劉道規8 薨去
幕府を開くことが認められ、
さらに
こちらは固辞した。
間もなく病を得て、倒れる。
転属するよう諮られたが、
病はひどくなる一方であったため、
こちらも辞退。
そして 412 年の閏月、
43 才だった。侍中、司徒を追贈された。
また
改めて大司馬も追贈された。
劉道規には子がいなかったため、
封爵地を引き継がせた。
道規進號征西大將軍、開府儀同三司,加散騎常侍,固辭。俄而寢疾,改授都督豫江二州揚州之宣城淮南廬江歷陽安豐堂邑六郡諸軍事、豫州刺史,持節、常侍、將軍如故。以疾不拜。八年閏月,薨于京師,時年四十三。追贈侍中、司徒。加班劍二十人。諡曰烈武公。平桓謙功,進封南郡公,邑五千戶。高祖受命,贈大司馬,追封臨川王,食邑如先。道規無子,以長沙景王第二子義慶為嗣。
道規は號を征西大將軍、開府儀同三司に進め、散騎常侍を加うるも固辭す。俄にして寢疾し、都督豫江二州揚州之宣城淮南廬江歷陽安豐堂邑六郡諸軍事、豫州刺史を改授し、持節、常侍、將軍は故の如し。疾を以て拜さず。八年の閏月、京師にて薨ず。時に年四十三。侍中、司徒を追贈さる。班劍二十人を加う。諡して烈武公と曰う。桓謙を平らぐの功にて封を南郡公、邑五千戶に進む。高祖の受命せるに、大司馬を贈られ、追いて臨川王に封じられ、食邑は先の如し。道規に子無く、長沙景王が第二子の義慶を以て嗣と為す。
(宋書51-15_衰亡)
荊州での戦いが劉道規の寿命を大幅に縮めたのでしょうね。ギリギリの判断の連続であったのだろうと思われます。そうやって考えると、五斗米道戦は返す返すも劉裕最大のピンチだったのでしょう。ここで劉道規がこけてたら、たぶん劉毅に逆転の目を与えちゃったのじゃないかしら。あるいは五斗米道の乱が長期化泥沼化したりとか。本当、よく踏みとどまったものです。今回改めて劉道規の伝を読んで「そりゃ烈武ってつくわ……やっべえ」と思いました。
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