傅弘之1 梁州刺史の子  

傅弘之ふこうし

 既出:王鎮悪15、沈田子3

    沈田子5、趙倫之1



傅弘之、字は仲度ちゅうど北地ほくち泥陽でいよう県の人。

父は傅韶ふしょうといい、梁州りょうしゅう刺史に至った。


若い頃には仲間を大事にし、

その胸に大志を秘めていた。

梁州の書記官として就任、

人事推挙制度「秀才」にも

リストアップされたが、辞退した。


桓玄かんげんが簒奪をなそうとするとき、

新野しんやのひと、庾仄ゆそく南陽なんようで決起。

雍州ようしゅう刺史の馮該ふうがいを襲った。

馮該は逃走。


このとき傅弘之は江陵こうりょうにおり、

庾仄の甥、庾彬ゆひんとともに

荊州刺史の桓石康かんせきこうを打倒し、

その代わりに庾仄をつけようと目論んだ。


だが庾彬のいとこ、庾宏ゆこう

この目論見を知ると、桓石康に密告。

庾彬は捕まり、殺され、

傅弘之は牢獄に繋がれた。


そこに、桓玄の声がかかる。

傅弘之は謀略に関わってはおらず、

しかも無官であり、兵も少ないことから、

罰するには値しない、とした。


桓玄打倒のクーデターが起こると、

劉道規りゅうどうきの幹部として働き、

その功績から寧遠ねいえん將軍、魏興ぎこう太守に。


盧循ろじゅん建康けんこうに迫ってきたとき、

桓石綏かんせきすい上洛じょうらく甲口こうこうで、

荊州刺史を自称。

徵陽ちょうよう令の王天恩おうてんおんも呼応して

梁州刺史を自称し、西城せいじょうを襲った。


この時、傅韶が梁州刺史であったため、

傅弘之を派遣、桓石綏らを討伐した。

この功績から劉裕直属の幹部に。


司馬休之しばきゅうし討伐では後方の部署を担当。

この功績から建威けんい將軍、順陽じゅんよう太守となった。




傅弘之字仲度、北地泥陽人。父韶、梁州刺史、散騎常侍。少倜儻有大志、為本州主簿、舉秀才、不行。桓玄將篡、新野人庾仄起兵於南陽、襲雍州刺史馮該、該走。弘之時在江陵、與仄兄子彬謀殺荊州刺史桓石康、以荊州刺史應仄。彬從弟宏知其謀、以告石康、石康收彬殺之、繫弘之於獄。桓玄以弘之非造謀、又白衣無兵眾、原不罪。義旗建、輔國將軍道規以為參軍、寧遠將軍、魏興太守。盧循作亂、桓石綏自上洛甲口自號荊州刺史、徵陽令王天恩自號梁州刺史、襲西城。時韶為梁州、遣弘之討石綏等、並斬之。除太尉行參軍。從征司馬休之、署後部賊曹、仍為建威將軍、順陽太守。


傅弘之は字を仲度、北地の泥陽の人なり。父は韶、梁州刺史、散騎常侍。少きに儻を倜し大志を有し、本州主簿と為り、秀才に舉ぐらるも、行かず。桓玄の將に篡ぜんとせるに、新野人の庾仄は兵を南陽にて起て、雍州刺史の馮該を襲わば、該は走ず。弘之は時に江陵に在り、仄の兄の子の彬と與に荊州刺史の桓石康を殺さんと謀り、以て荊州刺史を仄に應ぜんとす。彬が從弟の宏は其の謀を知り、以て石康に告ぐらば、石康は彬を收し之を殺し、弘之を獄に繫ぐ。桓玄は弘之の謀に造れるに非ざるを、又た白衣にて兵眾無かりたるを以て、原し罪とせず。義旗の建つるに、輔國將軍の道規は以て參軍、寧遠將軍、魏興太守とと為す。盧循の亂を作すに、桓石綏は上洛の甲口より荊州刺史を自號し、徵陽令の王天恩は梁州刺史は自號し、西城を襲う。時に韶の梁州に為りたらば、弘之を遣わせ石綏らを討たしまば、並べて之を斬る。太尉行參軍に除せらる。司馬休之を征したるに從い、後部賊曹に署せられ、仍ち建威將軍、順陽太守と為る。


(宋書48-19_為人)




傅弘之

特に覚える必要がない人です。

(言ってやった言ってやった)


いや、桓玄打倒に関わり、そして将来長安で散るんです。まさに劉裕の来歴に準じた人ではあるんです。けどさぁ、こいつ立伝するくらいなら他に重要な人物いるでしょ? 毛徳祖もうとくそとかさぁ。あと垣苗えんびょうとかもマジで必要だと思うんですけど。


まあこの人の来歴も、それはそれで面白いんですけどね。いわゆる西府系に近い出自ながらクーデターに参加してたりだし。梁州秦州あたりと荊州は、存外近くはなかったのかもしれないですね。

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