垣護之  父の活躍    

垣護之えんごし、字は彥宗げんそう略陽りゃくよう桓道かんどう県の人だ。


祖父は垣敞えんしょう。前秦に仕えた。

長樂ちょうらく國の幹部であった。

と言うことは、恐らく苻丕ふひの部下だ。


慕容德ぼようとく青州せいしゅうを支配するようになると、

垣敞を車騎長史とした。

おそらくは、慕容鎮ぼようちんの副官である。


慕容德の甥である慕容超ぼようちょうが即位すると、

垣護之の伯父である垣遵えんじゅん、父の垣苗えんびょう

それぞれ慕容超よりの信任を得た。

垣遵は尚書しょうしょに、垣苗は京兆けいちょう太守に至る。


が、劉裕りゅうゆうが広固城を囲んだ時に、

二人は早々に投降。

劉裕は二人を仮の幹部として側につけた。


劉義隆りゅうぎりゅうの時代、

垣遵は員外散騎常侍いんがいさんきじょうじに、

垣苗は屯騎校尉とんきこういとなった。



そして、垣護之。

かれは若い頃からおおらかな人柄だった。

上背こそ大したことがなかったが、

その根性はどっしり据わっていた。


司馬休之しばきゅうし討伐に従軍し、

劉義符りゅうぎふの軍府の副官に抜擢。


また劉裕が即位すると奉朝請に。

元嘉げんかの初めには殿中將軍となった。


その後のかれは劉宋国内の

様々な乱の平定をこなし、

そこでしょっちゅう収奪をしたため

罪に問われたりなどしながら、

70歳で死亡した。




垣護之字彥宗,略陽桓道人也。祖敞,仕苻氏,為長樂國郎中令。慕容德入青州,以敞為車騎長史。德兄子超襲偽位,伯父遵、父苗復見委任。遵為尚書,苗京兆太守。高祖圍廣固,遵、苗踰城歸降,並以為太尉行參軍。太祖元嘉中,遵為員外散騎常侍,苗屯騎校尉。護之少倜儻,不拘小節,形狀短陋,而氣榦強果。從高祖征司馬休之,為世子中軍府長史,兼行參軍。永初中,補奉朝請。元嘉初,為殿中將軍。


垣護之は字を彥宗、略陽の桓道の人なり。祖は敞、苻氏に仕え、長樂國の郎中令と為る。慕容德の青州に入れるに、敞を以て車騎長史と為す。德の兄の子の超の偽位を襲うに、伯父の遵、父の苗は復た委任さるを見る。遵は尚書と、苗は京兆太守と為る。高祖の廣固を圍むに,遵、苗は城を踰えて歸降し、並べて以て太尉行參軍と為る。太祖の元嘉中、遵は員外散騎常侍に、苗は屯騎校尉と為る。護之は少きに倜儻、小節に拘らず、形狀は短陋なれど、氣榦は強果なり。高祖の司馬休之を征せるに從い、世子中軍府長史と為り、行參軍を兼ぬ。永初中、奉朝請に補せらる。元嘉の初、殿中將軍と為る。


(宋書50-9_為人)




南燕投降将、垣氏兄弟。特に弟の垣苗はちらちら対北魏戦でその名前を見せていて、言ってみれば息子の垣護之が列伝に載るような活躍ができるための素地を作った人、といえる。彼らが重鎮となったからこそ、外様の家柄でありながらも垣護之は皇帝の側で活躍ができたのだ。けどそんなパパの活躍はほんに断片しか載ってない。悔しいので水經注卷八 濟水から記事を引っ張ってきました。



済水さいすいは東北に進むと

垣苗城(旧・洛當らくとう城)の西を進む。


伏韜ふくとうの「北征記」に書いてある。


「済水は清河せいがと合流し、洛當に至る。

 劉裕が長安に攻め入った時、

 垣苗にこの地を守るよう命じた。


 それがあったので、洛當に

 垣苗城と言う俗称がついたのだ」




濟水又東北逕垣苗城西,故洛當城也。伏韜『北征記』曰:濟水又與清河合流,至洛當者也。宋武帝西征長安,令垣苗鎮此,故俗又有垣苗城之稱。河水自四瀆口東北流而爲濟。


濟水は又た東北に垣苗城、故の洛當城の西を逕る。伏韜の《北征記》に曰く:濟水は又た清河と合流し、洛當に至りたるなり。宋武帝の長安に西征せるに、垣苗に令し此に鎮ぜしめ、故に俗に又た垣苗城の稱を有す。

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