第11話 恋のキューピッドは大変
一時半を少し過ぎて龍翔が理学部と工学部の間くらいにある中央学生食堂に現れると、智史は窓際の席で一人イライラと待っていた。気合が入り過ぎて早めに来ていたのだろう。目の前のテーブルには大きなラーメンどんぶりの他に、何度も注文に行ったのだろう、コーヒーカップが三つも置いてあった。
ここは中央学生食堂というだけあって、ここは座席数も多くメニューも豊富だ。今も夏休みであることなど関係ないかのように混雑している。休みも時間も関係なく研究している理系の研究棟に近いせいもあるだろうが、それにしては夏休みだというのに盛況だった。ここが一番涼しく、ゆっくり休憩できるのかもしれない。
「遅い」
イライラが募る智史は、人混みを掻き分けて近づいてきた龍翔に向けていきなり怒鳴る。遅いと言っても五分程度の遅れだ。龍翔はそんな気合の入りまくった智史を相手にしたくないと、すでに帰りたくなる。
「こっちも色々とあるんだよ。浜野に計算の手伝いをしてくれって言われたし」
しかし同時に揶揄ってやりたい気持ちもあった。この真面目な男が恋に落ちるとはどういう状態なのか。それを知りたくなる。というわけで、さっきまでの出来事を、座りながらさらりと漏らしてみる。すると見事に智史の顔は赤くなった。
「くっ、その場合は仕方がない。浜野さんの研究を邪魔しては俺の恋そのものが邪魔となってしまうだろう。その、浜野さんは今、何に取り組んでいるんだ?」
そこですぐに研究の質問をしてしまうところが、真面目な智史らしかった。他に訊きたいことが山ほどあるだろうに。しかしまあ、共通の話題はこれしかないというのもあるだろう。この調子だと飲み会は色気のない話で終わりかねない。それはそれで楽でいいが、面白い展開にならない。
「自分で聞き出せばいいだろ。これから付き合おうって言うんだ。自らの力で切り開かないと」
龍翔は買ってきたアイスコーヒーを飲みながらにやりと笑う。するとさらに智史の顔が赤くなった。なんて解りやすい奴。これはしばらく楽しめそうだ。朝の面倒なことになったという気分は、この解りやすい智史の反応によって吹っ飛んでしまう。
「その自ら切り開くというのが厄介なんだよ。知っていると思うが、俺は今まで彼女を持ったことがない。いや、そもそも誰かを好きになったのが初めてだ。どうやって話を切り出せばいいのか、ここ一か月悩んだが有効な解は見つからない。だからお前に頼んだんだ」
お前は事の重大さが解っていないと、テーブルを叩いて智史は吠えた。その目は助けろと必死で血走っている。しかし知っていることを前提に喋られては困る。龍翔は今、初めて智史の恋愛歴を聞かされたのだ。智史はそれほど顔が悪いわけでもスタイルが悪いわけでもないのにその状態とは、理系の出会いのなさの恐ろしさだろうか。
「彼女いない歴イコール年齢か。それはそれは、ご苦労」
今まで真面目かつ一心不乱に学問に取り組むこと三十一年。人生最初の恋愛を迎えたというわけだ。そこまで奥手となると、まあ意識した瞬間に話すきっかけを失くすだろう。龍翔はやっぱり面倒かもと、認識を改める必要に迫られた。
「で、早速なんだが――浜野さんは今、フリーなのか?」
そんな頭を抱えたい龍翔に向けて、智史はさらに深刻な打撃を与える質問をする。もちろん、至極真面目な顔をしてだ。
まずそこからかよと、龍翔の頭の中に恋は盲目という言葉が浮かんだ。今まで対象は龍翔しか入っていなかったようだが、実際に龍翔と喋っていて気づいたらしい。相手は恋したことがないとは限らないのだ。あれだけ何とも思っていない龍翔に気さくに話し掛けていることだし、男友達は多いことだろう。
「まあ、誰かと付き合っているって話は聞かないな。研究のことで頭が一杯という感じはする」
が、千佳を見ていると恋人を作るよりも今は研究という雰囲気が伝わってくる。研究者として独り立ちをしたばかりということもあり、それは当然だろう。それを考慮するとフリーである公算は高い。というか、言い寄られても気づかないのではないか。意外と自分のことには鈍感なのかもしれない。
「なるほど。何だか、俺の勝算はかなり低そうだな」
しかし、智史からすると余計なことまで言ってしまったらしい。龍翔の意見を聞いてすでに振られたかのように暗くなった。
「恋がきっかけで研究が捗るってこともあるだろ。ほら、ファインマンとかシュレーディンガーとか」
「どっちも問題だらけなんですけど」
とんでもない例示を出す龍翔に、思わず智史は敬語でツッコんでいた。どっちも参考に出来たものではない。というか、参考にしたら今の日本では軽蔑されそうだ。
というのも、ファインマンもシュレーディンガーも恋多き男として有名なのだ。そのエピソードは物理学に少しでも関心のある人ならば知っているほど有名である。
そんなファインマンは最初の奥さんとの恋愛こそ純愛でそれが映画となったほどだが、奥さんが亡くなった後は奔放な恋に生きた。一時は恋人が複数いるせいでアメリカに居辛くなり、ブラジルに逃れたほどである。
その上を行くのがシュレーディンガーで、こちらは浮気や不倫が多発していた。彼にノーベル物理学賞をもたらした研究は、不倫旅行の最中に思いついたものだという。
どちらも天才的な頭脳を持っていて物理学者としては尊敬に値するのだが、恋は参考にしたくない。というか、してはならないものである。
「しかもだ。日本は物理学をやる女性が少ない。つまり、研究現場だけで考えると男が常に余っている状態だ。選択権は向こうにしかないように思えてくる」
どんどん悲観的になっていく智史はそんなことを言い出した。これはこれで、智史の研究に悪影響が出そうな展開だ。
「まあまあ。何でもやってみる前に結論を出すのはよくない。な」
おかげで何故か龍翔は励ますことになる。やはりややこしい状況になってきた。適当なところで見捨てようと思っていたのに、これでは最後まで世話する羽目になる。
「そ、そうだな。当たって砕けろという言葉があるほどだ。何もしないのは、今まで思い悩んでいたのと変わらない。うん」
そう一応はテンションの戻った智史だが、龍翔としたら砕けてもらっては困るなと頭痛がしてきた。話し合っているだけでこれだけ気分に影響が出ているのだ。正面から振られた日には何が起こるか解ったものではなかった。
「これはなんとしても、デートくらいはさせないとな」
俺もそんなに恋愛経験ないというのに、どうして恋のキューピッドをしなければならないのか。定期入れについて智史に訊くことも出来ず、新たな問題が深刻化してしまっただけだった。
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