第6話 龍翔の研究はこんな感じ
「やっぱりないか」
何とか悠大を研究室から追い出した後、机の中からあらゆる書類の間まで隈なく捜索してみたものの、定期入れは一向に出て来ない。これは完全にどこかで落としている。
「問題はどこでってことなんだよ。ううん」
捜索を諦めてパソコンの電源を入れつつ、龍翔はどうしたものかと思案する。定期はすぐに解る手前のビニールの部分に入っている。普通はその定期を確認したら中を見ようとは思わないだろう。定期入れの中にごちゃごちゃと何かを入れている奴なんて少ない。
「でもな」
例えば千佳が拾った場合、間違いなく中を確認しそうだ。触っただけでは定期の感触しかないし、他のものが入っているとは思わない。しかし千佳はきっちりとした性格をしている。持って来て中身に異常がないか、必ず確認させることだろう。しかも目の前でやるように要求してくるに違いない。定期しか入っていないと言っても聞かないことだろう。ということは、確実に中身を見られることになる。
「ああ。どうして落としたことを浜野に知られてしまったんだろう。津田より厄介だ」
こっそり千佳の方を見ると、千佳はパソコンと手元の資料を確認するのに忙しそうだった。すでに研究を始めていて、他のことは目に入っていないらしい。まさに研究者の鏡のような姿である。いつもならば自分もああなのになあと、憂鬱さがさらに増大してしまった。
「誰にもぼやけないから、余計にイライラすんだよな」
龍翔は思わず口を尖らせた。言えないとどうにも不満が溜まる。しかし、立ち上がったパソコンに向けてそう言っても何の解決にもならない。黙って聞いてくれるし秘密は漏れないが、解決策は提示してくれないのだ。
「はあ」
仕方なく気持ちを切り替えて仕事に取り掛かる。先ずはメールのチェックと受信ボックスを開くと、昨日の会議の議事録が届いていた。他大学に行っていたのはこの会議のためで、自らの研究をもう一段階進めるためだった。
「素早い」
これは次の研究に関わる内容だ。スーパーコンピュータを用いて他の大学とある宇宙モデルについて調べることになっている。その打ち合わせに行っていたのだ。議事録は今後どう進めていくか。それについて書かれている。共同研究となるからしっかりスケジュールが組まれていた。
「ふうん。来週までに今のモデルを詰めておく必要があるのか。となると、今週はこれに掛かりきりだな」
他の研究も進めているため、このモデルにばかり時間を割いていられないのだが、優先順位を上にすべきだろう。龍翔は一般相対性理論を用いて今の宇宙がどうやって成り立ったかを解明しようとしている。もちろん、ここ最近では一般相対性理論だけでなく量子力学を加味して考えなければならない。しかしそれでも大部分はかのアインシュタインが作り出した一般相対性理論に依拠していた。
「でもな。インフレーション理論も進めないと、あっちもかなり盛り上がっている。これは笹川君に頑張ってもらうしかないかな」
今でもこき使ってないかと心配だがと、龍翔は初めて自分の研究予算で雇ったポスドクの笹川颯太のことが気になる。ポスドクとはポストドクターの略で、博士課程を終えたばかりの人を研究員として雇う制度のことだ。博士研究員ともいう。任期は大体が三年。颯太も三年の期間、龍翔の指導の下で研究を進めることとなっていた。
が、問題はテーマだ。龍翔は一般相対性理論を専門としているくせにインフレーション理論にも手を出そうとしている。これを颯太がどう思っているのか。
インフレーション理論は困ったことに量子力学がメインのテーマだ。どちらも博士課程を修了するほどならば使いこなせるものの、やはりどちらが得意か偏りが出るものである。やりたいことと違うと文句を言われないだろうか。
「あれ、そう言えばいないな」
研究室の中を見渡すとまだ席が二つ空いたままだ。そこは研究員が使う席で一つは颯太の席、もう一つはここで正式な研究員をしている今井聖也の席だ。時計を確認するともう八時二十五分。そろそろ来ていい頃だ。
「まさか嫌になったとか」
思わずそんなことを気にしてしまうほど、後ろめたかったりする。宇宙論をやっていれば普通に考える問題だというのに、初めての経験というのは何かと気を遣うものだ。しかも自分は助教でまだまだの身分。助教といえば一昔前までは助手と呼ばれていた立場だ。偉そうにするのはどうかと思われる。
このインフレーション理論とは、かの有名なビッグバンの前にあったもので、宇宙が爆発的に膨張する現象を指す。もちろんビックバンも急な膨張なのだが、それだけは説明のつかないことを含んでいた。例えば、どうして宇宙は平坦に見えるのか。もしくはどこも同じように均一なのはなぜなのか。
この問いに答えられるのがインフレーション理論だとされている。しかしビッグバンは宇宙マイクロ背景放射というものであったことが観測的にも証明されているが、インフレーション理論はまだ観測結果が出せていない。いや、永遠に観測できない可能性もあるものだ。ここに来て有効な手段が見つかったと盛り上がっているので、龍翔も昔温めていた理論にもう一度チャレンジしたいと考えてしまったのだ。
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