第2話 龍翔は物理学者です

「大学にあるといいですけどね。他に落としそうなところってどこですか?」

 千佳は龍翔がこれ以上は詳しく聞いてほしくないなんて気づかないのだろうか。あれほど鋭い洞察力を持っているというのにまだ訊いてくることにちょっぴりイライラしてしまうが、そこは苦笑したままで頑張るしかない。

「どうだろう。昨日は他の大学での会議だったからタクシーで移動したし。家はもう捜索したけどなかったし、大学くらいしか思いつかないな」

 そんな当たり障りのないことを答えていると大学の門が見えてきた。徒歩八分の距離は長いようで短い。しかし、それは大学の門までの距離だ。そこから自分たちの研究室のある理学部七号館まではまだまだだ。目的地は広大な大学の敷地のど真ん中にある。

「ううん。案外、駅かもしれないですよ。鞄に入れようとして落とすってことは考えられますからね。駅で落としたんだったら、落とし物案内所に行ってみると解りますよ。運よく拾われていればですが」

 普通のアドバイスだが、電車の中で落とした可能性は忘れていた。龍翔は役立つ情報をありがとうと、ここは素直に礼を言う。むしろ電車の中や駅で落とした方がダメージは少ない。知り合いに見られた可能性はぐっと低くなり、駅員に中を勝手に見られても問題ないからだ。

「何か特徴ってありますか。例えばどこかのブランドのものだとか、絵柄が描かれているとか」

 よくテレビで映っている有名な赤い門の横、地味な正門から大学の構内に入りながらまだ千佳は訊いてくる。心配してくれているのは解るが、こちらは話題を切り上げたい。しかし変に黙ったり答えなかったら余計に怪しまれる。どうにも苦しい場面の連続だ。

「有名なブランドものなんて持てるほど金持ってないよ。助教の給料なんてたかが知れている。まあ、土産物だから特徴はあるね。星の柄が後ろに描かれている」

 これは危険な答えだろうか。そうハラハラしながらも言うしかない。千佳が拾ってくれた場合、後から何故こんな大きな特徴を言わなかったのかと詰られかねない。ああ、朝から辛い。

「土産物。一体どこのです?」

 案の定、それを問われる。まあ、まだ見られたくないものの核心に迫ったわけではないのだが、どうにも答えるのが嫌な項目の一つだ。

「えっとね。天文台のものだよ。ほら、一般公開している天文台だと、そういうちょっとした土産物があるんだ。知り合いに天文学者が多いからさ。定期入れを探しているって言ったら買ってきてくれたんだよね」

 ははっと白々しい笑いを浮かべながら、半分嘘で半分事実を混ぜて龍翔は説明する。ちなみに知り合いに天文学者が多いのは千佳も知るところだ。というか、千佳も多いことだろう。なぜなら二人は宇宙論を専門にしている物理学者なのだ。

 ここで多くの人は宇宙論とかいう宇宙関連の研究をやっている物理学者って何だとなるだろう。そいつらも天文学者じゃないのかと思うに違いない。

 最近では物理学の一分野である宇宙論も観測の精度が上がったことにより天文学とみなされやすい。しかし両者は重なり合うというだけで別なのだ。言うなれば天体や銀河の成り立ちを専門とするのが天文学、それとは異なり宇宙の時空を考えたり構成される物質について考えるのが物理学だ。ちなみに時空を考えるのが宇宙論で、物質に関しては素粒子物理学の分野に当たる。

 だから宇宙からやってきた素粒子の一つであるニュートリノを観測してノーベル賞を取った、小柴昌俊氏や梶田隆章氏は物理学科出身なのだ。

「そんなものに入れてたんですか。お土産物ってことはビニール製ですよね」

 千佳は思わず眉を顰めていた。というのも、千佳の中で土産物の定期入れといえば、水色やピンクのビニールで出来た、子供が持つようなヤツだった。だから驚くというより呆れてしまう。いくら貰い物とはいえ三十過ぎた男がそのチョイスはないだろう。そこは自分で別のものを用意するはずだ。

「いや、一応は革っぽい作りのヤツで、星の柄って言っても小さく彫り込んである感じだぞ」

 どういうものを想像しているんだと、自分の持っているものとかけ離れたものを言われて龍翔は驚き返すことになる。なるほど、土産物と言ってもピンからキリまであるわけだ。

「あ、いわゆる合成皮革ってヤツですか。それならまだ理解できます」

 千佳はほっとしてしまう。これで本当にビニール製を愛用していると告白されたらぶん殴っているところだった。そこに理由は存在しない。

 学生運動で有名になった講堂の横を抜け、ようやく目的の理学部七号館が見えてきた。これで定期入れの話から一先ず解放されるなと、ほっとしてしまう。しかしまだ探すという作業が残っていた。これで見つからなければしばらく懸念事項となってしまう。

 二人で揃って七号館に入ると階段をスタスタと上っていく。ここはコンピュータを使ってのシミュレーションや龍翔たちのような理論系の研究室が並んでいるため、廊下に物が溢れ返っているということはない。各研究室がカオスなことはあるものの、割と綺麗なものだ。

 実験室がないというのは空気がきれいなもので、しかも片付いている。これが同じ物理でも実験系だと油の臭いが立ち込めているうえに、溢れ返った物で廊下が半分ほど埋まっていたりする。機械の奏でる轟音も凄いものだ。

「三階っていつも微妙な距離だと思うよな。エレベーターを使うほどではないものの、階段を使うと疲れるっていうか」

 上り終えて思わず息を整えるために立ち止まってしまう龍翔はそう千佳に同意を求めた。しかし、まだまだ体力の衰えとは無縁の千佳に冷たい目で見られてしまう。

「先生。日頃から運動不足なんですから、この階段くらい我慢して上ってください。でないと将来困りますよ。いくら理論物理の専門家も、寝たきりだと一人では研究もままならないです。先生は独身でホーキング博士とは違いますからね」

 冷静かつ的確なツッコミ。これが精神的に堪えるタイプのものだ。龍翔はがっくりと下を向くしかない。ここで言うホーキング博士とは、車椅子の科学者として有名なあの物理学者だ。彼はALD、筋萎縮性側索硬化症を患い車椅子なしでは生活できない。

 しかし次々に新たな研究や、動けるうちにやりたいことに取り組んだ精力的な人でもある。今でもほぼ寝たきりながら人工知能や地球外生命について意見表明をしていた。そんな大人物を引き合いに出さないでもらいたいところだ。

龍翔自身もたしかにここ最近の運動不足が気になるが、かと言って生活を改めることはまずない。仕方なく階段は毎日上るよう心掛けるだけだ。さすがの運動嫌いも寝たきりは避けたい。

「あれ?」

 先に研究室のドアを開けた千佳が入り口で立ち止まってしまう。どうしたんだと龍翔も中を覗くと、龍翔の席で何かごそごそやっている奴がいた。下を向いていて顔はよく解らない。それにデスクトップのパソコンが邪魔だ。しかし、髪型や体格から男であることは解る。

 ひょっとして定期入れを盗んだ奴なのか。このタイミングで誰もいない研究室でごそごそしているなんて怪しい。ひょっとして一回目で金目のものが手に入り、味を占めたのだろうか。そんな想像が頭の中に広がり、二人は思わず抜き足差し合いで部屋の中に入っていた。

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