妻の写真でオナニーがしたい

深上鴻一:DISCORD文芸部

妻の写真でオナニーがしたい

#1

 妻が死んだ。

 病院のベッドの上で俺と子供達に見守られながら、静かに息を引き取った。余命宣告された通りに、約1年後の朝のことだった。まだ若い医者の言うことなんて、律儀に守る必要はなかったのに。


「だってお父さん、私が長生きしすぎたら、先生の診断が間違ってたことになるじゃないですか。それって可哀想」


 妻の身体は、思ったよりも軽かった。自宅の和室に敷いた布団の上に、妻は寝かされた。準備はすべて娘がしてくれた。葬儀屋への手配はすべて息子がしてくれた。そういうことは俺、夫である俺が本来やるべきことだと思うのだが、ふたりは何もさせてくれなかった。妻が亡くなったことで、何もできなくなるほど俺が落ち込んでると思ったらしい。そんなことはなかった。確かに落ち込んでる気はするけれど、俺だって約1年前から覚悟はしていたのだ。


 葬儀にはたくさんの参列者が来てくれた。こんな時にしか顔を見せない親戚などどうでも良かったが、名前だけは聞いたことがあった妻の友人たちが、まさしく列をなしてやって来てくれた。仕事を引退したあと、妻は大きなコーラスサークルに所属していて、友人は人一倍多かったのである。彼女たちは、たくさんの花まで供えてくれた。鮮やかな洋花だった。


「私のお葬式には、ぜったいに洋花を飾って欲しかったの。菊なんて嫌。だってそれじゃまるで、ほんとうにお葬式みたいじゃない」


 葬儀が終わると、息子はすぐに飛行機に乗って大阪へと帰って行った。それでいい。社会人とはそういうものだ。娘はその後も家の片付けで走り回っていたが、まだ幼い孫の手を引きながら新幹線で今朝、やっと仙台へ帰って行った。

 リビングは今、ひどく静かだ。仮面ライダーの人形を持って走り回る孫がいないと、こんなにも家は静かになるらしい。妻が入院中も、私はひとりで暮らしていたわけだが、こんなに静かな家だったろうか。どうもそれが記憶から欠落している。

 テレビでもつけたら少しはましになるかと、リモコンを探した。いつもの場所にはなくて、部屋の中をうろうろと探し回ってしまった。テレビ台の上に、それはきちんと置かれていた。横には親戚が忘れていったと思われる、煙草が並んでいた。その上には100円ライターが乗っている。


「まさか、また吸う気じゃないでしょうね。吸ったら離婚ですからね。本気ですよ。私は本気で離婚を考えますからね」


 煙草を一本出してくわえて、火を点けた。記憶と違い、そんなにうまいものでもなかった。灰皿がないので台所に行き、シンクに落として水をかけて、消した。



#2

 妻の部屋に入り、遺品整理を始めた。タンスの引き出しには「夏物」とか「セーター」とか手書きのシールが丁寧に貼られている。

 洋服を整理しているうちに、このシールは妻のためではなく、俺のために書かれたものだとわかってきた。妻は自分が亡くなったあとのことを、考えていたのだろう。

 本棚に並んだ本もブックオフ行きかなあと眺めていると、アルバムを見つけた。出してみると、それはとても古いものだった。俺と妻の結婚する前からの写真が、きちんと貼られている。この頃の妻は痩せていて、率直に言って美人だった。


「それじゃ今は、美人じゃないってこと?」


 結婚式の写真の後は、ハワイでの新婚旅行の写真が並んでいた。ワイキキビーチで撮った、ビキニ姿の妻が恥ずかしそうに笑っている。

 そうだ。その晩、ホテルで写真を撮ったのだ。

 嫌がる妻に頭を下げて、たった一枚だけ。

 それは妻の、ヌード写真だった。



#3

 部屋を右と左に分けて、今日は右から探すことにした。当時はまだフィルムで、個人でやるならば別として、現像所に出さないと写真はプリントできない。そして猥褻な写真は、現像所でプリントしてくれなかった。つまりあのヌード写真は、猥褻ではなかったのである。だからと言って芸術的だった、ということでもない。単純に妻が恥ずかしがって、胸も股間も手で隠してしまっただけのことだ。

 部屋を探しているうちに、俺が昔にプレゼントしたものを見つけた。今となっては当時の俺のセンスを疑うようなネックレスだった。しかも、見るからに安物だ。だから妻は使わなかったのだろう。


「そんなことないわよ。私、いつか一番いい日に使おうと、大事に大事にしまっておいたの」


 妻の遺品を整理するという仕事は、妻の生涯を理解する仕事のような気がしてきた。特に妻は何でも捨てずにしまっておくタイプの人間だったから、過去を思い出せる品々がどんどん出てくる。

 飼った犬の乳歯なんて、どうして取っていたのか。それでも俺も、それが何かわかったのだから不思議なものだ。若くして亡くなってしまった犬の、それも初めて家に抱き抱えて家に連れて来た日のことを、それで俺は思い出してしまった。もっともっと散歩に連れて行ってあげるべきだったなあ。


 もちろん息子が幼稚園の時に描いた絵や、娘が書いた作文なども出てくる。ひとつひとつ見ていると探索が遅々として進まないが、どうせ急いでやらなきゃいけないことでもない。のんびりと昔を懐かしみながらやろうと、俺はそう決めた。



#4

 妻の部屋を探索し始めて、数日が過ぎた。ヌード写真は一向に見つからない。妻のことだから、どこかにしまってあってもおかしくないのだが。


「そんな写真を探す暇があったら、他にすることがあるでしょう。生きてる者は、その残された時間を有意義に使わないといけないのよ」


 どうして俺は、あの写真にそんなにこだわるのだろう。しかし、やはりもう一度見たかった。まだ若くて健康だった妻の姿を、もう一度見たかった。俺はひょっとしたら、あの横たわった妻の最後の姿を、忘れたいと思っているのではないだろうか。白髪頭で骨が浮き出た妻の姿を、あのヌード写真で上書きしたいと思っているのではないだろうか。

 夫として、人として、それはどうなのだろう?

 それでも決めたことがある。

 あの妻の写真を見つけたら、俺はそれでオナニーをするのだ。


「バカじゃないの?」



#5

 仙台にいる娘から電話がかかってきた。どう、落ち着いた?と生意気に娘は言う。ヌード写真を探していることを教えようかと思ったが、頭がおかしくなったと思われるかもしれない。ましてや、それでオナニーをしようとしているなんて。娘には、のんびりと落ち着いて暮らしてるよ、とだけ答えた。


 妻の部屋の、左側の探索を始めた。旅行の時に買ったたわいのない品々、例えば携帯電話に付けるご当地ゆるキャラのストラップなどが出てくる。スマホになって穴が無くなったから、こんな物は使い道がない。ほら、俺が言った通り、金の無駄だった。


「いいえ、いいえ。文句を言いながらも、父さんは必ず買ってくれたでしょう。それが一番、私は嬉しかったの」


 輪ゴムで束ねられた年賀状が出てきた。妻は律儀な性格だったからリストを作り、毎年毎年、去年いただいた方には必ず送っていた。俺はそういうことが面倒で嫌いだったから、すべて妻に任せていた。あらためて見ると、俺の親戚からの年賀状が何枚もある。葬式に来てくれたのも、そういう繋がりがあったからなのだろう。

 そして驚いたのは、年賀状の下のお年玉番号に、すべてチェックが付いていたことだった。まったく、こんなことまでしていたなんて。



#6

 部屋の探索が始まってから4日目、今日はそろそろお開きにして寝ようかと思っていた頃、黄色い鳩サブレーの缶を見つけた。それは押し入れの奥の、ダンボールの底にあった。間違いなかった。ヌード写真は必ずこの中にある。妻がこの中にしまう姿を、俺ははっきりと思い出していた。

 缶を開けると、中には写真がない。ただ小さな紙が、一枚だけ入っていた。便箋だった。間違いなく妻の字で、それにはこう書いてある。

 

「あの写真は燃やしました。ゴメンネ!」


 俺は応える。


「いや、謝ることはないよ。たかがオナニーをしたかっただけだし」


「そうねえ。娘が生まれたあとは、セックスすることがなかったわね。やっぱりそれが不満だった?」


「そんなことはないな」


「それはじゃあ、外でセックスしてたからなの?」


「なんだ、知ってたのか。ばれないようにしてたつもりだったのに。それ、怒ってる?」


「いまさら怒りませんよ。私はもう、死んだんだし」


「うーん。正直に言ってくれた方が楽なんだけどなあ。俺が死んだあとも、墓の中でネチネチ言われるのは嫌だ」


「あら。同じ墓に入るつもりだったの?」

 

「いいだろう、入れてくれよ」


「入れませんよ」


「愛してるのに?」

 

「まあまあ、まあまあ」


 妻は笑顔で言った。


「知ってましたよ。でもそういうことは、生きているうちに、目の前で言うものです」



#6

 俺は便箋だけを取り出して、鳩サブレーの缶を閉じた。そして元のダンボールの底に入れ、押し入れの奥に戻した。

 遺品整理は、また今度やろう。もっともっと、俺がひとりに耐えられるようになったら。必ず。


 リビングに戻ってきた俺は、たまにはゆっくりと旨いアイスコーヒーでも飲もうと思った。妻がコーヒー好きで、カルディでいつも高いコーヒー粉を買っていたのだ。キャニスターを出して開けてみると、中には粉が入っていない。妻が入院前に、すべて飲み切ったということか。

 仕方がないので、いつものようにインスタント粉をグラスに溶かした。当初の予定通り、冷凍庫を開けて氷を探す。製氷皿が、どこかに埋まっていると思う。

 すると中から、コーヒー粉を見つけてしまった。長期保存するために、妻はそれを冷凍庫にしまっていたのだ。


 ひょっとしたら妻は、家に帰るつもりだったのかもしれない。


 妻のヌード写真はみつからなかった。

 だから俺は、それでオナニーはできなかった。


 代わりに両腕で顔を覆って、その晩は泣いた。

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