第10話 カレーとカツ丼

「安くはないよな」

 大学の学生食堂と違い、一般に向けても営業しているためか、そこらのレストランと変わらない値段で提供されている。山の上に食材を運ぶコストも加味されているのだろう。節約するならば自炊すべきだなと天翔も笑う。

「料理は無理だしなあ。包丁を握ったのなんて高校の家庭科が最後だぞ」

 選択肢はないなと、将貴はカレーにすることにして中に入る。カレーはノーマルのものならば六百五十円だ。カツカレーになると八百七十円となる。これは良心的な値段と言えるだろう。それに暑い時期はどうしてもカレーを食べたくなるのが、幼い頃からの刷り込みというヤツだった。

「俺も得意ではないな。独り暮らしが長いから作ることもあるけど、できれば作りたくない」

 天翔は今から複雑な問題を考えることだし、気合いを入れようとカツ丼にすることにした。こちらは八百五十円と標準的だ。赤出汁も付いていてなかなかに美味しい。味を想像すると自然とお腹が鳴るほどだ。

 中はまだ昼前とあり、客は天翔たちを除くと南館で作業する一般客向けの天文台運営をする人が一組、コーヒーを飲んで休憩しているだけだった。やはりここも休業日モードとなっている。普段は鳴っているのかすら解らないCDプレイヤーから流れるジャズの音が、静かな店内に心地よく流れていた。

 二人は先客とは対角線上となる奥の窓側の席へと行き、そこで決めておいたメニューを頼む。席を遠くしたのは運営関係の人たちで大学の人事とは関係ないが、どこから情報が漏れるか解らないからだ。あの坂井恵介はあらゆるところから情報を収集してくる、いわゆる地獄耳としても有名だ。おかげで悪口を言うのも一苦労という有様だ。

「で、お前の今後に関わる問題だろ。何か考えているのか?」

 将貴は女性店員が置いて行ったおしぼりで手を拭き、ついでに顔を拭きながら訊く。その行為は三十代だというのにオッサン化が進んでいる感じで、天翔はそれをいつもどうかと思って顔を顰めて見てしまう。

「今後についてはそろそろ考えないとなとは思っているよ。ただ、天文学を出来るところは限られている。国内の天文台となるともっと絞られてしまうからな。現場を離れて大学に戻ることも考えなければならないし、それならば海外も含めて検討すべきか。そうなると誰に推薦してもらうか。考えることだらけだ」

 今の若い研究者は常に次を考える必要がある。というのも、任期付きポスト以外を得るのは非常に難関だからだ。国内では特に派閥のようなものが存在するし、何より諸先輩もポストがなくて困っている。

 いくら博士号を持っていても研究の現場に残れるとは限らないのだ。つまり安定している教授になるのは、その他にも色々なしがらみを乗り越えないと得られないものなのだ。実力だけではどうにもできない部分は、今の日本の研究現場には確実に存在していた。

 だから恵介のやり方そのものを批判できない部分はある。この天文台だけで考えるならば賢いやり方ではないが、長い研究者人生を無事に乗り越えるには必要な技術なのかもしれない。

「そうだよな。総ての可能性を考えないと難しい。でもお前、海外には知り合いも多いだろ。そっちから誘いを受けているってことはないのか」

 水をがぶがぶと飲みながら、将貴はそっちの伝手はないのかと確認する。僅かな間しか外に出ていないというのに、汗が吹き出て喉が渇いていた。太っていないのにこれだから、今年の猛暑の凄さが解る。

「どうだろうな。確認はしてみるつもりだけど」

 天翔はおしぼりで綺麗に手を拭きながら、海外を真剣に視野に入れるべきかと思案し始めた。たしかに学会の繋がりで海外の研究者の知り合いも多い。そんな中で、同じように恒星の降着円盤を研究している人からうちの大学に来ないかと誘いを受けたこともあった。

 その人はロビンという気さくな人で友達のように話し掛けてくれるが、十五も上の先輩だ。イギリスの大学で教授として研究している。ロビンを頼れることが出来れば大きいだろう。他にも何人か、協力してくれそうな人はいる。

「でもな。海外は」

 しかし海外へと行くには気になることはある。ある人に相談せずに決められない問題だし、今後のことにも関わってくるだろう。あれこれと考えなければならず、すぐに行きますとは言えない状況だ。

「何だ。行く気満々かと思えば、実は嫌なのか。お前が躊躇うとは珍しい」

 呟きを聞き取った将貴が意外だなと笑うので、違うよと否定しておく。海外に行きたい気持ちは強かった。できれば、何のしがらみもない環境で研究したい。

「じゃあ何だよ?」

「まあ、色々とあるんだよ」

 しかし、そんな様々な感情はそうべらべらと喋れる内容ではないので、天翔は苦笑いを浮かべて流そうとした。

「お前がそう言うってのは珍しいな。まあ、誰にだって秘密はあるもんだけどさ」

 しかし将貴のその秘密という言葉に、思わずドキリとしてしまった。顔に出ていないか、気になってしつこく手を拭いてしまう。そう、天翔はある秘密を抱えている。いや、普通ならば秘密でも何でもないのだろうが、事情が事情なだけに周囲には話していないことだ。

「おっ、来た来た」

 そんな天翔の小さな心の変化には気づかず、将貴はやってきたカレーに顔を綻ばせた。スパイスのいい香りが天翔の鼻も擽る。テーブルに置かれたカレーはいわゆる一般的なカレーライスで、横には福神漬けが乗っている。それでも店長の拘りがあり、数種類のスパイスがブレンドされたルーは、市販のものより格段に香りがよかった。これが一度食べると病みつきなる要因なのだ。

「いやあ、いつも食べているけれどさ。夏にカレー。これは絶対にやっちゃうよな。定番だけど外せない」

 将貴は先に食うぞと、天翔のカツ丼が厨房からやって来ようとしているのを見ているくせに、カレーを口の中に放り込んだ。その様子を見ていると、考え事が多くて空腹を感じていなかった腹も素直に音を立てる。

「もし海外を除いて考えるならば、やはりあの人の問題は解決しておいた方がいいぞ。解っているだろ。お前はここに実力で入ったことは俺たちは理解しているが、他所から見れば鳥居先生のコネを疑われる。あいつが言い触らせばなおさらだ。白黒つけずに済ませられないよ」

 天翔がカツ丼を受け取って箸を割る頃には、将貴はカレーを半分平らげていた。喋りながら器用なことだ。

「ううん。まあ、もう少し色々と検証してからにするよ」

 これ以上考えていたら胃が悪くなってカツ丼が入らなさそうだ。そう思った天翔は強引に話を打ち切ってしまった。


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