4 崩れた調和
新学期に入り、また朝早く起きて、登校する生活が訪れた。自宅から徒歩五分の距離のある乙高校は、南佐渡にあるいわば佐渡第二の高校だった。もともとは農業高校であり、およそ二〇年前に普通科の高校に変わった。高校の前には田んぼが広がり、近くには、最近できたホームセンターの他、本屋と軽食屋と食料品店が併設されている平屋のショッピングセンターがあるのみであった。恒平は、町のメインストリートと平行して流れている川沿いの道を通って通学していた。
恒平はいつも通りに六限目が終わると即座に帰宅し、机に向かったが、前よりも勉強に身が入らなかった。そんなときは川沿いの道をおよそ三キロ走った。走っているときは、無心になれて、何がしたいかが見えてくる気がした。恒平は田村と文華(文華とは学校ですれ違うことはあったが)にまた会いたいと思った。
一〇月になったばかりの日曜日、陽気につられて一人で自転車で遠乗りしているとき、自分を追い越した車のクラクションが鳴った。そのシルバーのセダンには見覚えがあった。
次の日の昼休み、恒平は隆に学校で話しかけた。隆は数人のクラスメートとトランプの「大富豪」をやっているところだった。
「おう、どうした?」
「また田村さんの家、行かない?」
「……俺はやめとく。一人で行きなよ」
その返事はあまりに意外で恒平はとっさに返事できなかった。
「えっ、どうして?」
「……それは、まあ、いろいろとあってね」
「いろいろって?」
隆は一瞬の沈黙の後、「俺の代わりにやらない? 手札は悪くない」と言って、見ていたクラスメートに手札を渡すと、立ち上がって、恒平に目で合図した。
二人は教室を出て、廊下の窓際に立った。窓からは無人のグランドが見えた。
「実は、俺、文華さんから田村さんのことで相談されたんだ」と隆。
隆は先週の金曜日、日が落ちてから河原で文華と二人で会って、そこで打ち明け話をされたという。文華が言うには、田村は大検のための勉強もしないで、ゲームに明け暮れていて、それを注意した文華と喧嘩した、ということだった。
「それで、二人は今、冷戦状態になっているんだけど、俺は文華さんの側につくことにしたから、田村さんとは会えないんだ。すまんな」
そう言うと、隆は教室に戻った。恒平も教室に戻り、自分の席についた。教室内は、女子グループのお喋りの声でざわめいていた。恒平は隆から聞いたことを反芻した。自分が首を突っ込むことではない、という声が聞こえた。それはそのとおりだと思えた。しかし、隆を巻き込みながら、自分だけが蚊帳の外という状況が悔しかった。
そこでまずは文華に確かめてみるべきなのではないか、と考えた。隆のことを疑っているわけではないが、自分で確かめたかった。それが特に難しいというわけではなかった。
その日の放課後、恒平は校門前で文華を待った。文華は女子の同級生一人と出てきた。
「こんにちは」と文華に声をかけた。
「こんにちは。どうしたの?」
文華は面食らった様子だった。
「ちょっとお話が」
彼女は一瞬困ったような顔をした後、いっしょにいる子と別れた。それから二人で近所の焼きそばなどの軽食を出す店「パピヨン」に行った。
店内には同じ高校の生徒がいて、自分たちが二人でいることに驚いていたが、二人はお構いなしに空いてる席についた。そこで二人はたこ焼きと烏龍茶を注文した。
「隆から聞きましたよ。田村さんとうまく行ってないって」
恒平はそう切り出した。
「ああ、聞いたんだ。そうだね。そのとおりだよ」
「……ですけど、二人で解決できないんですか?」
「わたしも隆くんを巻き込むつもりはなかったんだけど、知伸のことを訊かれて、話したってわけ。もう別れるかも」
「……そうでしたか。何というかちょっと残念な気がします」
「そう? なんで?」
「何というか、ぼくは夏休みに四人で会ったときが楽しくて、またあのときのように会えないと思うと残念です」
「なるほど、そうだね。だけど、あのときからすでに亀裂は走ってたのよ」
文華はそう言って、恒平の目を覗き込んだ。
「わたしは大学進学希望なんだけど、三年になってから勉強が忙しくなってね。親は知伸との交際に反対しているし、知伸はあんな風だし……。そういう逆境の中で彼の家から足が遠のくようになって」
文華はたこ焼きをつまんだ。
「なるほど、そうでしたか。ところで、隆のことはどう思ってるんですか?」
「う~ん、カッコいいと思うよ」
「えっ、じゃあ、隆と付き合うことはあり得るんですか?」
「あり得るよ」
その言葉は恒平には衝撃的だった。恒平はたこ焼きを頬張った。たこが熱くて、思わず吐き出しそうになった。
「そんな食べ方したら、熱いに決まってるでしょ」
文華はそう言って笑った。
恒平は自宅に戻ると、自室に篭った。普段なら勉強している時間だが、今はどの科目のどんな問題も解く気になれなかった。
恒平はベッドに仰向けになると、夕暮れ時の薄暗い部屋の中で、電気を点けないままでいた。一階の台所から、祖母が夕食の準備をしている音が聞こえた。もう何年もこの家でこうして家事を担っているのだろう。それはこれからも変わるまい。おそらくは亡くなるまで。祖父が亡くなったのは、小学生低学年の頃だった。その後、ある日の夕暮れ時、祖母が庭で遺品を燃やすのを見たことがあった。そのときの寂しそうな背中。……あれから何年ものときが経った。
恒平は自分が人間関係にショックを受けていることが意外だった。青春ドラマっぽいことに対して冷笑的であることを旨としていたふしがあったから。恋愛に一喜一憂するのは馬鹿だ、と。しかし、それが自己防衛でしかないとしたらどうだろうか? 一年生のとき、文化祭の準備のときに、憧れていた
恒平は隆が羨ましかった。なぜ隆なのか。それは直観的に明らかだった。
もう学業一辺倒の時代は終わった、と思った。本棚には数学、英語、古文、日本史などの多数の参考書・問題集が詰まっていた。なるほど、それらの本で扱っている知識は大学受験には必要なものなのだろう。しかし、今の自分にとってそうした知識に意味があるとは思えなかったし、将来役に立つ知識がどれだけあるか、およそ見当がつかなかった。こうした知識を得ることが途方もなく無意味だとしたら? つまり、大学進学という、日本社会で優位に立てるとされるパスポートと引き換えに、どうでもいいことを暗記させられているとしたら、どうだろうか? この抜き差しならない家庭という再生産装置の中で、ただ合理的な最適解に向けてひた走っているだけだとしたら? 一流大学に入ることはある種の勲章になるだろう。だが、それで誇りが持てるだろうか? もし合格したとしたら、ひとまず努力は報われた、と言えるだろう。しかし、そのための努力が果たして正しいことなのか? もっと他に学ぶべきことがあるのではないだろうか? 学業成績は上がるが、何一つ体験がないという空虚な日常の中で飼い馴らされている。恒平は息苦しくなり、部屋から出ると、一階の電話コーナーに行って、田村の家に電話をかけた。
「はい、田村です」
お母さんらしき人が出た。
「あ、あの、柿崎と言いますが、和伸くんお願いします」
「はい、少しお待ちください」
恒平が誰かの家に電話したのは久しぶりだった。ましてや田村という決して親しいとは言えない間柄の人に電話することは今までの行動からはおよそありえなかった。
「もしもし」
田村の声に恒平は高揚した。
「どうも。お久しぶりです。柿崎です」
「ああ、久しぶり。どうした?」
「実はですね。今度また田村さんの家に遊びに行きたいと思っているんですけど、どうでしょうか?」
「……いいよ。隆くんもいっしょ?」
「いえ、たぶんぼく一人で行くと思います」
「マジで? そっか、わかった」
恒平は日時――三日後の午後――を決めてから電話を切った。
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