第15話 避難は不可能

 雨は上がることなく、ますます激しさを増していた。夜が近づいてきたこともあり、周囲はどんどん暗くなっていく。その重苦しさは、このまま雨に押し潰されるのではないかと思わせるほどだ。

「ちょっと怖くなるな」

 仕事の手を止めて窓辺で外を見ていた天翔に、将貴はコーヒーを差し出しながら言う。しかし顔には笑みがあった。そう緊張するなと言いたいらしい。

 ミーティングルームに毛布を運ぶのは学生がやってくれていて、天翔たちは情報収集と問い合わせへの対応となっていた。大雨の情報を聞きつけ、望遠鏡での観測を予定していた研究者から、すでに大丈夫かとの連絡が入ったためだ。

 ついでにこの近辺の大学に連絡すると、同じように大雨に困っているとのことで、中にはすでに道路が冠水しているとの情報もあった。川が近くにある大学は、水位が勢いよく上がっていると心配している。

「高台にあるから意外と実感が湧かない部分があったが、こうなると逃げられないって感じがする」

 天翔はコーヒーを受け取ると、早速一口飲んだ。温かい液体は、興奮した身体を鎮めるように染み渡る。

「そうだな。道路が水没しているとか川が氾濫しているとか、水に関する実感はなかったからな」

 咄嗟に帰れなくなると判断したのは、道路の状況もあるが天文台での業務が増えるとの予測がメインだった。しかし、ミーティングルームに泊まり込みの準備が始まり、雨がどれだけ降っているかの情報がどんどん入って来るようになると、本当に身動きが取れないのだと思えてくる。

「このまま何もなければいいが」

 まだ遠くの雲が雷で光るのが解る。依然として雲が遠ざかっていない証拠だ。

「おい、この山を流れる川の一つが氾濫しているとの情報があったぞ。すぐ傍のではないと思うんだが、ちょっと近くまで見回りに行く。誰か付いて来てくれ」

 そこに恭輔のところで研究員をする三谷彰真が駆け込んできた。彰真は天翔や将貴の先輩で、しっかり者だ。自分一人での確認は危険との判断で呼びに来たらしい。

「俺が行きます」

 ここでぼんやりしていると妙なことばかり考えそうだ。特に恵介のことが完全に頭を悩ませている。しばらく同じ空間にいなければならないと思うと、気にしないようにするのはもう無理だった。だから天翔は自分が行くと手を挙げる。ともかく、この閉塞された空間から逃れたい。

「それは助かる。この雨で視界が悪い。俺は運転に集中するから周りに気を配ってくれるか」

 廊下に出てきた天翔に、彰真は頼むぞと背中を叩く。危険と判断して誰も帰らないようにとの指示がある中での外の見回りだ。ここで確認とはいえ車で出ることはリスクを承知することと同じである。

「解りました」

「待ってください。俺も行きます。万が一水溜りにタイヤが嵌った時、二人だと大変でしょ」

 そこに将貴も行くと追い駆けてきた。ここで残されるのはそれで不安なのだ。特に気楽に話せる相手の天翔が行くとなると不安が大きくなる。

「そうだな。頼む。それと菊川君は後部座席から後ろの確認をしてくれ。どこで何があるか解らないからな」

 全員、緊急時に連絡が取れるようにちゃんとスマホを持ったことを確認し、ミーティングルームで陣頭指揮を執る恭輔に挨拶してから出掛けることとなった。

「悪いな。三人いれば大丈夫だろう。頼むぞ」

 恭輔がそう声を掛けると、何故か部屋の中にいた恵介が苦々しそうな顔をしていた。この見回りが高得点になるとでも思ったのだろう。

「十分気を付けます」

 天翔はそんな恵介が視界に入ったものの気にせず、そう請け合って先に出た二人を追い駆けた。階段で一階に降りると、休業日とあってあちこち電気が消えていて不気味だった。明るい廊下をそそくさと進むことになる。

「これは凄い」

 玄関先にある置き傘を手にした二人と合流しつつ、天翔は降りしきる雨の迫力に圧倒されてしまった。こんなにも隙間なく降りしきる雨、生まれてこの方見たことがない。激しく雨が地面を叩く音は凄く、その振動のせいなのか空気が薄く感じられた。

「車に乗るまでにびしょ濡れだな」

 彰真が傘では無理だと、雨合羽を取りに一階にある物置へと走った。その小さな努力さえも無駄というように、どおおんと大きな音が響く。また雷が近くに落ちたのだ。空を見上げていた天翔と将貴は咄嗟に腕で目の辺りを隠していた。まるでフラッシュを浴びたかのような閃光だった。ガードしたものの残光で目がチカチカする。

「これ、マジでヤバいよな」

「ここまで酷くなるとは」

 雷は一発で力を使い切ったのか、その後は続かなかった。しかし外に出ようとしていた三人の気持ちを挫くには十分過ぎる。

「これは無理だな。夜が明けてから確認しよう。それで帰宅できるかの判断材料にもなるだろうし」

 声を掛けた彰真が真っ先にそう提案した。自分が確認を頼まれたのだから、それが可能かどうかを判断するのも自分に委ねられている。ここで無理する必要はない。

「そうですね。もう真っ暗になりますし」

 天翔は再び空を見上げ、もう日没が近いと指摘する。雨雲はもう判別できないほど空は真っ暗だ。この先、どんどん視界は悪くなる。

「ちっ。何だか本当に閉じ込められた感じがして嫌だな」

 ただでさえこの重苦しい雨だ。それが一歩も出られないと解ると、今までになかった閉塞感を覚える。将貴は思わず舌打ちしていた。

「よかった。三人とも賢明な判断をしていたようだな」

 そこに心配になった恭輔が、恵介とともにやって来た。出掛けた後だったら二人で追い駆けるつもりだったということだろう。指名された恵介は、ここに三人が留まっていたことに何よりもほっとした顔だ。危険は率先して避けるタイプだから当然だろう。

「ええ。さすがにこれでは無理です。川の水位は今後も上がるでしょうし、危険はさらに増します。どこかで動けなくなっては終わりです。こちら側に影響がないことを祈るだけですね」

 彰真はすみませんと肩を竦める。それに対し、恭輔はその判断でいいんだと肩を叩いた。

「問題は状況が悪化しつつあるということだ。雨雲は次々に流れ込んでいる状態が続いている。それに伴い大雨警報などの警報が次々に発令されているんだ。記録的短時間大雨情報が出たところも、隣の県だがあった。ここは望遠鏡の状態に気を配りつつも、じっとしているより他はない」

 恭輔は最悪を想定しなければならなくなったと表情を厳しくする。ただ帰れないだけでは済まない可能性もあるというわけだ。恵介が最初に懸念したように、長期戦になる可能性が出てきた。ここから避難するのは現状では不可能。まさしく閉じ込められてしまったのだ。

 全員の顔が暗くなったところに、また雷がぴかっと光り、続いて大きな音を立てたのだった。

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