短編集『やすらぎ一杯500円』
たてみん
Vol.1 【作家】
ここは駅前から道2本ほど逸れた住宅街の中にある喫茶店。
名前を『陽だまり』といいます。
近所の学園の生徒や、通勤の行き帰りに寄ってくださる社会人、そして地元の方々にご愛顧頂いております。
さて最近、朝のモーニングでの混雑が落ち着いてきた頃を見計らってほぼ毎日いらっしゃるお客様がおります。
年の頃は30手前といったところでしょうか。
いつも席に座るとノートパソコンとスケッチブックを1冊取り出して何かを書いてらっしゃいます。
おや、今日は随分と考え込んでしまっているご様子です。
他のお客様も帰られたことです。
コーヒーをお持ちするついでに、声を掛けてみましょう。
「コーヒーをどうぞ」
「ああ、ありがとうございます」
「何か悩み事ですか?」
「いやぁ、悩みというか、ちょっと行き詰ってましてね。
どうしたら良いものかと試行錯誤をしていたところです」
「なるほど。お聞きしても良い内容であれば相談くらいは乗らせて頂きますよ」
「ありがとうございます。
実は僕は小説を書いているんですが」
なるほど。作家さんでしたか。
それではノートパソコンはいつも原稿を書かれているのですね。
「最近、どういう内容にすれば読者に喜んでもらえるのか分からなくなってしまいまして。
色々な人の意見を聞いて書いてみると『それはどうかと思う』『前のほうが良かったのでは』なんて意見も受けるもので、
最近では何が正しくて何が間違っているのかと、思考の袋小路に迷い込んでしまったんですよ」
「なるほど。それは私にも経験があります」
「そうなんですか!?」
「ええ。この喫茶店も、今でこそ安定してお客様が来てくださいますが、開店当初はそれはもう酷い有様でした」
当時を思い返すと、よく頑張ったと自分の事ながら褒めてあげたくなります。
何度お店を畳もうかと考えたことか。
「1日に1人もお客様が来ないこともよくありました。
常連になってくれたと思ったら、ぱったり来なくなる方も居て、閉店後、何がいけないのかとずっと悩んだものです。
店のレイアウトが悪いのかと考えたり、メニューが悪いのかと考えたり、そもそも自分には向いていなかったんじゃないかと考えることもしばしばでした」
「ああ、分かります。僕も最近、小説家なんて向いていないんじゃないかと考えていたところです。
それで、どうして続けることが出来たんですか?
何か劇的な改善方法が見つかったのですか?」
私は首を横に振りました。
「『これをすればよい』なんて絶対的な正解なんてありません」
「じゃあ、どうやって」
「そうですね。私の場合は、そうして悩んでいたある日、とあるお客様がいらっしゃってこう言ったのです。
『とっても素敵なお店ですね』と」
「……え、それだけ、ですか」
「ええ」
その時のお客様の目は今でも鮮明に覚えています。
『ですが』と口に出そうになったところで、その確信に満ちた目を見たら、間違っているのは私の方なのだと気付かされました。
「私は子供の頃から近所にあった、人々の憩いの場となる喫茶店が大好きでした。
だから大人になったら自分もそんな大好きな喫茶店を創るんだと決めていました。
来て下さった人たちが笑顔になるような、そんな空間を創るんだ、とね」
「なるほど。それでこんなにこのお店は居心地が良いんですね」
そう言われて思わず笑顔になります。
「ありがとうございます。
長いこと苦労をしたせいで、その想いをどこかに置いて来てしまっていたんです。
それを、そのお客様に思い出させてもらいました。
それからはもう無我夢中でしたね。
どうすれば自分の理想に近づくのか、この店をもっと好きになるにはどうすれば良いのか。
それこそ寝食を忘れて色々とやりましたね」
「そして、今のこのお店が完成したと。そういうことなんですね」
「いいえ」
私は再び首を横に振りました。
「私も、この店も、まだまだ成長途中ですよ。
私はもっとこの店を好きになれるし、この店ももっと多くの人に愛されるものに出来ます。
私がそうします。
っと、気が付けば私の話ばかりしてしまいましたね」
「いえ、とても参考になりました。
ありがとうございます」
そういったお客様の顔は最初よりもずっとすっきりしたものになっていました。
「僕も、一度原点に立ち返ってみようと思います。
なぜ小説を書き始めたのか、どういう作品を書きたいのか。
そして、胸を張って自分の作品が世界一素晴らしいんだって言える様になります。
……うん、そうですよね。
結局は自分の好きな事を形にするのが芸術家でした。
自分の裡に秘めた想いを文字にしたのが小説家です。
表現の良し悪しはあっても、その作品の一番の理解者は自分なんですよね」
ふむ。もう大丈夫みたいですね。
この方ならきっと素敵な小説を書かれることでしょう。
「いつか、完成したお客様の小説を読ませてください」
「ええ、必ず。完成したらいの一番にお持ちします」
さて、これ以上はお邪魔ですね。
私はお客様と握手を交わして、カウンターへと戻ります。
未来の大小説家の為に、最高のコーヒーを淹れて差し上げましょう。
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