毛脩之9 魏:三國志語り 

北魏ほくぎ中にあった漢人のツートップ、

崔浩さいこうと、毛脩之もうしゅうし


崔浩からしたら毛脩之の学識は

大したことがなかったのだが、

それでも漢以来の旧門であること、

また本人も常に学びに余念がないこと、

などから、それなりに重んじはした。

そして、ちょくちょく議論を

かわしたりなどもしている。


ある時、話が陳寿ちんじゅ三國志さんごくし」に及ぶ。

古の良き史書の風格を残し、

文章は整い、宮廷で論議するに

値すべきテーマを取り上げ、

寡言にあっても詳細、

しなやかにして折り目正しい文章は、

班固はんこ漢書かんじょ」より後の史書で

敵う者はない、と語った。


さらに、毛脩之は言う。


「昔、しょくにおりましたころ、

 ご老人からお話を伺ったのです。


 曰く、陳寿はかつて

 諸葛亮しょかつりょうの書記官となっており、

 その時に百叩きの刑を受けた。


 それを恨みに思い、三國志中に

 臨機応変の謀略を不得手とした、

 と書いたのではないか、と」


この発言に、崔浩が返答する。


「どうであろうな。陳寿殿は、

 むしろ諸葛亮をほめちぎっておる。


 その筆跡を辿れば、諸葛亮に背いたり、

 恨みに思った、などはあり得まい。


 むしろ、どうしてそのような

 戯言に辿り着いたのだかな。


 考えても見よ。

 諸葛亮が劉備りゅうびの補佐をするにあたり、

 中国は争乱に煮え立っていた。

 各地に英雄が並び立ち、その中で、

 確かに両者は水魚の交わり、

 と呼ばれるほどの関係を築いた。


 しかし動向を見てみれば、

 曹操そうそうとまともに当たるのが危ういと見て

 荊州けいしゅうから蜀に逃げ込み、

 そこで劉璋りゅうしょうから蜀を強奪、

 孫権そんけんとは偽りの同盟を結び、

 辺境の地に引き籠り、蛮族の上で僭称。


 このような振る舞い、

 下策も下策としか言いようがあるまい。


 せいぜいが南越なんえつ王の趙佗ちょうだと呼ぶべきで、

 管仲かんちゅう蕭何しょうかとなぞ

 どうして比べられようものかよ。


 私が思うに、

 そなたが提示した陳寿殿の論は、

 諸葛亮の実情を損ねた、

 と言うたぐいのものではない。

 むしろ実情そのものであったろう。


 蜀と言う狭隘の地に拠点を構え、

 外の状況を的確に推し量る機会を失った。

 それで彼我の戦力差もわからなくなり、

 いたずらに、蜀人を厳しく取り立てた。


 まったく、

 井の中の蛙と言うより他あるまいよ!

 そこいらの蛮族を引き連れ、

 中原の兵力に抗おうとしたのだからな!


 そして、いざ出陣してみれば、どうだ。

 二度ほど祁山きざんを攻め、また陳倉ちんそうを攻め、

 どちらでもチャンスを逃し、

 大敗して引き返した。


 その後確かに渭水いすい

 長安の手前まで進攻は出来た。

 が、そこでは攻城戦を望まず、

 野戦での拙速な勝利を求めた。

 

 なので長期戦に堪えないと見抜かれ、

 魏軍には亀のように守りを固められた。


 そのため、戦わずして敗走だ。


 兵糧が保たぬことを悟った諸葛亮は

 撤退し、そのさなかに、憤死。


 これらの振る舞いを振り返ってみよ。

 いにしえの名将であれば、

 進軍が可能であれば進軍し、

 難しければ引き下がったであろうに。


 諸葛亮は、はたして

 彼らのように振る舞えたかね?」


またこの人はオーバーキルが好きだな。


ともあれ毛脩之、崔浩の言に、

その通りだ、と納得した。



後に毛脩之は外都大官がいとだいかんという、

北魏ではほぼ人臣の極みの官位に至り、

死んだ。恭公きょうこうと諡された。




浩以其中國舊門,雖學不博洽,而猶涉獵書傳,每推重之,與共論說。言次,遂及陳壽三國志有古良史之風,其所著述,文義典正,皆揚于王廷之言,微而顯,婉而成章,班史以來無及壽者。脩之曰:「昔在蜀中,聞長老言,壽曾為諸葛亮門下書佐,被撻百下,故其論武侯云『應變將略,非其所長』。」浩乃與論曰:「承祚之評亮,乃有故義過美之譽,案其迹也,不為負之,非挾恨之矣。何以云然?夫亮之相劉備,當九州鼎沸之會,英雄奮發之時,君臣相得,魚水為喻,而不能與曹氏爭天下,委棄荊州,退入巴蜀,誘奪劉璋,偽連孫氏,守窮踦𨄅之地,僭號邊夷之間。此策之下者。可與趙他為偶,而以為管蕭之亞匹,不亦過乎?謂壽貶亮非為失實。且亮既據蜀,恃山嶮之固,不達時宜,弗量勢力。嚴威切法,控勒蜀人;矜才負能,高自矯舉。欲以邊夷之眾抗衡上國。出兵隴右,再攻祁山,一攻陳倉,疏遲失會,摧衄而反;後入秦川,不復攻城,更求野戰。魏人知其意,閉壘堅守,以不戰屈之。知窮勢盡,憤結攻中,發病而死。由是言之,豈合古之善將,見可而進,知難而退者乎?」脩之謂浩言為然。太延二年,為外都大官。卒,諡曰恭公。


浩は其の中國の舊門なるを以て、學の博洽ならざると雖も、而して猶おも書傳を涉獵せらば、每に推して之を重んじ、與に共に論說す。言の次し、遂には陳壽が三國志の古き良史の風有りたるに及び、其の著述せる所、文義は典正にして、皆な王廷の言を揚げ、微にして顯、婉にして成章なれば、班史以來に壽に及びたる者無しと。脩之は曰く:「昔、蜀中に在りしに、長老が言を聞かば、壽は曾て諸葛亮が門下の書佐と為り、撻の百下せるを被れるらば、故に其の武侯を論じたるに云えらく『應變の將略、其の長ぜる所に非ず』と」と。浩は乃ち論を與えて曰く:「承祚の亮を評せるに、乃ち過美の譽なる故義有らば、其の迹を案ずならば、之に負きたるを為さず、之に恨を挾みたるに非ざらん。何ぞを以て然るべく云わんか? 夫れ、亮の劉備に相ぜるに、當に九州鼎沸の會にして、英雄奮發の時なれば、君臣の相い得たるに、魚水を喻えと為し、而して曹氏と天下を爭う能わざれば、荊州を委棄し、退きて巴蜀に入り、劉璋より誘奪し、偽りて孫氏と連なり、踦𨄅の地に守窮し、邊夷の間にて僭號す。此れ策の下なるなり。趙他の偶と為したるべかば、而して以て管蕭の亞匹と為したるは、亦た過ぎたらざらんか? 謂うらく、壽の亮を貶じたりじたるは失實を為したるに非ざらん。且つ亮は既に蜀に據し、山嶮の固に恃み、時宜に達せず、勢力を量る弗し。嚴威切法にして蜀人を控勒す。才を矜り能を負い、高らげ自ら矯舉したり。邊夷の眾を以て上國に抗衡せんと欲す。隴右に出兵し、再び祁山を攻め、一に陳倉を攻め、疏遲失會し、摧衄して反る。後に秦川に入れど、復た城を攻めず、更に野戰を求む。魏人は其の意を知り、壘を閉じ堅守せば、以て戰わず之に屈す。窮まるを知り勢は盡き、攻中に憤結し、發病し死す。是が由に之を言いたらば、豈に古の善將に合わささば、可なるを見たらば進み、難なるを知らば退りたらんか?」と。脩之は浩が言を然りと為さんと謂ゆ。太延二年、外都大官と為る。卒し、諡して曰く、恭公と。


(魏書43-3_識鑒)






陳寿

「祖父が」馬謖ばしょくの配下として「髠刑にあっている」。ようは陳寿自身は諸葛亮とほぼ面識がない。まぁこの辺りはジイさんの昔語りだから脚色が加わってしまっているんだろうし、仕方ないなぁ……。


趙佗

秦末~漢はじめあたりの南越王。元々は中原の生まれだが、ベトナムあたりにまで派遣されると、そこで独自の勢力を確保し、独立状態となった。まーぶっちゃけ中原国家としてはそんなところでのあれこれになんて構ってなんぞいられませんわよねーと言う感じである。何せこの頃の漢ってまだまだ天下統一なんてところにまで辿り着けてませんでしたからね。


管仲、蕭何

春秋せい桓公かんこうに、劉邦りゅうほうにそれぞれ仕えた「宰相の代表格」。三國志中で陳寿が諸葛亮をこの二人に匹敵すると評価している。


なお毛脩之が語っている「應變將略,非其所長」は、きちんと趣旨が取れるような抜き出し方だと「未能成功,蓋應變將略,非其所長歟」であり、「(諸葛亮さまはとにかくすごかった、すごかったんだけど、残念ながら)その結果からすると、やや融通に欠けるところがあったのではないか」と、陳寿も頑張って言葉を濁しているのだ。つまり毛脩之お前じっさまの言葉にあたるよりも前に三國志まともに読め問題である。そりゃまぁ崔浩さんもオーバーキルしてくるわな。

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