袁豹3  伐蜀檄文    

袁豹えんひょうの代表的なお仕事と言えば、

益州えきしゅう討伐の際の檄文である。

劉毅りゅうき討伐に従軍した後、

檄文を書き上げ、朱齢石しゅれいせきに渡している。

少々長いが、紹介しよう。



 徳に沿うものは栄え、

 違えるものは滅ぶ。

 仁義を失えば安寧はない。

 その険阻なるを恃みにしたところで、

 この道理は変わろうか。


 古よりの栄枯盛衰を見れば、

 成都せいとが首都となり得たことはなく、

 故に華陽かようの地に国は興らなかった。


 しん室のドタバタに紛れて、

 羿げいのごとき凶逆をなし、

 しょくの地、蜀の民を煩わせたる、

 クソ小者、譙縱しょうじゅうよ。

 小者どもが群れ合って

 益州刺史を殺し、民をそそのかし、

 蜀の地より、晋室の威光を

 よくぞ遠ざけた。


 だが、それもここまでだ。

 いよいよ義風は訪れ、この地より

 暗雲振り払われる時が来た。


 この十年もの間、

 もろもろごとが積み重なり、

 貴様を討伐できずにいたが、

 ここからは違うぞ。


 この期間、

 貴様は悔い改めるどころか、

 ますます増長し、我らの国の

 土地を犯し続けた。


 これは我が国の土地を

 正さんがための戦いである。

 クズとその取り巻きを皆殺しとし、

 桓謙かんけんの首を折り、

 譙道福しょうどうふくを鳥に喰わせ、

 その巣穴をひっくり返し、

 貴様を引きずり出してくれる。


 北の鮮卑せんぴは我が威風の前に滅び、

 南の五斗米道ごとべいどうは排除した。

 この晋の国はいま、

 繁栄の極みとなっている。


 そして西に逆賊劉毅を討ち果たし、

 いま、けいえいの地をも取り戻した。

 その中でかんの民を

 いまだ救い出せておれぬのは、

 余にとって憤り、悲しみを

 深くないまぜとさせる事態である。


 長江ちょうこうの上流を清め、

 その穢れた気を振り払う。

 今こそが、まさにその時である。


 河間かかん太守の蒯恩かいおん

 下邳かひ太守の劉鍾りゅうしょうに勇者二万を配し、

 成都に直行させている。


 龍驤りゅうじょう將軍の臧熹ぞうきには

 完全武装の精兵二万で、墊江しつこうより。


 益州刺史の朱齡石しゅれいせきには

 水軍三万を率いさせ、外水より急行。


 別に輔國將軍の索懇さくこんには

 漢中の兵を率いさせ、

 劍道より進ませる。


 振威將軍の朱客子しゅきゃくしには、

 寧州ねいしゅうの精兵をまとめさせ、

 瀘水ろすいを渡って蜀に入らせた。


 神に嘉されたこれらの兵らが、

 声を上げ、銅鑼を轟かせ、

 甲冑をきらめかせ、

 一斉に攻めかかるのだ。

 貴様に勝てる道理があろうか。

 増して義の果たせぬ

 いわれがあろうか!


 蜀の入り口となる長江流域は

 既にこちらの支配下である。

 故に岑彭しんほうが蜀に入るために費やした

 苦労は、我々には無縁である。


 また蜀の地の多くも

 すでに陥落している。

 故に鄧艾とうがい綿竹めんちくを強行したような、

 無謀な行軍を強いられることもない。

 山川の形もすでに調査済みである。

 過去の英雄らよりも、

 更に我々は有利である。


 蜀の地の富、人員力をもってしても、

 公孫述こうそんじゅつも、劉禅りゅうぜんも、姜維きょういも、

 結局は守り切れなかったではないか。

 この事実を理解しておるのか?


 まして我々は盧循ろじゅんのような

 勢い盛んな妖賊を、

 慕容超ぼようちょうのような

 精強な騎馬隊を率いる鮮卑をも

 討ち果たした軍勢である。

 また水軍も向かうところ敵なし、

 多くの敵を建康けんこうで処刑し、

 多くの首を建康にもたらした。


 少し考えれば、抵抗が無駄だ、

 と気付くであろう。

 貴様の目前に我らが戦艦が迫れば、

 多少はその曇った目も晴れようか?


 梁州益州の人士とて、

 皆我が威光のもとに帰るのを

 望んでおろう。

 貴様に脅迫され、

 一時の主としたに過ぎぬのだ。


 譙縱よ。貴様の悪行、

 日ごとに我が耳に届いておるぞ。

 罪なき者を手にかけた罪は、

 貴様の死をもってのみ

 あがなわれるであろう。


 貴様と言う凶物を滅ぼし、

 そのそっ首を建康にもたらし、

 しかる後に蜀の地を清めよう。


 余は王である。

 王の軍は仁義を旨とする。

 求めるのは、

 人々が過ちに気付くこと。

 断罪の刃を振るわれるのを見、

 正しきに目覚めること、である。


 故に投降してきた者については、

 その罪を問う気は一切ない。

 蜀の民に恵みをもたらすのも、

 また余の務めだからである。


 蜀の民が目覚めれば、

 この地にはまばゆき朝日が昇ろう。


 なおも愚かに、

 余に歯向かうようであれば、

 この蜀の地は炎に包まれ、

 あらゆるものが焼き尽くされよう。

 その時になって悔いたところで、

 もはや手遅れなのだぞ!



そんな檄文を書いた袁豹は翌年、

413 年に在官のまま死んだ。41歳。

翌年、蜀討伐の計画に参与した功績から、

南昌なんしょう県の五等子に封ぜられた。


……なんか兄貴より

6歳年上なんですけど?




從討劉毅。高祖遣益州刺史朱齡石伐蜀,使豹為檄文,曰:夫順德者昌,逆德者亡,失仁與義,難以求安,馮阻負釁,鮮克有成。詳觀自古,隆替有數,故成都不世祀,華陽無興國。日者王室多故,夷羿遘紛,波振塵駭,覃及遐裔。蕞爾譙縱,編戶黔首,同惡相求,是崇是長,肆反噬於州相,播毒害於民黎,俾我西服,隔閡皇澤。自義風電靡,天光反煇,昭晢舊物,烟熅區宇。以庶務草創,未遑九伐,自爾以來,奄延十載。而野心不革,伺隙乘間,招聚逋叛,共相封殖,侵擾我蠻獠,搖蕩我疆垂。我是以有治洲之役,醜類盡殪,匹馬無遺,桓謙折首,譙福鳥逝,奔伏窠穴,引頸待戮。當今北狄露晞,南寇埃掃,朝風載韙,庶績其凝,康哉之歌日熙,比屋之隆可詠。孤職是經略,思一九有,眷彼禹跡,願言載懷,奉命西行,途戾荊、郢,瞻望巴、漢,憤慨交深。清江源於濫觴,澄氛祲於井絡,誅叛柔遠,今也其時。即命河間太守蒯恩、下邳太守劉鍾,精勇二萬,直指成都。龍驤將軍臧熹,戎卒二萬,進自墊江。益州刺史朱齡石,舟師三萬,電曜外水。分遣輔國將軍索懇,總漢中之眾,濟自劍道。振威將軍朱客子,提寧州之銳,渡瀘而入。神兵四臨,天綱宏掩,衡翼千里,金鼓萬張,組甲貝冑,景煥波屬,華夷百濮,雲會霧臻,以此攻戰,誰與為敵,況又奉義而行,以順而動者哉!今三陝之隘,在我境內,非有岑彭荊門之險。彌入其阻,平衢四達,實無鄧艾綿竹之艱。山川之形,抑非曩日,攻守難易,居然百倍。當全蜀之強,士民之富,子陽不能自安於庸、僰,劉禪不敢竄命於南中,荊邯折謀,伯約挫銳。故知成敗有數,非可智延,此皆益土前事,當今元龜也。盛如盧循,強如容超,陵威南海,跨制北岱,樓船萬艘,掩江蓋汜,鐵馬千羣,充原塞隰。然廣固之攻,陸無完雉,左里之戰,水靡全舟,或顯戮京畿,或傳首萬里。故知逆順有勢,難以力抗,斯又目前殷鑑,深切著明者也。梁益人士,咸明王化,雖驅迫一時,本非奧主。縱之淫虐,日月增播,刑殺非罪,死以澤量。而待命寇讎之戮,㩻䧢豺狼之吻,豈不遡誠南凱,延首東雲,普天有來蘇之幸,而一方懷後予之怨。王者之師,以仁為本,舍逆取順,爰自三驅,齊斧所加,縱身而已。其有衿甲反接,自投軍門者,一無所問。士子百姓,列肆安堵,審擇吉凶,自求多祐。大信之明,皦若朝日,如其迷復姦邪,守愚不改,火燎孟諸,芝艾同爛,河決金隄,淵丘同體,雖欲悔之,亦將何及!九年,卒官,時年四十一。次年,以參伐蜀之謀,追封南昌縣五等子。


(宋書52-19_文学)




劉裕伝説は、後半から光武帝を意識した言動が一気に多くなってくる感じです。この伐蜀檄文なんか、もう露骨。岑彭は光武帝配下、雲台二十八将の第六位ですし、公孫述は光武帝の時代に蜀に割拠した群雄です。鄧艾と劉禅については言わずもがな、と言うか地味に姜維まで持ち出してる辺りがなかなかおいしい。ていうか晋帝の言葉として書いてるから、魏が正統なんですね。そんな当たり前のことに気づかず、しばらく「劉禅を諱呼び……?」とかきょとんとしちまったい。


ところで三國志には鍾会の書いた伐蜀檄文があるんですが、その内容がちょっと、ほんのちょっとだけこの檄文ともかぶっていました。


鍾会

 方國家多故、未遑修九伐之征也。


袁豹

 以庶務草創,未遑九伐,


完全に内容を真似たって訳ではないんですけど、一部にこう言うのを援用することで、檄文により重層的な内容が込められそうですね。

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