来てんだ。あと、育てられ方もな! つーかそんなこと言い出したら、何だって思い通りになることのほうが少ねぇんだけどさっ」


「……き……、貴様ァッ!! なんだその力は!? ドラゴンだと? 馬鹿な……お前たち竜の一族は、大災厄の終わりと共に衰退し、東の谷へと追いやられたはず!」


「でも。……でもだぜ。お前にだって一人や二人居んだろ、心の底から好きな奴が。大切にしたいって思える人が」


「おのれ!! おのれおのれおのれッ、僕の、邪魔をぉ! するなあアァ!!」


 リンゼさんの炎と、プルウィウスの雷が激突する。

 赤竜の娘としての力を解放したリンゼさんにとっては、万物を砕く妖精王の雷霆でさえ、もはや決定打にはならない。


「いいかノエル!! お前が人間だの妖精だの、そんなもん! だから……だから!」


 握った拳に、太陽の如き輝きが宿る。

 若き竜人は赤銅の翼をいっぱいに広げ、鋭利な脚爪で大地を噛む。


「テメェにとって何が大切かくらい! そいつだけは自分で選べ! お前の『好き』は、お前が決めろッ―――!!」


 轟音と爆炎が森中を揺らし、紅の咆哮が空を駆けた。

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