episode6 prepare

現代人は時間に追われているせいなのか、風呂場に魅力を感じないのか、湯船に浸からずにシャワーで済ますことが多いらしい。

僕は暇さえあれば浴槽に入り浸っている。

湯船に浸かることによって得られるリラックス効果もあるが、シャワーでは落としきれない汚れもあるし、何よりもあの温もりが心地よい。


週に数回ジムに通っているのだが、今月は長引いた風邪のせいで足が遠のいていた。

サボり癖がついてしまったわけではない。

今日こそ行く。

いや、今日は仕事で疲弊してしまった。

明日こそ行こう。


そして日は流れた。


─────


「最近、ジムには行っていますカ?」

「ああ、行って……、ないな。ほら、先月ずっと風邪をひいていたからね。」

「そうやってもう行かなくなるのガ、一番よくなイ!今すぐ行きましょウ!Follow me!」


僕は何をするのにもフットワークが軽いと言われる方で、それをいい意味として捉えている。

彼女は僕の更に上を行く身軽さで、思い立ったらすぐに行動に移す。

運動神経が抜群なので、ついていくのがやっとの場面も多々ある。


─────


「ところで、前に話をした……、primaveraプリマベーラの幽霊の……、話…、なん、だけど。」

「ありますヨ。」


息を切らせながらエアロバイクをかっ飛ばす足が止まった。

Sensitive medicine敏感になる薬

その一冊の本のタイトルを見て、ついつい口に含んだスポーツドリンクを吹き出してしまった。


「敏感になる薬……。それって……。」

「何をニヤニヤしているノ?幽霊ガ、見えるようになル。きっとお話もできるようになル。」


不浄な考えをしてしまった僕に気が付かないまま、彼女は淡々と説明を始めた。


「ただこれを飲むト、きっと多分、みんなの声が聞こえるようになってしまウ。その代わりに幽霊とお話をしテ、帰ってもらえル。かもしれなイ。」

「かもしれない……、か。わかった。とりあえずそれを作ってもらおうかな。」


1ヶ月ぶりのレッグプレスで足が笑った状態で、チェストプレス。

肩を鍛えるマシンが故障中だったのが残念だったが、その流れで今まで通りのルーティンメニューをこなし、満身創痍の体をバスルームでほぐし、薄手の部屋着のままパピヨンへ向かった。


─────


「ああもう、僕の家の壁がチョークまみれだ。」

「風ちゃんのためニ、幽霊には帰ってもらいましょウ。」

「人畜無害の幽霊みたいだし、僕と風ちゃんにしか見えていないなら解決する必要もない気がするんだけどね。それにほら、いつも顔を合わせるメンバーの心の声なんて聞きたくないんだよ。」

「そこは我慢してくださイ。あと、幽霊とお話をしテ、取り憑かれたリ、呪い殺されそうになったときハ……。」

「ときは……。」

「逃げてくださイ。それを対処する薬の本ガ、見当たらなかっタ。」


仮に酔っぱらいの幽霊だったとして、逆上されたり絡まれたりした場合は退却という手段しかないわけである。

人外の者と対峙すると思うと、気が進まなくなってきた。


スピリチュアルなホームページや美輪明宏さんのYouTubeを見て予習をするくらいしかできなかった。


彼女が薬品を調合している間、僕はスマホで美輪さんの動画を見ながらパピヨンの外周を歩いていた。

歩きスマホは危険なのだが、この場所に関しては障害物など皆無である。


この建物の造りは非常に簡素なものであった。

古代ローマ時代に栄えたようなレンガ調の壁、しっかり接着はされているのであろうが、不規則に隙間だらけに並べられている。

微小の地震でも起ころうものなら倒壊してしまうのではないだろうか。

いや、そもそもレンガ調の建物文化が繁栄したということは、その地域には地震が起こらないから、という理由があるか。


壁のレンガの特徴をひとつひとつ確認していると、妙なことに気がついた。


「ここの空間って何だろう?建物の中でいうと、暖炉の横辺りか?」


使用されていない暖炉がある場所の上に、煙突が突出する穴があり、その横にはドーム型の空間があった。

大人が数名入れる程の巨大なかまくらのような空間。


「入り口は、無しか……。となると、中から入る感じかな。」


パピヨンの中からは彼女の鼻歌が聞こえていた。

どうやら調合は順調らしい。

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