双子協奏曲

渋川宙

第1話 落とし物

 思えば、この日の出来事は虫の知らせのようなものだったのかもしれない。あの夏の数日間、それは俺たちにとって大きな変化をもたらすものだった。

そしてこの日から起こったことを考えれば、どうしてもっと早く連絡を取らなかったものかと、あれから数か月経つというのに悔やまれることもある。が、その時は単なる小さな出来事でしかなかった。




「ううん。やっぱりないなあ」

 ラッシュ時でぎゅうぎゅうの地下鉄に揺られること数分。もうすぐ目的の駅だというのに、友部龍翔は憂鬱だった。それは別に仕事が嫌になり今から働きたくないとか、職場の人間関係に悩んでいるというものではない。それよりも単純明快で、誰もが経験したことのあることで悩んでいる。それは落とし物だ。何度探しても鞄の中に目的のものを見つけられないからだ。

「家にはなかった。ということは大学にあるのか。落としたとなると厄介だな」

 何度も探すが見つからないもの。それは定期入れだ。そこにはもちろん家から目的地の大学までの定期が入っていて、ないと困る。だが、それ以上に困ったものの一緒に入っている。それを誰かに見られたら――知り合いでなければ普通に流してもらえるだろうが、これが顔見知りとなると面倒だ。何を言われるか解ったものではない。きっと追及される。というわけで、何とか誰にも知られない間に発見したい。が、何度探してもないものはない。

「ああ。月曜日から最悪だ。どうして昨日のうちに気づかなかったんだろう」

 龍翔がそう呟いて電車のつり広告を見たところで目的の駅に着いてしまった。まだ朝早いがぎゅうぎゅうの電車だ。同じく電車に乗っていた人々は吐き出される。何と言っても通勤ラッシュ時だ。この駅は別の地下鉄の路線への乗り換えが可能なため、降りる人は多い。それに紛れながら龍翔はぶつぶつと自分の行動を確認する。

「まずは定期入れを探す。それからパソコンの電源を入れる。そうしないと定期入れなんてまた忘れるからな。帰りの電車まで気づかないかもしれない」

 普通の人が聞いていたら、パソコンの電源を入れたところで定期入れの捜索を忘れないだろうと思うところだろう。が、実際に龍翔はパソコンに向かってしまったら最後、予定がなければ一日中パソコンの前にいる。

 というのも、龍翔の仕事は研究をすること。それも理論物理学という、普通の人が訊いたら敬遠するような代物だ。今はもっぱら宇宙の成り立ちについて研究中である。ということで、一般の人とは時間の使い方が大きく違った。丁度学生たちが夏期休暇に入り、自分の研究に熱中できるものだから余計に動かない。

 そんな龍翔は右頬に少し大きめな黒子があることが特徴というくらい、普通の三十一歳の男だ。ちょっと童顔なことも特徴になるだろうが本人が気にしたことはない。

 しかし、格好が白のワイシャツに黒のジーパンというスタイルのため、大学に勤めているとは思われずに学生に間違われることが多かった。これでも助教という地位にあるのに悲しいことだ。髪も若者らしく少し前髪が長く右側で分けているのも要因の一つだろう。どこかお坊ちゃまな感じが出てしまっているのだ。実際、ちょっと呑気な性格をしている。

「はあ。どうしてあれを一緒に入れちゃったかな。まあ、落とすはずがないという前提条件があるし、それに肌身離さず持っていると安心感があるというか、他に適切な場所がないというか」

 地下鉄の改札を抜けて地上に出て八月の暑い太陽の光を浴びても、龍翔の憂鬱は晴れない。煩く鳴く蝉の声も耳に入っていなかった。

 そもそも定期を落としてしまったので久々に切符を使っている。これが余計に事態の重大さを認識させることとなっていた。もちろん、交通費が余計に発生するのは気になる。しかし、一緒に入っていたものが重大過ぎた。あれを見られたらと思うと、龍翔の心は真冬のように冷たくなっていく。

 とぼとぼと大学への道を歩き出すと、それを叱責するかのように急に背中を叩かれた。それもかなり強めだ。おかげで少しよろける。日頃からパソコンばかり見ているから体力がないので、突然のことに身体が反応しない。

「先生。おっはようございます」

 そう元気いっぱい、龍翔とは真逆のテンションで挨拶をしてきた犯人は、龍翔と同じ研究室で研究に励んでいる浜野千佳だった。見た目は可愛らしく長い髪がさらさらと揺れているのだが、時折冷たく的確なツッコミを入れてくれるという、精神的に複雑な気分にさせてくれる相手である。そんな千佳は二十七歳で、研究者としての人生を歩み始めたばかりだ。龍翔と違い、まだまだフレッシュというわけだ。

「お、おはよう」

 どうしてここで会っちゃうかなと、龍翔は背中を擦りながら挨拶を返す。結構痛い。こう毎日のように叩かれていては、そのうち痣が出来そうだ。が、それよりもうっかり考えていたことを言ってしまったらどうしようとの懸念が、むくむくと龍翔の心の中に広がっていく。

「で、先生。さっきからぶつぶつと独り言を言ってましたけど、大丈夫ですか。夏バテでもしましたか?」

「い、いや」

 いきなりの質問に龍翔はドキッとした。しかも独り言を聞かれていたというのは痛い。

「あ、じゃあ、落とし物ですね。どこに行ったかなって探してたとか?」

 その指摘に、龍翔は心臓が飛び出すかと思った。懸念していたことを速攻で訊かれてしまっている。龍翔は今、自分の顔が引き攣っていないか。それが非常に気になった。

「あ、その顔は何か落としたっていうので合ってますね。先生って結構鈍臭いですもんね」

 もう完全に顔が引き攣ったのを自覚した。どうして彼女はこうもズバズバ言い当ててしまうんだ。しかしまだ落とし物をしたことを見抜かれただけだ。ここは冷静に対処すべきだろう。

「そうなんだよ。定期入れを落としたようでさ。大学に忘れているだけだったらいいんだけど」

 苦笑いを浮かべて龍翔が白状すると、ああやっぱりと千佳は笑う。どうしてやっぱりなんだ、お前も理系だから根拠を示せと言いたくなるが、今は墓穴を掘りそうなのでぐっと堪えた。

「見かけたら言ってくれよ。今月はまだ半分以上残っているし」

 それだけ言ってさっさと歩き出そうとした。今日は八月十日の月曜日だ。定期は毎月一日に買っていることを千佳は知っている。信用性のある言い訳だろう。が、相手も同じ目的地に進んでいるので捲けるわけではない。当然、まだまだ定期入れの話題が続く。

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