第3話 究極の透明感

 ――翌朝。

 仁はなにかほんのわずかなしびれのような感覚で目を覚ました。

(なんだろうコレは)

 しびれの発生源はどうやら自分の右手らしい。右手だけが自分の体ではないような感覚。

 寝ている間に変なふうに圧迫されて痺れてしまったのだろうか。

 仁は軽くマッサージをしようと考え、左手で右手を軽く揉んだ。

 ――すると。

(うわ……なんだこの感覚……)

 左手で触った右手はなぜか異様に柔らかく、ぷるぷるとした感触だった。

 仁はなぜか怖くなり、左手を離す。

(まずいかもしれない。続くようだったら病院に――)

 しかし。そのしびれのような感覚は五分ほどでキレイさっぱりなくなった。

 左手で右手を触ってみても固くてゴツゴツしているのみ。

(なんだったんだろう? まあいいか)

 仁は冷や汗が染みた上着を脱ぎ捨て、歯ブラシと歯磨き粉を取りに洗面所に向かった。


 玄関近くのシンクで本日(六月二十四日・日曜日)の予定を考えながら、上半身裸でシャカシャカと右手を動かしていると――

(ん……?)

 玄関に異変――。

 もっと詳しく言えば――玄関扉のカギ穴に異変が起こっている。

(な、なんだ!?)

 カギ穴からなにか透明なのものがチュルチュルと下に垂れるようにして飛び出してきている。最初は水かと思ったがそうではない。粘性のあるゲル状の物質だ。

 そのぷるぷるした物体の噴出はドンドン勢いを強め、玄関の床を侵食してゆく。

 ――仁は放心のあまり、歯ブラシを床に落っことした。

「な、な、な……」

 ぷるぷるはなおも噴出し続けている。ついにそれはこんもりと重なって玄関に透明でぷるぷるで丸い形の小山を作りあげ始めた。

「ス、スライムが現れた!」

 カギ穴からの噴出がようやく終わったころ。ぷるぷるは直径五十センチほどの球体となっていた。「バランスボール」くらいの大きさというと透明っぷり含めて理解しやすいだろうか。

 仁はしのびあしで近づいて、その物体を凝視した。

 ――目を擦ってもう一回見る。

 どうやら幻覚ではないらしい。

(どうする……? 逃げるか……!? でも玄関を通らないといけないし……そうだ窓から飛び降りれば……)

 などと考えていると。

「――あのぉ」

 どこからか、か細い声が聞こえた。

 まさかとは思ったがその声は――

「すいません、チャイムが上手く押せなかったので入ってきちゃいました」

 ぷるぷるの物体が発していた。

「ギャアアアアアアアアア! シャベッタアアアアアアアアアア!」

 仁は思いきり後ずさった。――その拍子に。

「うわっ!」

 さっき落とした歯ブラシをふみつけ、前につんのめるように倒れた。

 ――その結果。

 仁はぷるぷるの物体に顔面から突っ込んだ。

「――――――――!? なんだコレは――――――!?」

 これまで味わったことのない感覚が仁の上半身を刺激する。

(き、きもちいいいいいいぃぃぃぃぃぃ!)

 この世の物とは思えないほどの柔らかさ。それでいて絶妙に体を押し返してくる弾力。そしてなにより肌に吸い付いてくるような触感。特に唇に吸い付く感覚は官能的ですらあった。

 あまりの快感に、無意識に体をおしつけてしまう。

「んんん…………!? あッ……ンン……アッ……! ッッ……!」

(ん? なんだこの声は……?)

「や、やめて下さい! 降りて!」

 再び物体から声が発せられ――

「あ、熱ウウウゥゥゥ!」

 物体は体を赤く変色させ、凄まじい熱を放った。

 仁は両手をついて立ち上がり、熱源から体を離すと、勢い余ってそのまま後ろに倒れた。

「ご、ごめんなさい! 関町くん! 大丈夫ですか!?」

「――へっ!?」

 仁は起き上がって物体を見た。

「なんで僕の名前を……? ってゆうか! その声は!」

「あの……とても信じられないかと思うのですが。わたくしの名前は西桜所天音と申します」

 物体……いや天音はぷるんぷるんと飛び跳ねて見せた。

 そんな場合ではないのだが、仁はその様子を見て――

(なんかカワイイ。それに。ちょっとエッチな感じがする……)

 などと思った。


 ――二人。いや一人と一ぷるぷるは昨日と同じように、ローテーブルを囲んで座った。

「なるほど。朝起きたらこのようになっていたと。まるでカフカの『変身』ですね」

 仁がぺたりとその体をさわると、天音は小気味よく震えた。

「完全に透明ですね。脳味噌や内臓はどこだろう? これで生きているっていうのが信じられん……。それに目や口もないのに見たり喋ったりしてるのはどういうことだ……」

 天音のカラダに耳をつけてみた。ドクンドクンという心音のようなものが聞こえる。

「どういう感覚で体を動かしてらっしゃるのですか」

 ぷるぷるを親指と人刺し指でつまみ、みゅーんと引っ張ってみる。すると。

「あの!」

 天音が体をぷるぷる揺らしながら叫んだ。

「その……あんまり触らないで頂けると……」

 仁は慌てて指を離した。

「す、すいません。つい好奇心が……。それにあんまり触り心地がよかったもので……」

 後頭部をボリボリと掻きながら弁明をする。

「そうですよね。気持ち悪いですよね」

「き、気持ち悪いってゆうか……」

 天音は体を風船のように膨らませた。

「あのですね……。今後のために正直に言っておくとですね……。この体、どうなっているかわからないんですけど、その、触られるとめちゃくちゃ気持ちいいんです……」

(――!! そういえば……さっき顔を突っ込んだときのあの悩まし気な声……)

 天音はまた先ほどのように体を真っ赤にして熱を放っている。

 どうやら感情がそっちの方面に高ぶると熱を発するようになっているらしい。

「だから! 触っちゃダメ! ゼッタイ! いいですか!?」

「ファ、ファイ! 承知ひまひた!」

 仁は動揺のあまりガブガブに噛みまくりながら、敬礼のポーズを取った。

「と、とにかく! 問題解決に務めましょう! 幸い、原因は明らかです」

「それは……?」

「昨日食べたところてんかと」

「ですよねー……」

 天音は体をひらべったくして床にてろーんと広がった。

「本当に申し訳ありません。僕がお裾分けなどしなければ」

「いえ……ノリノリで食べた私が悪いんです……」

 二人は同時に溜息をついた。

「そういえば僕も今朝、ちょっとだけ右手が今の天音さんのようにぷるぷるになる感覚があったんです。すぐに元に戻りましたが」

「そうなんですか!?」

「ええ。たぶん、天音さんの方がたくさん召し上がったので、効果が全身に及び、かつ、長く効果が続いているのでしょう」

「なるほど……」

「あっ。でもそういうことなら」仁が指をパチンと弾く。「天音さんの方もわりとすぐに元に戻るかもしれませんね。――ちなみに」

「は、はい」

「どれくらい召し上がられましたか? 家に帰ってからも食べました?」

 なぜか。天音はまた体をじゃっかんピンク色に変色させた。

「少しだけ……」

「いくつですか?」

「……数はちょっと覚えていません」

「だいたいでいいです」

 天音はひらべったくなった体を巻物のようにくるくると巻いたのち、

「……ぜんぶ」

 とか細い声で回答した。

「は――?」

「だから! ダンボールに入ってた分! 全部食べちゃったの!」

「全部!?!?」

「だって! おいしかったんだもん! ものごっつおいしかったんだもん!」

「マズイぞこれは……!」

 仁は慌ててスマートホンを取り出し、ある人物に電話をかけた。


 不在の留守電に繫がること九回。十回目でようやく通話が繫がった。

「よう! 我が息子よ! 元気か!」

 声の主は『関町裕次郎』。仁の父親だ。

 相変わらずチャラチャラした軽い声だな。と仁は思った。

「彼女はできたか? 童貞は捨てた?」

「あのねえ。それどころじゃないんだよ」

 仁は天音にも会話が聞こえるように、スピーカーフォン通話に切り替えた。

「親父ィ……、また変なモノを間違って僕の家に送っただろ」

「なに!? もしかして仕送りのお米とあべこべに研究材料送っちゃってた?」

 仁は深い溜息をつく。

 天音はすんすんと泣き声をあげた。

「そうだよ……。アレ一体なに?」

「いいか。アレは絶対に開封しちゃダメだぞ。テロリストから押収した生物兵器だからな」

「「生物兵器!?」」

 二人の声が重なった。

「ん? 誰か一緒にいるのか? あっわかった。レイだな?」

「いや。違うよ。その話はあとでするから、まずはその生物兵器とやらについて教えてよ」

「ん。ああ。えーっとそれはな。パッと見ただのところてんだが、食べると無敵のゲル状生物兵器に変化してしまう物質なんだ」

 仁の背筋がすうっと冷たくなった。

「名前は『トコロドラッグ』。生物兵器と化した兵隊のことは『トコロソルジャー』という。体はぷるんぷるんで一見柔らかそうだけど爆弾でも壊れない鉄壁の最強兵士になってしまうらしい」

(あれが最強兵士……?)

 仁は天音の方をチラと見た。

 彼女は動揺のあまり、二十個ぐらいに分裂してちっちゃい葛団子の集合体のようになってしまっている。

「そ、それは。どうやったらもとに戻るの?」

「今のところ時間が経過すれば元に戻るということしか分かっていない」

「どれくらいの時間?」

「実験してないからよくわからんが、そのダンボール一箱分で一〇〇〇人の兵士が丸一日『トコロソルジャー』でいることができる量らしい」

 またも仁の背筋が凍り付く。

 天音に至っては団子ひとつひとつが風船のように膨らみ、宙に浮いていた。

「も、もし。その量をひとりで食べたとしたら?」

「一〇〇〇日は元に戻らないだろうなあ」

「せ、せんにち」

 宙に浮かんでいたお団子はパン! という音を立てて爆発。残骸が床に散らばった。

「だ、大丈夫ですか!?」

「だいじょうぶ~~肉体的には~~~」

 ペラペラの残骸はずるずると這ってひとつに戻ろうと試みている。

「なんかすごい音したけど大丈夫か?」裕次郎が訝し気な声で尋ねた。

「へいきだと……思う……」

「それならいいけどさ。しかし。なんでそんなこと聞きたがるんだ?」

 父親の問いに子は溜息交じりに答えた。

「……察してくれよ。前に一回話したことあると思うけど、隣に住んでるクラスメイト女の子がいるって言っただろ」

「ああ。言ってたな。アマネちゃんだっけか? その子がどうしたの?」

「その子がな。段ボールの中身全部食べちゃってさ。今まさにその『トコロソルジャー』になってるんだ」

「ブッ……!! ハハハハハハハハハハハハ!!」

 父親は鼓膜が破れるぐらいの爆笑を電話越しに喰らわせてきた。そして。

「なんであんな怪しいもん食べちゃうんだよ!」

「食べるにしてもあの量全部は食べすぎだろ!」

 という指摘を行った。

 二人はまさにグウの根も出なかった。

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