2 田村知伸との出会い
一九八八年八月七日(日)。
模試を受けるために、わざわざ海を渡った恒平は、新潟港の船乗り場で佐渡島に戻るためにカーフェリーを待っていた。カーフェリーで佐渡の両津港まで二時間二〇分、そこから自宅まで車で約四〇分の道のりである。
夏休み真っ只中の観光シーズンなので、乗船客は少なくなかった。レジャーの人も多いだろう。模試帰りの人は自分くらいではないだろうか? 燦燦と照る太陽に背いて、恒平は空調の効いた予備校の教室で何時間にもわたり、問題に取り組んでいたが、特に数学で解けない問題が数問あり、敗北を感じた。模試が終わると、恒平は本屋で参考書の他にエロ漫画を衝動買いした。今は家でエロ漫画を見ることが唯一の楽しみだった。
「よう、恒平か」
隣から声を掛けてきたのは幼馴染で同級生の寺西隆だった。
「あれ、何してるの?」
「俺はライブに行った帰り」
恒平はライブに行ったことはなかったし、行こうとしたこともなかった。ライブがどういったものかも詳しくは知らなかった。
「へぇ〜」
「BUCK-TICKのライブ」
恒平はそのアーティストをよく知らなかった。
「……そっか」
「恒平は? 何してたの新潟で?」
「俺は模試があって」
「夏休みなのに大変だね」
「しかも、さんざんなできでさぁ、嫌になってくるよ」
「俺が受けたらもっとひどい結果になるのは目に見えてるよ」
二人とも高校二年生だったが、隆は大学進学コースではなかった。そういうわけで、夏休みの授業もなく、部活以外は自由を謳歌できる立場だった。恒平は羨ましい一方で、自分がそうなりたいかといえばそれはなかった。それは恒平には学業以外に何一つ取り柄がなかったからだった。隆は学業はパッとしなかったが、友達が多くて、自分よりもはるかに高校生活を楽しんでいるように見えた。性格が違った。性格こそが大きかった。隆は人見知りするタイプではなく、一年生のときから新しいクラスメートと積極的に交流していた。それは、恒平が未だに小中学校からの友達以外にまったく友達がいないのと対照的だった。
「でも、隆は受けないでしょ?」
「たぶん受けんな」隆の表情が一瞬翳った。「俺は進学するとしても専門かな」
進路は一つの選別のシステムである。専門学校は大学に比べて、楽は道だろうし、就職先も限られている、と言われている。しかし、自分の知らない世界を持っている隆に恒平は惹かれていたし、ほとんど尊敬の念すら抱いていた。たとえば、服装にしても、モノクロの写真の入ったTシャツに短パンにスニーカーという隆の服装は、恒平には真似できなかったが、格好良いと思えた。恒平はどこでそうしたアイテムが買えるのか知らなかった。
「中途半端な大学行っても、あんま意味ないって言うからね」
やがて乗船が始まり、列が動き出した。二人は、二等船室、つまり一番安い船室の一隅に陣取った。そこは靴を脱いで上がるフラットなスペースで、通常はそこで横になることができた。船室内は、そこそこの混み具合だったが、十分に横になれるスペースがあった。隆は横になると、紀伊国屋のビニール袋から漫画本を取り出した。
「読む?」
『右曲がりのダンディー』という漫画本だった。巻は違ったが、二人で同じ漫画を読んでいた。どこか兄弟みたいだな、と恒平は思った。
そんなとき、隣のスペースに同年代の男子が来た。黒地に白の柄の入った開襟シャツに白いパンツという服装は、恒平には真似できなかった。その子は自分たちをチラ見してから隣に寝た。
船が出港すると、隣の子はタバコを吸い始めた。恒平と隆は顔を見合わせた。船内は喫煙可だったが、未成年がタバコを吸うのを見逃すのか?
「なんか文句あっか?」
二人が何か言う前に黒シャツの子が絡んできた。
「いえ、何も」と恒平。
「高校生ですか?」隆は訊いた。
「今は違う。でも、一年前は乙高生だった」
「マジすか! 俺らは乙高校の二年生です」
「じゃあ、俺は君らの一年上だ」
「そうでしたか」
「俺は田村っていうんだ」
恒平はその名前に聞き覚えがあった。素行不良で退学になったという話を聞いたことがあった。
「もしかして、BUCK-TICKのライブ行ってました?」
隆が訊いた。
「おお、行ってたよ。君もか?」
「はい。行ってました。良かったですね」
「ああ、最高だったね」
二人は曲名を挙げたりして盛り上がっていたが、恒平は蚊帳の外だった。話が尽きたところで、恒平のことが気になったようだった。
「で、君は新潟で何してたの?」
「ぼくは模試を受けに」
「模試を? わざわざ新潟まで? 君も奇特な奴だな」
「そうなんですよ。こいつは勉強一辺倒なんですよ」
「乙高校でそんな奴も珍しいな」
「でしょう? 変わった奴ですよ」
「吸うか?」と田村さんが恒平にタバコを差し出した。
「いやいや、吸わないですよ」
「……田村さんは今は何をされてるんですか?」と隆。
「家の手伝いとか。大検の勉強したりとか」
「大検という道があるんですね。大学を目指してるんですか?」
「わからない。とりあえずは、高校卒業の資格を取ることが目標か」
田村はそう言うと、空き缶入れと灰皿を兼ねている金たらいでタバコの火を消した。
「高校を退学したって聞きましたけど、どうしてですか?」
隆が訊いた。
「ああ……、担任とケンカしてね。化学の北島っているだろ。どうしても、許せないことがあって」
田村の話によると、友達が喫煙のために修学旅行に行かせてもらえなくなり、北島に詰め寄ったが、そこで思わず北島の胸ぐらを掴み、停学になったのを機に退学を選んだ、ということだった。恒平にはそういった行動は途方もないことで、その是非はともかくその行動力に称賛の念を覚えた。
恒平が隆に誘われて、田村の家に行ったのは、田村と出会ってから二週間余りが経ったお盆過ぎだった。田村の家は隣町にあり、二人の居住する地区から自転車で三〇分くらいの距離だった。ちょっとした山を越えるため、かなり運動になる道のりだった。田村の家は海岸通りから内陸に入った道沿いにあった。納屋のある典型的な田舎の家といった風情だった。
着いたときは、午後一時過ぎで汗が滴り落ちた。事前に言われたとおり、納屋の引き戸を開けて、「こんにちは」と声を発すると、「おう、よく来たな。上がれよ」と二階から田村の声がした。
はしご状の急な階段を上がり、障子の引戸を引くと、六畳くらいの部屋で、テレビ、ビデオ、コンポの黒いAV機器とゲーム機に加えて、漫画本が詰まった本棚と机が目についた。田村はプレイ中のRPGを中断した。
「なんでも好きなゲームやっていいよ」
田村はゲームをセーブすると、そう言って、ゲームソフトの入ったプラスチックのケースを差し出した。そこには二〇は下らないソフトがあった。
二人で代わる代わる好きなゲームで遊んだ後は、各々が好きなCDを掛けた。恒平は名前だけ知っているバービーボーイズを掛けた。男女の掛け合いの歌声やメロディには惹かれるものがあったが、曲の歌詞は恒平には縁遠い世界だった。
日が陰ってきた頃、階段を上がってくる人の足音が聞こえた。障子を開けた主は同世代の女子だった。短パンから伸びるほっそりした脚にぴっちりしたTシャツという服装は刺激的だった。
「紹介するよ。俺の彼女の
文華は目を輝かせて二人を見た。恒平は予期しない女子の合流に胸が高なった。
「もうちょっと音量下げてよ」と「はじめまして」の挨拶が終わると、文華は田村に言った。
蝉の鳴き声が聞こえる程度に音楽の音量が下がった。文華は田村の隣に座った。
「知伸から聞いたよ。船で知り合ったんだってね。BUCK-TICKファンの子が隆くんね。わたしもライブ行きたかったけど、ちょっと都合が悪くなってね。残念だったわ」
「で、そちらがお勉強好きの恒平くんね」
「……というか、他に取り柄がないので」
「二人とも部活は何してるの?」
「帰宅部です」
「俺はバドミントンです」
「そうなんだ。わたしも中学のときはバドミントン部だった。今はテニス部。もう引退したけど。わたしのこと知らない? 君たちと同じ乙高校の三年生なんだけど」
「いえ、知ってます。田村さんとは長い付き合いなんですか?」
「高校一年の夏から」
「どちらがアプローチしたんですか?」
「そりゃ、知伸よ。知伸がわたしの席の後ろになったとき、よく話し掛けられて……。あまり話さなそうに見えたから、意外だった。話題は、部活のこととか。知伸もテニス部だったから。ある日、部活の帰りが一緒になって、そのとき、川沿いの道で告白されたの」
「おお、いいですね~。青春って感じじゃないですか」と隆。
皆の視線が話題の人に集まったが、田村は無言のままだった。
「何黙ってんのよ。何か言いったらどうなの?」
「何も言うことはねぇよ」
田村は誰とも顔を合わせずに、大声を出した。
外はすっかり暗くなった。帰ろうとしたが、田村はこれから自分の運転で隣町まで食事に行かないかという。それは非常に突飛な提案で、予想だにしていなかったが、大いに惹かれるものがあった。
隆と顔を見合わせると、その目の輝きは明らかに乗り気なことを示唆していた。
トヨタのセダンのカーステレオからは渡辺美里の「My Revolution」に続き、TM NETWORKの「Get Wild」が流れた。その選曲と、夕日に照らされた海と空という景色があいまって、土曜の夕方の友達との初ドライブは、めくるめく高揚感を恒平にもたらした。
車内では、海水浴や夏祭りの話が出た。恒平はこの夏に一度も海に行ってなかったし、八月の終わりの夏祭りに行く予定はなかったが、三人の会話からそうしたイベントの楽しさが大いに伝わってきて、それらに背を向けている自分の生き方に疑問を感じずにはいられなかった。
約二十分のドライブと一、二分の徒歩の後、店に着いた。そこは島内では有名なとんかつ屋「かつふみ」で、恒平は昔一度家族と来たことがあった。小上がりとテーブル席があった。四人は小上がりに案内された。客は家族連れが多かった。店に入るや否や、他の客の好奇の視線を浴びた。
四人が案内されたのは、長テーブルで隣には小学生くらいの子供二人がいる家族連れがいた。田村は注文を終えると、さっそくタバコを吸い始めた。
「こうして自由にタバコ吸えるのは退学して一番良かったことかな」
そう言って笑った。文華は肩をすくめるジェスチャーをした。
「この前なんか、ビールを注文しようとして拒否られたんだから」
「さすがに店ではまずいでしょ」と隆。
「お、隆は飲むことあるんか?」
「文化祭の打ち上げのときに飲みましたよ。自販機で買って。一缶ですけどね。あまり美味しいとは思いませんでした」
「最初はね。まあ、そのうち美味しさがわかるよ」
「ちょっと、高校生に飲酒を勧めるようなこと言わないでよ」
文華はそう田村をたしなめた。
「堅いこと言うなよ。どうせあと一年くらいで飲めるようになるんだから」
「そうだけど、今は飲酒で停学になっちゃうのよ」
「停学? それがどうした。停学くらい大したことないだろ」
「いや~、どうかな。本人はそうかもしれないけど、親は学校に呼び出されるんだよ」
「へぇ~、なかなか大人なこと言うな。文華は。だけど、親のことなんていちいち気にするのも窮屈だろ。それにばれないように飲酒すればいいんだよ」
「この人の言うこと真に受けないでね」と文華。
隆と恒平は苦笑していた。恒平は酒・タバコに興味がなかったし、リスクを犯してまでやろうとは思わなかった。恒平の関心事は、英単語や数学の数列や集合といったことだった。まず英単語を知ることは楽しかった。それは同じ年頃の少女が日々美しくなることに快楽を覚えるのと同じように、自分が賢くなることへの快楽かもしれなかった。それに加えて、英文の発音や数式のビジュアルといった形式面に惹かれていた。単に数値化された成績だけに動機付けられて勉強しているわけではなかった。しかし、休日に遊ぶ友達も彼女もいない日常にこれでいいのかという疑問符が付きまとった。その中で、今日のような日は、友達との交流を切に求めていたことを認識させられた。その快楽は、問題を解くことからは決して得られないものだった。勉強の快楽はどこまでも利己的なもので、決定的に満たされないことがあった。
「何ニヤけてるの?」
恒平は文華が自分に言っていることに気づいた。
「いや、何というか、今日のような日は高校に入ってからなくて、楽しくて、ついついニヤけてしまいました」
「マジで? まあ、勉強ばかりじゃあ、ないでしょうね」
「これを機に恒平が遊び歩くようになったら笑えますね」
「大学受験は、重要なイベントだろうけど、高校時代もそれに劣らず重要だぞ。まあ、俺は退学したことを後悔してないけど」
「ですよね」
「おお、わかってくれたか。じゃあ、今度の祭りには行くよな?」
「はい」
「いいね。乾杯と行きたいところだけど、今度な」
恒平が隆と夜道を自転車を漕いで帰宅したのは、九時過ぎだった。たぶん親は心配しているだろう。
「じゃあ、また祭りで」「おう」
二人は家の前で別れた。
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