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二〇一八年一二月一日(土)。
土曜の午後六時過ぎ、京急川崎駅の交差点は相変わらず人でごった返していた。空気も冷たくなり、いよいよ年末ムードが色濃くなってきた感があった。
衣料品を見ているとき、店内の柱に設えられた鏡に自分の姿が映った。鏡は、白髪の混じった頭髪、無精髭の顎、たるんだお腹といった典型的な中年男性の諸特徴を投げ返した。先月、四六の誕生日を迎えた恒平だから何の不思議もないことだった。しかし、恒平はその鏡像に戸惑った。
(俺ってこんなにジジイだったか?)
二〇年近く前に買ったPコートにユニクロのジーンズを着た自分の姿をためつすがめつ眺めたが、そこに中年ならではの積極的な魅力があるかどうか疑わしかった。
恒平は無印良品を出ると、同じフロアにある休憩スペースのベンチに腰を下ろし、東急ハンズで手に入れた靴補修クリームのパンフレットに目を通していたが、そのとき、家族連れ――自分と同年代の男女と中学生くらいの女子――が、隣のベンチに座った。自分の前を通るとき、女子の視線が一瞬自分を捉えた。彼女はまるで春風のように爽やかだった。恒平は彼女の清涼さに胸を打たれると同時に、自分が親の年齢であることに衝撃を受けた。
(まだ人生がこれからの彼女に俺はどう映っているのだろう?)
恒平は自分がKKO(キモくてカネのないおっさん)に見られているのではないか、と危惧した。仮にそう見られているとしても、誰も困らないが、胸がチクチクした。昔、自分が同じくらいの年齢の頃、こういう子と恋愛したかったと、恒平は思った。
親とともに無印の店に行った女の子を目で追った後、恒平はいつもの立ち飲み屋に向かった。
立ち飲み屋では、隣の客と肩がぶつかりそうな混雑したカウンターへと案内された。ドリンクはいつものようにポッピーセットだ。立ち飲み屋のカウンターで飲んでいる人たちは全員中高年の男性だった。話をしている人はいない。ただ店員の威勢の良い声が響くだけだった。恒平はホッピーを焼酎と氷の入ったグラスに注ぎ込み、冷たいアルコールドリンクで喉を潤した。
立ち飲み屋で飲み食いし、ほろ酔い加減になった後はスタバへと向かった。スタバでは、グランデサイズのカフェミストを注文し、大型テーブルの席に座ると、タブレット端末でDropbox Paperの書きかけの小説ファイルを開いた。小説執筆は、二〇代の頃から恒平が時間を費やしている活動だった。昔は文学賞に送ったこともあったが、何一つ成果はなく、今はもはや意地で書いているようなものだった。
恒平は苦心して、中年男性が中学生に戻る設定の小説執筆に勤しんでいたが、やがてミニスカートの若い女性が隣に座り、気が散った。恒平は横目でチェックのスカートから伸びる、黒ストッキングに包まれた細い脚を盗み見た。それらは幸福の徴のように見えた。いつでも好きなときにそこに触ることができるとしたらどうだろうか? 今、手を伸ばせば触れられるほどの距離にある。しかし、そこには決して触れられないことはわかっていた。都会には魅力的な女性が少なからずいる。街に出れば、図らずもそうした女性と同じ空間を占めることがある。それは幸運なことだろうか? ただ性的刺激でしかないとしたら、フラストレーションを蓄積させるという点で、あまり好ましいことではないのかもしれない。
一方で、自由恋愛を通じて魅力的な女性と交際できたとしても、それは手放しで喜べることではない。なぜなら、女性との喜びに満ちた交際もまた大きな不幸の源泉になり得るからだ。女性との関係を続けることは容易ではない。うまく行っているように見えるときでも、ちょっとしたことで関係が終わることがあり得る。恒平は約半年前の生涯で最高レベルに辛い失恋を思い出していた。その直後の自分は痛々しくて、あまりにも惨めったらしかった。返事のないLINEに延々と投稿したり、出会い系アプリを通して表示される相手の位置情報(後にわかったがこれは当てにならなかった)を当てにして、彼女との偶然の出会いを期待して移動したり。そのときは、いっしょにいることが嬉しくて、有頂天になっていた最初の二、三回のデートの幸福感を裏返したような最悪の苦しみに襲われた。だが、半年も経てば、そのときの地獄も忘れてしまう。ちょうど冬に夏の暑さを忘れるように。そして、またしても女を求めて出会いの場に繰り出したり、マッチングアプリを再開したりしてしまう。結局、自分には恋愛やセックスをきっぱり諦めることはできそうもない。
およそ一時間ほどでスタバを後にすると、HUBへと向かった。九時になったばかりの浅い時間だったので、HUBは空いていた。恒平はジャンボサイズのジントニックを持って、壁沿いのカウンターへと移動した。店内には、かなりの音量でノリのいい洋楽がかかっている。一人で来ている婦女子はいなかった。HUBでは、何度か女に声をかけたことがあったが、長く会話できたことはなかったし、一度も連絡先交換したこともなかった。しかし、ナンパできる場所といえばここくらいしか思いつかなかった。客が増えるまで待つしかない。スマホのTinderアプリをチェックしてみる。何人かにハートマークを押す。よほど難ありでない限り、バツ印は押さないが、なかなかマッチしない。一人にスーパーライクを押したら、ニュースや5chのまとめサイトを見てみる。スマホは、不可欠なコミュニケーションツールであるだけでなく、情報・エンタメ機器としても優れている。
二杯目のジャンボジントニックをちびちびやりながら、ラッキーを期待して、カウンターに張り付いていたとき、スマホに親から電話があった。店内がうるさいため、まったく聞こえず、「メールして」と言って電話を切った。ややあって届いたメールに、恒平は目を疑った。
(
恒平はLINEで地元の複数の同級生に真偽を確かめるべく連絡してみた。「ああ、ステージ4で面会謝絶だって」、「年は越せないらしい」という返事がすぐに返ってきた。
店内の音楽が聴こえなくなった。
(そんな、バカな。四月に会ったときは元気だったのに……)
隆のイメージと声が頭の中で溢れかえった。
酔いつぶれて終電を逃してしまった恒平はネットカフェに入った。
ネットカフェのブースの中でようやく居場所を見つけられた気がした。ここはまさに地の果てだ、と恒平は思った。
何度か行ったことのあるバーでは、なぜか今日に限って、若い女性のバーテンが話しかけてきた。誰とも会話する気にはなれなかった恒平は簡単な短い答えを続けた。一人で静かに飲むのも意外と難しいものだった。恒平には何もできなかった。酒を飲む以外には。酒を飲むことで何かが変わるわけではなかった。しかし、飲まずにはいられなかった。
時間は午前〇時三〇分を回っていた。「睡眠が一番」と経験則は囁いた。しかし、リクライニングシートを倒しても眠れそうになかった。隆の危篤の知らせは、棘のように、恒平の胸に突き刺さっていた。その痛みは、アルコールによってなだめられることはなかった。身体を起こして、PCを操作し、アダルトビデオを再生してみたが、ポルノも何の慰めにもならなかった。恒平はビデオを消して、暗いブースで息を潜めた。
***
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