王韶之2 晋安帝殺害   

しんの時代の皇帝は、孝武帝こうぶてい以降、

常に内殿ないでんに住まっていた。


武官主書が内殿の皇帝の意思を伝達、

そこからひとりの文官に

詔勅の草案を立ち上げさせる。

この文官の勤務地が西省であったため、

この文官は「西省郎」と呼ばれていた。


この職にあったのは、例えば

傅亮ふりょう羊徽ようきといった人物である。

415 年になり、劉裕りゅうゆう王韶之おうしょうし

博学にして高い文才を認め、

通直郎に任じ、西省の仕事につけた。

いわば、皇帝のそばにいられる

文官となったのである。

のちに中書侍郎となった。


419 年、安帝司馬徳宗しばとくそうが殺される。

これは劉裕が王韶之に毒薬をもたせ、

帝の側仕えに毒殺させたのである。


恭帝司馬徳文しばとくぶんが即位すると、

黃門侍郎、著作郎となったが、

西省の業務には引き続き従事。

恭帝期の詔勅が記される黄色い紙は、

みな王韶之の筆によるものである。



晉帝自孝武以來,常居內殿,武官主書於中通呈,以省官一人管司詔誥,任在西省,因謂之西省郎。傅亮、羊徽相代在職,義熙十一年,高祖以韶之博學有文詞,補通直郎,領西省事。轉中書侍郎。安帝之崩也,高祖使韶之與帝左右密加酖毒。恭帝即位,遷黃門侍郎,領著作郎,西省如故。凡諸詔黃,皆其辭也。


晉帝は孝武より以來、常に內殿に居し、武官主書は中にて通呈し、省官の一人を以て詔誥を管司し、西省に任在せば、因りて之を「西省郎」と謂う。傅亮、羊徽は相い代りて職に在り、義熙十一年、高祖は韶之の博學にして文詞有せるを以て通直郎に補し、西省の事を領す。中書侍郎に轉ず。安帝の崩は、高祖の韶之をして帝の左右に密かに酖毒を加うるを與えしむなり。恭帝の即位せるに、黃門侍郎に遷り、著作郎を領せるも、西省は故の如し。凡そ諸詔黃は、皆な其の辭なり。


(宋書60-13_肆虐)




安帝殺害がすっげえさらっと書かれてて草。しかし傅亮がこの段階で外されてるのって、安帝周りのこの汚れ仕事から外させるってことなんでしょうかね。


それにしても飛燕さんの記述には助けられます。ここでも西省郎についてのご教示を頂いてます。


http://sinyousyuden.blogspot.com/2015/08/?m=1


いつも思うけど、すっげえよねこの情報量。

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