第9話 およげ! ところてんくん

 それからはもう毎日が矢のごとく過ぎ去っていった。

 なんどとなく二人にピンチが襲いかかった。

 体育の跳び箱に失敗して両手両足が曲がってはいけない方向に曲がってしまったり。

 化学の実験で薬品をこぼして全身が蒸発しかかったり。

 調理実習でなにも食べることができないことに人知れず号泣した夜もあった。

 それでもなんとか苦境を乗り越え、二人はクラスメイトや教師たちに「なんか最近急に仲良くなってアヤシイ」という以外は特段怪しまれることなく日々を過ごしてきた。

 そんな二人に最大の危機がおとずれたのは七月十六日の月曜日。あと十日ほどで一学期も終わりというときのことだった。

 この日、仁は珍しく一人で先にくずきり荘に帰っていた。

 天音が放課後、職員室に呼び出されたためだ。

 少々心配しながらも、彼女の好物のかき氷の準備をしつつ彼女の帰りを待つ。

 ――およそ一時間後。

「あっ。おかえりなさい」

 天音がようやっと姿を現す。

 チャイムを鳴らすことなく鍵穴からニュルっと入って来るのがなぜか恒例となっていた。

「ただいまですー……」

 いつもならば明るく爽やかな声で挨拶してくれる彼女だがこの日は少々声に張りがなかった。

「ま、まずいことになっちゃいました実は――」

「まあまあ。まずはかき氷でも食べて落ち着いて下さい」

 仁がそういうと天音は一旦呼吸を整えて、軽く跳びはねながら彼の対面のローテ―ブルに腰を下ろした。(『腰』はないが)

「で、どうだったのですか? 尾崎先生はなんと」

 なんどか登場しているが、尾崎一美先生は央成学園の体育教師だ。今年で五年目の二十八歳。水泳部の顧問も務めている。爽やかで気風がよく、それでいて細やかな心遣いのできる性格で、男女問わず大変人気があった。

「あのー。私ずっと水泳の授業見学してるじゃないですか」

「その件については尾崎先生の了承済みなのでは?」

「カラダの悩みがあるから水泳の授業は見学したい」と申し出たところ、深く理由を追及することなく承知してくれたと天音は言っていた。

 ちなみにカラダの悩みというのはいうまでもなく、プールに入ると体が溶けだすかもしれない。というものだ。

「そうなんですけど、それで成績をつけてはいかんと学年主任の中山先生に言われてしまったそうで」

「なるほど……まあそれはそうでしょうねえ……」

「それで、水泳のテストだけはどこか人のいないタイミングでやりたいと」

「いつですか?」

「放課後は水泳部が遅くまで使うので土曜日はどうかと」

「それまでになんとかするしかないですね」

「でもどうしたらいいか」

 仁は腕組んで天井を見上げる。

 天音はまんまるになって部屋の中をころがった。

 ――五分ほどの沈黙ののち仁がつぶやく。

「あいつに相談するしかないかなあ」

「あいつ?」天音がカラダで『?』のマークを作る。

「天音さん。もしあなたの秘密を一人にだけ話していいのであれば解決のアテはあります」

「どなたですか?」

「葉月レイってご存知ですか?」

「あー! もちろん知ってますよ。一年のときからずっと成績トップの方ですよね」

「ええ。その葉月レイで合ってます。実はねえ。僕の幼馴染みなんです」

「そうなの!?」

 天音は体をわざわざ二つに分割させ『!?』を形づくった。

「子供の頃父親につきあって世界を旅してたって言ったじゃないですか。たしか僕が七歳のときだったかな? ウガンダという国を旅していたときに、テロリストの襲撃で両親を亡くしたレイをウチの父が引き取ってそのまま一緒に旅をしていたんです」

「へ、へえええええ……」

「日本人っぽくない見た目なのはそのためですね。一応日本人とのハーフなのですが」

「実は名前を知っているだけで直接見たことはないのですが……なるほどですね。それにしてもすごい人生をおくってらっしゃる」

 彼女は体をぷるんぷるんと揺らしながらしきりに感心していた。

 波乱万丈さでは彼女も負けてはいない。と仁は思った。

「彼は僕と違ってものすごくアタマがよくてですね。特に科学方面での才能がピカ一で父にもいろいろと教わっていました。まあ父の弟子といってもいいですね」

 天音にも話が見えてきたようだ。

「どうですか? 彼を信用頂けるのであれば相談してみますが」

「あなたが信用するのであれば私も信用します」

 と彼女はにっこりと微笑む――代わりに体の一部をぷるんと触手状に伸ばし、ハートマークを作って見せた。

「ありがとうございます。では明日の放課後さっそく相談に行きましょう」

「ねえねえ。葉月さんってどういう人なんですか」

「そうですねえ。ひとことでいうと変わり者です。育った環境が環境だから仕方がないですけどアレはかわってる。イイ奴ではあるが」

 仁がそのように述べると、天音はクスクスと笑いを発した。

「変わり者ねえ。ふふふ。でもキミも相当変わってると思うよ」

「そ、そんなことないですよ!」

「変わってる人はみんなそういうの!」

「えーーー? でもそんなこと言ったら天音さんだって――あ、いえ」

「忘れて! あのことは忘れて!」

 天音は体中を真っ赤にしてぷくーっと膨れ上がった。

「ご、ごめんなさい! でもね。気になさることはないと思います! あの一件のおかげでなんというか雲の上の存在だと思っていたあなたに親近感がわきましたし……」

「えっ!? それってつまり……あなたもBLに興味が湧いてきたってこと!?」

「えっ!? そういうわけでは――」

「わかった! じゃあ貸す! 貸してあげるよ! まずは初心者向けに男の娘ものとか――」

 などといいながら彼女はすごいスピードでピョンピョンと跳ねながら自室に戻り――

「ホラ! オススメのやつ持ってきたで!」

 仁の部屋にどさどさといわゆる『商業BL』を投擲していった。

「この作品の受けがいかにも仁くんがスキそうなカンジでなー♪」


 翌日の放課後。

 二人は葉月レイが所属する「第二科学部」の活動場所である、旧校舎多目的室に向かった。

「旧校舎って初めて来ました。けっこう不気味ってゆうか……」

 天音はオズオズとした様子で仁の袖を掴んで歩く。

 利用している生徒が少ないせいか、ほとんどの教室や廊下に電気が灯っておらず、窓も少ないので全体的に明度が低い。さらに廊下の掃除も行き届いていないためところどころ蜘蛛の巣が張っているような状態だ。たしかに不気味といえば不気味である。

「ところが。中はもっと不気味なんですよねえ」

 仁が『第二科学部』と張り紙がされたドアをノックすると、

「は~い……」

 ダウナーな印象の低い声が帰ってきた。

「開けるぞー」

 ドアを開くとそこには異様な空間が広がっていた。

 窓がなく照明も薄暗い部屋はとにかく散らかり方というか物の量がハンパではない。わけわからん大量のコードがヘビのように地を這い、壁一面に飾られているのはごついエアガン。カラフルな液体の入ったでっかい試験官、なぞの生物のホルマリン漬け、さらには等身大のロボットなんぞが雑然と置かれている。それでいて冷蔵庫にガスコンロにポット、テレビやゲーム機、さらにキャットフードなど生活感に溢れるものもごちゃまぜになっておりまさにカオス状態だ。

 だが。そんなことよりも天音が一番驚いたのは。

(ふわああああ! カワイイいいいい!)

 葉月レイは部屋の奥に置かれた、社長室にあるような豪華な机に座りゲームをしていた。

 まず目がいくのはその美しい金髪。髪型はアタマの後ろでテキトウに結んだような無造作なポニテールだが、その質感は本物の金を伸ばしたようにサラサラで金粉でも飛びそうだ。

(それに……キレイな褐色のお肌……羨ましい……)

 そのツヤのある褐色の肌は彼の印象を神秘的でエキゾチックなものにしていた。完璧に整った二重瞼の目元と、吸い込まれそうなほど深い黒色の瞳も彼の神秘性を大いに高めている。それでいてこの学校の制服である紺色のセーラー服が実によく似合っているから不思議だ。

「は、初めまして。私、関町くんと同じクラスの西桜所天音と申します」

 葉月は一瞬だけ天音の顔を見て、すぐまたゲームに視線を戻した。

「葉月さんって女性だったんですね。わたし勝手に男性だと思ってました」

 それを聞いた仁はなぜか顔を真っ赤にしてアタマを抱える。

 そして彼には非常に珍しいことに、レイをにらみつけながら怒鳴り声を上げた。

「レイ! だからなんども言っているだろう! 女子の制服を着るな!」

「――――――ええええええ!?」

「だって。スカート涼しいんだもん。誰もいないんだからどんな格好したっていいじゃん」

 仁はオーマイガッとアタマを抱える。

(――ひゃああああ! 仁くんの言う通り、変わってるなァ)

「とりあえずそこ座ったら? 立たれてるとなんかウザイ」

「あ、すいません」

「やれやれ……」

 二人はレイの対面に並んで座った。

「メッコー。コーヒー入れてやって」

 するとミャアという声がして、机の下から手のひらサイズの小猫が現れた。

 レイがカップにインスタントコーヒーの粉を注ぎポットの下に置くと、メッコーは立ち上がって『給湯』ボタンを押してコーヒ淹れてくれた。

「すごーい! かわいい!」

「さすがだな。まあ僕たちのサバイバル生活において動物を手なずける『懐獣術』は必須の技術でしたからね。僕も彼ほどじゃないができますよ」

「へええ~」

 メッコーはレイのアタマにピョンと飛び乗った。

「で? なんか用なの? 用があるときしか会いに来ないんだから仁は」

「あっそうそう。えーっと――」

 仁はこれまでの経緯、そしてプールのテストを凌ぐ方法がないか相談しにきたということを説明する。

 レイは終始呆れた表情でその話を聞いていた。

「バッカじゃないの? なんでそんなもの食べるかなあ?」

 と天音をじとっとした目付きで見る。

「ご、ごめんなさい!」

 天音は顔を赤くしながらアタマを下げた。

「しかも段ボール一箱分って。ジャイアント白田なの?」

「じゃ、じゃ……」

 さらに顔がゆでだこのようになる天音。

 見かねた仁が仲裁に入った。

「ちょっと手加減してくれよレイ。俺たちとて反省してるんだ」

「……ふん。まあいいよ。ようするに水を弾けばいいんでしょ? どうにかなるよ」

「本当か! 助かるよ!」

 仁がレイの手を握る。レイは即座にそいつ振り払った。

「なんだよ仁。随分嬉しそうじゃん」

「そりゃそうだろ」

 レイは――フンと溜息をついた。

「まあいいけど。でも今週の土曜日に間に合うかはわかんないよ」

「その場合なんとか延期してもらうから大丈夫」

「あっそ。じゃあ来年でいい?」

「おいおい! ひねくれるなよ! 昔っからおまえは――」

「わかったわかった。うっさいなー。用が済んだならもう帰れば?」


 ――帰り道。

「まああんな感じのキャラですけど、科学者としてのウデは本当に確かですので。なにせ父が自分以上の才能と認めるくらいですから」

 夕陽が照らす商店街を二人で並んで歩く。

「思った以上に変わってらっしゃる感じでしたね……」

「ええ。主にジェンダー面で」

「あの……もしかして仁さんがBLい興味を持たれたのって、彼の存在があるから……」

「カンベンしてくださいよ」

 今日も例の仁の袖を天音が掴むスタイルである。

「それと。天音さんに対して失礼が御座いまして申し訳ございません……根はイイヤツなのですがどうも口が……」

「いえいえ。私、彼キライじゃないですよ。なんかカワイイなって」

「そうですか?」

 仁は首を捻る。

「きっと関町くんを取られるって思っちゃったんでしょうね」

「あー。昔からそういうところはありますね」

「はっ! もしかすると仁くんのこと本当に!? だとしたらテンション上がるなあああああああああああああああ!」

「上がりすぎです! みんな見てますよ!」


 ――そしてあっという間に土曜日の朝。

「レイのヤツ。遅いなあ」

 二人は仁の部屋で来客を待っていた。

「それにしてもあっついですねえ……今日」

「冷房の温度下げましょうか?」

 天音は今日の『試験』に備えて人間形態に変身。制服の下にスクール水着を着こんでいた。暑いのも当然と言えよう。

「そういえば」

 天音がスプライトをストローで飲みながら尋ねる。

「関町さんと葉月さんってなんで一緒に住んでないんですかね? ずっと一緒に生活してきたんでしょう?」

「僕はそれでもいいんですが、彼が一緒に住みたがらないんです」

「ふうむ。乙女心は複雑ですね」

 ――そうこうしている内にインターホンが鳴った。

「おっ。来たかな?」

 ドアを開くとレイが無表情で立っている。

「……おまえはまたそんな格好を」

「なにが?」

 彼はフードにネコミミのようなものがついた赤いノースリーブパーカーに、パーカーの裾でほとんど隠れてしまっているくらい短いショートパンツ、ニーソックスという格好だった。

「まあいいんだけどさ。似合ってはいるし」

 レイはずかずかと部屋に入ると、テーブルの上に粘液が入ったガラス瓶を置いた。

「オヨゲールくん。これ塗りたくれば大丈夫だよ」

 天音はなんどもアタマを下げてレイにお礼を言った。

「ありがとうレイ! じゃあ行きましょうか」

 仁は立ち上がってカバンを肩にかけた。

「えっ? 付き添ってくれるんですか?」

「当たり前じゃないですか」

「うーん……ありがたいけど……。ちょっと恥ずかしいな……。でもまあいいか」

 天音は眉間をつまみながら苦笑いをしてみせた。

 どんどん細かい感情表現が板についているようだ。

「レイはどうする?」

「おもしろそうだから行く」


 三人は学校のプールに到着した。

 二十五メートルのコースが四レーンというオーソドックな構成。プールサイドにはシャワーや目を洗う用の二股に別れた水道、それから男子更衣室と女子更衣室も並んで設置されている。

 天気は雲ひとつない快晴。絶好のプール日和だ。

「まだ尾崎は来ないみたいだね」

 レイが手を口に当てて欠伸をしながらそのように呟いた。

「今の内に着替えてしまった方がいいんじゃないですか? オヨゲールくんも塗らなくてはいけませんし」

「そ、そうですね!」

 天音は女子更衣室に駆けこんだ。

「行っちゃった……」

「けっこう素早いねあの子」

 ――残された男二人はプールサイドに立ち尽くす。

 更衣室から聞こえる衣擦れの音。そして。

「んんんん――! アん……! うぅぅぅぅ!」

 なにやら押し殺したような声が聞こえる。

「なんであいつ喘いでるの?」

「……あの体、敏感なんだって」

「なにそわそわしてるの? ちんぽ立ってるんじゃないの?」

 などと仁の下半身をソフトタッチで触る。

「おまえな。その見た目で男性にそういうことをするな。キケンだぞ。ちょっと嬉しいけど」

「なに言ってんだか」

 レイは小さく舌打ち。そして。

「ねえ。仁。キミはあの子のこと――」

「すいませ~~~~ん」

 レイの言葉を遮るように天音の半泣きの声が響く。

「ど、どうされましたか?」

「背中が上手く塗れなくて……その……お願いしたいことが……」

「それはつまり……」

 仁は手を振るわせながらも女子更衣室の扉をガチャっと開いた。

「おお……これは……」

 女子更衣室からは強烈な塩素の臭いと汗の臭い、そしてほのかに香水の匂いがした。

「あの……」

 それから。

「全く見るなとはいいませんけど……。なるべく視線を控えめにして頂けると有難いのです……」

 スクール水着姿の天音がそこに立っていた。

 体の前面はすでにヌルヌル。

 ピチピチの素材も相まって猛烈に体のラインを浮かび上がらせていた。

(意外とスタイルがいいのは気づいてたけど……こんな爆弾を隠し持っていたなんて……!)

「ああもう! 凝視するにもほどがあります! いいから早く塗って!」

 オヨゲールくんの瓶を押し付けるように手渡した。

「で、では後ろをむいてください」

「うん……」

(うわあ……うしろ姿もよろしいなあコレぇ……)

 特にその結構大胆に露出した背中。肩甲骨のラインがなんともセクシーだ。

 それに水泳キャップを被るためか、髪をお団子状に結んでいるため露わになったうなじ。

 また、仁は斜め後ろの角度から見える胸のふくらみが大変スキであった。

「は、早くぅ!」

「はい! やります!」

 仁がオヨゲールくんを手に取って背中に掌を這わせると――

「あ、あ、あ、あ、やああぁぁ……! くッツ! んんんんん!」

(無だ! 下半身を無に! あっ……ムリかもしんない)

 準備完了して更衣室を出た瞬間の、レイの侮蔑の表情は忘れられないものであった。


(頑張れ西桜所さん……!)

 仁とレイは男子更衣室のドアのスキマからプールを覗いていた。

 水着姿でたった一人プールサイドに立ち尽くす天音。そこへ。

「よお! 待たせたな」

 競泳水着姿の尾崎先生が現れた。さすが元水泳選手の水泳部顧問。よく似合っている。

 更衣室を使った気配が全くなかったが、まさか職員室からあの格好で来たのであろうか。

(尾崎先生やっぱりかっこいいな)

(ふん……女ならだれでもいいのかよ)

「よお天音。準備万端じゃん。おーやっぱりJKのスク水姿はいいねえ」

 そういって後ろから胸をわしづかみにした。

(あっ……!?)

 天音の凄まじい悲鳴が響く。

「や、辞めて下さい!」

 尾崎先生は驚きの目で自分のてのひらを見つめた。

「なにコレ……イミわからんくらい柔らかい……それになんでこんなにぬるぬるしてんの?」

(まずい……!)

(あーあ)

「えーっと……。そ、そういう体質なんです!」

「なるほど……それで水泳見学してたのね」

 ……やや語弊があるが間違いではない。天音は首肯する。

「なるほどなー」

「と、とにかく! 早く始めましょうよぉ!」

「わかった! でもその前に」

「なんですか?」

「もう一回触らせて!」

「ダメです!」


「位置についてー! よーい!」

 ゴール地点で尾崎先生が右手を挙げる。

 天音は飛び込みの体勢で待機。

(なあ。レイ。本当に大丈夫なんだよなあ?)

(たぶんね)

「スタート!」

 天音は合図と共に思い切りよく飛び込み、プールの水面に着水――するかに思われたが。

(――――あれ!?)

(あっちゃー)

 天音の体は着水することなく、水面で一瞬ぷるんと跳ねると、

「きゃあああああああああ!」

 ペンギンが氷上を滑るがごとく、つるーっと水面を滑り出した。

(ありゃあオヨゲールくん塗り過ぎだよ。水を完全に弾いちゃってる)

(しまったああああ!)

 天音は悲鳴を上げながらものすごいスピードでゴール方向に突っ込んでいき、

「――あいたァ!」

 プールのヘリにアタマをぶつけた。

 尾崎先生は水泳部顧問の習性で、ほとんど反射的にストップウォッチを止める。

「……十一秒九九!?」

 これは通常であればオリンピック級のタイムである。

(あーあ。どうすんのこれ?)

(頑張れ! なんとか誤魔化せ! 西桜所さん!)

「おい! 天音! 水泳部に入らねえか!? いや! 絶対入ったほうがいい! おまえならオリンピック金メダルも夢じゃ――」


「はあ……エライ目にあいましたね」

 空はオレンジ色に染まっていた。三人が学校を後にしたのはなんと夕方の十八時半。尾崎先生の勧誘はおよそ八時間にも及んだという。

「職員室に軟禁されての八時間……永遠にしか感じられなかったです」

 先生が提示する契約金はドンドン釣り上がっていき、最終的にはウチの息子(四歳)を婿に取らすというところまでいっていた。

「でもまあ無事に済んでよかったです」

 仁と天音が並んで歩き、その後ろをレイがついてくる。

「助け船をいれてくれてありがとうございます。あなたがいなかったらまじで水泳部に入れられてたかも」

「いえいえ。当然のことしたまでです」

「なにかお礼をさせてください」

「そうですねえ。それなら勉強を見て欲しいです。もうすぐ期末試験でしょう? 現代文がちょっと苦手で」

「お安いごようです」

「ありがとうございます。でも本当にお礼をいうべきなのは――アレ?」

 レイはいつのまにか姿を消していた。

 なぜだか仁の胸がチクりと痛んだ。

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