檀祇3  「外がいい」  

418年。劉裕りゅうゆう宋王そうおうになると、

安帝あんていからの詔勅があった。


「新設された宋王の宮廷には、

 文武百官、多くの人材が求められる。


 わが国の右將軍、檀祗だんきよ。

 そなたを宋の領軍りょうぐん將軍とする」


領軍将軍は、いわば内勤だ。

外地での任をほしいままとしていた

檀祗としては、いまさら内勤で

誰かの下になど付きたくはなかった。


なので仮病を使い、この要請を蹴った。


その年のうちに病にかかり、

任地の広陵こうりょうで死んだ。

51歳であった。


散騎常侍、撫軍ぶぐん將軍を贈られ、

威侯いこうと諡された。


息子の檀獻だんけんが爵位を継いだが、

419年には死亡。

その弟の檀朗だんろうが継いだ。




十四年,宋國初建,天子詔曰:「宋國始立,內外草創,禁旅王要,總司須才。右將軍祗可為宋領軍將軍,加散騎常侍。」祗性矜豪,樂在外放恣,不願內遷,甚不得志。發疾不自治,其年卒廣陵,時年五十一。贈散騎常侍、撫軍將軍,諡曰威侯。子獻嗣,元熙中卒,無子,祗次子朗紹封。


十四年、宋國の初めて建つるに、天子は詔じて曰く:「宋國の始めて立つるに、內外草創し、禁旅を王は要え、總司に才を須む。右將軍の祗は宋の領軍將軍と為り、散騎常侍を加えん」と。祗が性は矜豪にして、外に在りて放恣せるを樂しみ、內遷を願わず、甚だ志を得ず。疾を發し自ら治せず、其の年に廣陵にて卒す、時に年は五十一。散騎常侍、撫軍將軍を贈られ、諡して威侯と曰う。子の獻が嗣ぐも元熙中に卒し、子無かれば、祗の次子の朗が紹封す。


(宋書47-27_簡傲)




すごい。「病を理由に内勤を辞退したが、辞退の書面では陛下の意向を蹴らねばならないみずからの不忠不徳を卑下して書いた」部分をそのまま「檀祗が実際に書いてることだからなー☆ 事実は事実として残しておかなきゃいけないよねー☆」って感じで記録しやがっただろこれ。


とりあえず宋書が高平檀氏大っ嫌いなのはよく伝わってきた。それは果たして沈約しんやくの独断なのか、あるいは何承天かしょうてん以来の傾向なのか。探りようのないことではあるが、ここから先にも何らかのヒントがあるのかしら。


そして、書くまでもないことではあるが宣言もしておく。「書かれたまんまの人物であった」という解釈も自分の中には大きく残しておくのだ。すべては仮定。解釈「ごっこ」にしかなりようがない。


自分の解釈が正しい、という思い込みは、歴史に対する愚弄なのである。

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