胡藩6 胡藩の息子たち
この頃
結託し、
そこで、胡藩がその牽制として
功績が改めて検討され、
劉裕死後、
掖門の戸締りがなっていなかったため
一時停職処分を受けた。
死亡は433年。62歳だった。
胡藩には庶子は60人おり、
そのほとんどがアウトローだった。
例えば14男の
劉裕の妻、
大功臣であることから、
ことを大きくはしたくなかったのだが、
遂には収監、殺さざるを得なかった。
また447年には
16男の
200人ばかりの手勢を率いて反乱、
太守の
この頃庶人に落とされていた
劉裕の4男、
などと言いだしていた。
この兄弟らを討伐した。
第何男なのかは不明だが、
この事態を受け、兄の
廷尉に出頭、弟らが犯した罪を謝罪。
両名共に遠州に追放された。
ただし両名は
帰還を許されるのだった。
高祖還彭城,參相國軍事。時盧循餘黨與蘇渓賊大相聚結,以為始興相。論平司馬休之及廣固功,封陽山縣男,食邑五百戶。少帝景平元年,坐守東府,開掖門,免官,尋復其職。十年,卒,時年六十二,諡曰壯侯。子隆世嗣。藩庶子六十人,多不遵法度。藩第十四子遵世,為臧質寧遠參軍,去職還家,與孔熙先同逆謀,太祖以藩功臣,不欲顯其事,使江州以他事收殺之。二十四年,藩第十六子誕世、第十七子茂世率羣從二百餘人攻破郡縣,殺太守桓隆之、令諸葛和之,欲奉庶人義康。值交州刺史檀和之至豫章,討平之。誕世兄車騎參軍新興太守景世、景世弟寶世,詣廷尉歸罪,並徙遠州。世祖初,徙者並得還。
高祖の彭城に還ぜるに、相國軍事に參ず。時に盧循の餘黨と蘇渓の賊が大いに相い聚結せば、以て始興相と為す。司馬休之を平らぐのこと、及び廣固の功が論ぜられ、陽山縣男、食邑五百戶に封ぜらる。少帝の景平元年、東府を守せるに、掖門の開きたるに坐し、免官せらるも、尋いで其の職に復す。十年に卒す、時に年六十二にして、諡して壯侯と曰う。子の隆世が嗣ぐ。藩が庶子は六十人にして、多きは法度を遵らず。藩が第十四子の遵世は臧質の寧遠參軍と為るも、職を去り家に還じ、孔熙先と逆謀を同じ、太祖は藩の功臣なるを以て、其の事を顯ぜざらんと欲せど、江州をして他事を以て收せしめ之を殺す。二十四年、藩が第十六子の誕世、第十七子の茂世は羣從二百餘人を率い郡縣を攻め破り、太守の桓隆之、令の諸葛和之を殺し、庶人なる義康を奉ぜんと欲す。交州刺史の檀和之の豫章に至れるに值い、討ちて之に平らがる。誕世が兄の車騎參軍・新興太守の景世と、景世が弟の寶世は廷尉に詣で罪に歸し、並べて遠州に徙さる。世祖の初、徙さる者は並べて還ぜるを得る。
(宋書50-6_衰亡)
ここで名前の挙がっている臧質も反乱を企て、失敗し殺されています。そして、この胡藩の息子たち。「やさぐれもんたちだった」として解決していい問題ではない気もするんですよね。
つまり、胡藩がこれだけ扱いがデカいのは「どう考えても他の武将たちよりも目覚ましい活躍してんのに大して昇格できていないのはおかしい」と言う主張のようにも思えてなりません。そして、そう言った環境に疑問があったからこそ、胡藩の子供たちは反乱と言う手段で訴えようとした。まぁ、憶測ですけどね。
巻49までの「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます