Vol.2.1 【恋人 男性編】
「どうして分かってくれないんだ!」
「あなたこそ、いつまでも夢ばかり見てないで現実を見なさいよ!」
午後のひととき。
落ち着いた雰囲気の喫茶店には似つかわしくない、怒鳴り声が響き渡る。
見ればどちらも20代半ばくらいの男女だ。
「もういい。勝手にしろ!」
「ええ。全く付き合ってられないわ」
そう言って喧嘩していた内の1人、女性の方が店を飛び出していく。
残った男性の方は乱暴に椅子に座り直し、コーヒーを飲もうとして冷めてしまっている事に気付き、注文しなおす。
「どうぞ」
「ああ。熱っ。
……ズズズッ。
……はぁ」
男性はおもむろに周囲を見回して自分とマスターしか居ないことを確認すると、マスターに声を掛けた。
「ねえマスター。どうしてあいつは俺のことを理解してくれないんだろう」
「ん?ふむ」
「最初はさ、俺の言うことを凄いねって言ってくれてたんですよ。
それなのに先月同棲し始めてから、どうにも俺の言う事やる事、とにかく口を出してくるんですよ。
あいつは俺の母親かって言うくらい」
「ほぉ、それはそれは」
「マスターは良いですよね。奥さんと仲良さそうで。
喧嘩とかも全然無いんじゃないですか?」
それを聞いたマスターは一瞬驚いた顔をした後、笑い出した。
「はっはっは。そう見えますか。
それはまた有難い事ですね。
ですが、私達も若い頃は喧嘩の連続でしたよ。
それこそ、先ほどのあなた方のようなやり取りもしましたね」
男性は心底意外そうな顔をした。
それと共に「どうして?」という疑問が沸いた。
「あの、それじゃあマスターはどうして今みたいな関係になれたんですか?」
「そうですね。色々とあるのですが、最初にした約束はお互いに『当たり前だ』って思うことをやめることでした」
「当たり前、ですか?」
「はい。例えば先ほど『どうして分かってくれないんだ』と仰っていたではありませんか。
それは『分かって当たり前だ』という事ですよね。
私は自分の気持ちすら分からない事があるのに、他人の気持ちが分からないのは、それこそ当たり前で、怒ることでは無いじゃないですか。
それに『当たり前だ』って考えると傲慢になってしまうんですよね」
「傲慢……」
「『言わなくてもやってくれる、分かってくれるのが当たり前だ』」
「あっ!」
「自分の気持ちも、相手の気持ちも言葉にしないと伝わりません。
まあ、言葉にしてもすれ違いがありますけどね。
そういう時は、何がしたいのか、だけではなく、どうしてしたいのかを伝えたり、逆に相手がどこを見ているのかを聞いてみると良いかもしれませんね。
コップだって横から見れば四角ですが、上から見れば丸です。男と女、生きてきた場所も違えば、小さい頃からの習慣も違います。
そういった事を一つ一つ話し合って、なんとか今の関係を築いてきたんですよ」
「なるほど、そうだったんですね」
男性は頷き、コーヒーを口に含む。
その苦味が喉の奥に染み渡る。
「あとはそうですね。『自分に出来ないことなのに相手が出来ないのを見て怒ったり失望したりするな』だったでしょうか」
「はぁ、マスターにも出来ないことがあるんですね」
「ありますとも。私は、こう見えて朝が苦手だったんですよ。
いつも朝起きると彼女が先に起きていて朝食を用意してくれているんです。
それがある日、珍しく彼女が寝坊しましてね。まぁその前の晩遅くまで仕事をしていたせいなのですが。
それを見た私はついつい怒ってしまったんですよ『なんで私より起きるのが遅いんだ!』とね」
「うっ」
それを聞いた男性が苦虫を噛み潰したような顔をした。
もしかしたら、どこか心当たりがあったのかもしれない。
「いやぁ、言った瞬間、これはダメだと思ったんですけどね。
彼女も連日の疲労から鬱憤が溜まってたようで、怒鳴り散らされましてね」
「そ、それからどうしたんですか?」
「土下座したり、抱きしめたり、頭撫でたり、もう思いつくことを何でもしましたよ。
お陰で何とか許して貰えました」
「土下座って。その、プライドとかが邪魔したりしなかったんですか?」
「彼女の隈と涙と怒りでぐちゃぐちゃになった顔を見たらどうでもよくなりました。
大切な人を笑顔に出来ないようなプライドに価値など無いのですよ」
「そう、ですね。
ありがとうございます。マスター。
あいつはこんな俺の事をまだ許してくれるでしょうか」
「その気持ちがあれば大丈夫ですよ。
さあ、善を為すなら急げ、悪を正すなら更に急げと言います。
すぐに追いかけておあげなさい」
「はい!」
返事をし、喫茶店を飛び出していく男性。
マスターはそれを見送りながら静かに空になったコーヒーカップを片付けていった。
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