第3話 天翔は天文学者です

「ううん。ここをこうして。いや、ダメだな。こっちが合わなくなる」

 近づくとそんな声がする。二人はますます誰だという思いと怪しいとの思いが強くなった。他人の机の上でごそごそやっている。これほど疑わしいことはない。が、その疑いは犯人自らがすぐに晴らしてしまった。

「あっ」

 ころころと転がるペンのキャップ。それを追うのは丸眼鏡が特徴の男。

「お前。また人の机で計算してたのか」

 反射的に龍翔が怒鳴ると、その男はもそっと顔を上げた。そしてもうそんな時間かと悪びれる様子もなく笑う。机の上にはこの男が持ち込んだ様々な明細と電卓、そして帳簿と思われるノートが置かれていた。

「津田。お前は自分の机を片付けるということを覚えろ。というか、お前の研究室は工学部二号館だろ。わざわざ机を使うためだけに来るな」

 机を勝手に占拠していたのは津田悠大という、工学部で研究をしている奴だ。こいつとは大学時代からなぜか仲が良く、こうして二人揃って同じ大学の研究者になってしまうという腐れ縁でもあった。しかし、使っている研究棟は違う。それに悠大の専門はロボット工学。間違ってもこの理学部の建物に用事があるとは思えない。

「いやあ。片付けても片付けても物が溢れ返るんだよな。それになぜかお前の机でやった方が集中できるんだよ。やっぱりこの研究室は計算ばっかりしているからかな。あ、何なら俺の机を貸すぞ」

 ついでに綺麗に片付けてくれとまで言う悠大に、絶対にお断りだと龍翔は固辞する。それにどうして他人の机の片づけをしなくてはならないのか。しかも悠大の机の汚さと言えば、それはもう恐ろしいものでしかない。物や書類がミルフィーユのごとく積み重なっており、何かを抜けば雪崩を起こしてくるのは確実だった。

「あ、津田さん。それより友部先生の定期入れ、その机の上になかったですか。朝から見当たらないそうです」

 そこに千佳が気を利かせてそう訊いてくれたのだが、龍翔からすれば最悪だった。ああ、最も知られたくない奴の一人に知られてしまったと、心の中で絶叫してしまう。絶対にこいつには中身を見られたくないのだ。見られた時の反応を想像すると、絶対に揶揄われると自信を持って言える。

「いやあ、定期入れなんてなかったぞ。お前が落とし物ねえ。珍しいな」

 悠大はそんなことがあるのかと驚くが、千佳は珍しくないと言い張ることだろう。比較の違いなのだ。よく忘れ物や落とし物をする悠大から見れば珍しく、ほぼそんなことはしない千佳からすれば龍翔は忘れっぽい。要するに龍翔は平均的なのだ。

「見かけたら言ってくれ。クレジット機能はないもののICカードだし、ないと困る」

 何だかどっと疲れたと、龍翔は悠大を追い払って机に着くと、大きな溜め息を吐いてしまった。




 西日本にある、とある天文台。こここそ龍翔が失くした定期入れを売っているところだった。標高五百メートルほどの小高い山に立つ天文台で、車ですんなりと行ける便利な面がある。舗装された道は一本道でそれしかないものの、それで困ることはない。道の横には一級河川に指定される幅の広い川も流れており、夏場は吹き抜ける風が心地よく夜には蛍も舞う、自然豊かで過ごしやすいところだった。

「今日も快晴か。このまま夜まで持ってくれるといいけど」

 そこに車で出勤してきた若宮天翔は、降りるなり伸びをして空を確認する。天文学者である天翔にとって空を見上げることは自然な動作だ。晴れていないと天文観測はままならない。こうやって朝から雲一つない快晴であると、夜の観測に期待が持てるというものだ。

 しかしここ最近、夕方にゲリラ豪雨となることがある。そうなったら天文観測のスケジュールが狂ってしまって非常に困る。ここの天体望遠鏡を使う人の中には、論文に必要なデータが揃わなくなる者も出てくる。これは大きな問題でもあった。

 そんな天翔は左頬に少し大きめの黒子があることが特徴の三十一歳だ。少々童顔なためによく学生に間違われるが、ここの特任助教という地位にある学者だ。ワイシャツに黒いズボン。これがお決まりのファッションとなっている。というより、他のファッションを採用することがない。長めの前髪を左側に分け、より爽やかな印象を与えていた。しかしどこか表情が乏しく、物悲しげな空気を纏っているのが、その見た目と対照的であった。

「あ、先生。おはようございます」

 空を確認していると、もう一台勢いよく車が駐車場に入ってきた。そして降りてきた人物はすぐにそうやって挨拶をしてくれる。

「ああ、島田君。おはよう」

 挨拶をしてきたのは島田駆という研究員だ。短く刈り込んだ髪がトレードマークで、人懐っこい笑顔を浮かべている。天翔とは何かとよく議論している仲で、微笑ましい後輩だった。

いや、天文台の勤務は駆の方が長いから先輩ともいえる。現在は自分の研究室に所属していて、色々と教えてもらっていることも親密になる理由だろう。駆は人見知りでなかなか天文台に馴染めなかった天翔をよくサポートしてくれている。

「今日はまた暑そうですね。晴れが続くのは嬉しいですけど、毎日猛暑日というのは勘弁してほしいです。天文台は涼しくていいけれど、家は暑くて寝不足ですよ。このままだと夏バテしそうです」

 駆はそう言って眠そうに目を擦ると、少し失礼しますと慌てて駐車場の端へと向かった。仕事前の一服に行ったのだ。世の中の流れを受けて二年前に全館禁煙となり、この駐車場の外に設置された喫煙場所でしか吸えなくなったのである。

この暑さの中でじっと立っているのは賢明ではないなと、駆が駐車場の奥へと走っていくのを見送った天翔は先に天文台へと歩き始めた。蝉の声がうるさく耳に響き、より暑さを感じてしまう。山の上だからか蝉に種類は多く、それが大合唱しているものだからより大きな音だ。

 ここの天文台は北館と南館の二つに分かれていて、北館をメインと使っている。その理由は北館が新しく出来た建物で大きいということと、こちらに最新式の天体望遠鏡が備え付けられているというのがあった。

 だから天翔の研究室も北館にある。北館へと入ってみて、ふといつもと違って静かなことに気づく。

「あ、今日は月曜日か。一般客を相手にするところは休みなんだな」

 観測の関係で夜通しいることもあるため、どうにも日付感覚がおかしくなる時がある。おかげで一般開放の休業日も、日々通り抜けている土産物店の準備状況で解るという有様だ。いつもならばいる店員がいない。それが天翔の生活での大きな変化というわけだ。

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