第16話 カレーじゃなくて親子丼

 それから数時間。雨は相変わらず降り続き、パソコンで研究をしつつも時折気象情報をチェックするというのを続けることとなった。何かしていないと誰もがそわそわして不安だ。そんな気持ちがあるせいか、研究室の中では忙しなくキーボードを叩く音が響いている。

「もう八時か。少し腹に何かを入れないとダメだな」

 しかし集中し続けるというのも、いざという時の体力まで奪うことになる。これだけの大雨となると、いつ緊急事態となってもおかしくない。天翔は適当に休憩を入れようとそう将貴に声を掛けた。

「そうだな。この状況ではあまり腹が減らないけど、何か入れておいた方がいい。備蓄食料となるとレトルトか缶詰だろうけど、ないよりマシってヤツだし」

 昼にカレーを食べたのは失敗かと、将貴は苦笑する。こういう時、常備してあるレトルトといえばカレーだ。別に二連続でも構わないのだが、何日かここにいるかもしれないと考えると、あまり嬉しくない。

「じゃあ、俺が人数分貰ってきますよ」

 そんな会話を交わす二人に、駆が気を利かせて立ち上がった。強制的に食事にするならば、ここに食料を持って来てしまえばいい。そうすればこのメンバーだけで食べられ、気も休まるだろう。

「そうだな。島田君一人では大変だろう。誰か切りのいい人はいるか」

 そんな駆に天翔は悪いなと手で合図を送り、そして誰かも巻き込もうと声を掛けた。

「あ、丁度いいところで終わってます」

 その声に反応したのは中井主馬だ。学生の中では年長とあり、さらに真面目な性格だ。黙って見過ごせなかったのだろう。天翔はちょっと悪いことをしたかなと思う。

「悪いな。二人とも、よろしく頼む」

 しかしここで他に任せるのも話がおかしくなる。天翔はこの二人に任せることにした。

「行ってきます」

 駆と主馬は揃って研究室を出ると、真っ直ぐにミーティングルームに向かうものの、この雨で無言ではいられない。

「博士論文が大変な時にこの雨か。大丈夫かい?」

 駆がそう声を掛けると、主馬は集中して出来るいい機会ですと苦笑した。たしかにこのそわそわした中で論文を書くのは大変だが、家では気が散って、なかなか集中できなくて進まない。それを考えると、状況は最悪だがいい時間となっている。

「それならよかった。おっ、他もそろそろご飯と考えているようだな」

 角を曲がってミーティングルームに近づくと、他でも取りに行けという話になったようで、学生たちががやがやとしていた。

「はいはい、こっちに並んで」

 その学生たちを仕切るのは葉月だった。昨日は徹夜をしていたというのに本当にパワフルだ。食料をすでに数日分に分けたようで、手早く今日の夕食として用意した米のパックとレトルト食品を配っている。

「お疲れ様です」

 駆が声を掛けると、ようやく来たかと笑顔を向けてくれた。その笑顔に駆も主馬もほっとしてしまう。

「他はもう取りに来ていたんですね」

「そうだよ。あんまり来ないから声を掛けに行こうかと思ってたところ。選択肢は親子丼しかないから」

 駆の言葉に、葉月は笑って人数分のご飯とレトルトの箱を渡す。意外にも将貴の予想は外れた。

「菊川さんは絶対にカレーだって言ってたのに」

 主馬は渡された箱に思わず吹き出す。これを見た時の将貴の反応が今から楽しみだ。落ち込んで損したとでも言いそうである。

「ああ、カレーね。全員が予測していると思って明日以降にした」

 それを聞いてしてやったりと葉月は笑う。なるほど、全員からカレーじゃないのかとの反応を引き出したくてのチョイスということだ。

「おいおい。明日以降はいいが、朝からカレーは止めてくれよ」

 この調子で悪戯されては困ると、横で聞いていた恭輔が思わず口を挟む。それに他の研究室の学生も苦笑した。

「ええっ。朝カレーもアリかと思っていたんですけど」

 葉月は読まれたと悔しがる。それに周りもどっと笑い出し、今までの重苦しい空気が嘘のようだった。その場のムードメーカーとなった葉月に、駆は凄いなと素直に感心してしまう。笑いを取るなんて自分には到底出来そうにない。

「腹いっぱいになったら適度に休むように言ってくれ。交代で寝ることになると思うから」

 笑いが一通り収まったところで、恭輔がその場にいる全員に向けて言う。各研究室に伝達しろというわけだ。

「交代か。それはそうだな」

 駆はゆっくり休めないなと苦笑する。それに主馬も仕方ないですねと笑った。葉月のおかげで、そう言われても緊張感はない。ただいつもとは違う一日。そんな感じになっていた。

「温めてから戻らないといけないな」

 ミーティングルームでもレトルトが温められるようにと簡易のガスコンロと鍋が持ち込まれていたが、これは他の研究室の学生が使っていた。駆たちはこの近くにある給湯室に向かうことにした。

「ああいう人が奥さんだったら、大変だろうけどいいんでしょうね」

 米と親子丼のレトルトを抱えて給湯室に移動しつつ、主馬がそんなことを漏らした。

「おっ、ああいう勝気な人がタイプなのか」

 こういう話題をするとは珍しいと、駆は笑ってそう揶揄う。

「そうじゃないですよ。それに藤枝さんが好きなのって、若宮先生でしょ。ああいうタイプが好きとなると、俺みたいな平凡な奴だと釣り合わないんだろうなって」

 そう早口に捲くし立てる主馬は、この気象も手伝ってか本気で惚れたようだった。それに駆はまあまあと宥めることになる。

「でもさ、どうして若宮先生に惚れているって思うのさ。あの二人って、確かに仲がいいけど恋愛感情なさそうだよ。藤枝さんに至っては手の掛かる奴って思っているくらいだろうし」

 駆はそんな雰囲気があったかなと、朝のやり取りを思い出して訊いてしまう。葉月は隙あらば揶揄おうとしているようだし、天翔はそれを楽しんでいる感じはない。

「島田さんって意外と奥手なんですね。そういうのをいい雰囲気って言うんじゃないですか。そのうち、付き合い始めると思いますよ」

 給湯室の大きな鍋に米のレトルトパックを放り込みながら主馬に呆れていた。あの二人、誰がどう見てもカップルだ。本人たちがまだ好きだと言っていないだけだと思う。

「そういうものなのかな」

 別の鍋に親子丼のレトルトを放り込みながら、駆は思案顔だ。恋愛経験は豊富ではないが、自分以上に経験のなさそうな主馬に指摘されるとは心外だった。

「お、先を越されたか」

 そこに彰真がやって来て、温められないかと頭を掻く。さすがに給湯室というだけあってコンロは二つしか用意されていない。しかも大きな鍋を置くと窮屈な状態だ。結果としてここでも一つの研究室が温め始めると他は待つことになる。しかし彰真が持っているのは一人分だった。どうやら他の人たちは食べ終わっているらしい。

「あれ、三谷さんってずっとミーティングルームにいましたよね。まだ食べていなかったんですか」

 だから不思議に思って駆はそう訊いていた。彰真は川の様子を見ようとしたが無理だった後、恭輔と一緒に情報収集に専念していたはずだ。ということは、葉月が着々と親子丼の準備を始めたところを見ていたはずである。

「そうなんだけどね。さすがに横で鳥居先生が仕事しているのに食べますって言えないよ。君たちだって若宮先生を置いて食べに行きますって言い難いでしょ。あれと同じ」

 何歳になっても上に気を遣うもんだよと、彰真は俺のも入れてと結局は待たずに鍋の中に放り込んだ。ちょっと時間差が生まれるが、ぬるくても食べられる。

「まあ、そうですよねえ。坂井先生ほどではなくても目上の人には気を遣いますよね。それが行き過ぎかどうかっていう程度の問題だけで」

 朝から恵介の話題ばかりしているせいか、駆はこの時、ついつい名前を出してしまった。彰真に足を踏まれていなかったら、そのまま悪口を言っていたかもしれない。

「おや、混んでいますね。一階のところも使用していいということです。他の人が使用しに来たら、言ってください」

 恵介はぎろりと三人の顔を見たが、それだけ言い残して去って行った。しかしこれで話が終わるはずがない。

「俺、余計なことを」

「大丈夫だ。後で鳥居先生から片桐先生に正しい状況を言っておいてもらう。片桐先生も正しく状況を見ているからな。太鼓持ちをされたからって、坂井先生を重用しているわけじゃない」

 駆がどうしようと不安がるので、彰真は大丈夫だと肩を叩いた。が、余計な火種となることは間違いないだろう。特に今、恵介は天翔のことを目の敵にしている。何か蹴落とす材料はないものかと聞き耳を立てているのだ。今のはどこから聞かれていたのか。非常に不安になる。

「あ、そろそろ出来上がりますよ」

 淀んだ空気を払うように主馬がそう言い、三人は黙々とお湯からレトルトのパックを取り出したのだった。

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