張邵1  呉郡の名士   

簡伯 張邵 全4編

 既出:徐羨之4、謝晦16、謝晦17



張邵ちょうしょう呉郡ごぐん張氏、張良ちょうりょうの子孫とされる。

字は茂宗もそう張裕ちょうゆうの弟である。


……いやあの、なにへーぜんと

本文中で「裕」字使っちゃってんですか?

南史からの引用だって隠す気ねえな。


はじめは琅邪ろうや王氏の王誕おうたんの属官に。

桓玄かんげんが王誕を広州こうしゅうに左遷すると、

親族知人はみな王誕を見捨てたが、

張邵だけはいよいよ恭しく、

王誕を見送り、涙を流すのだった。


後日、反乱や飢饉が勃発。

張邵は王誕の妻子に宛て、

食料を提供した。



桓玄が簒奪をなした時、

父、張敞ちょうへいは桓玄の秘書であった。

かれは簡単な応答で些細なミスを犯し、

廷尉卿ていいけいに降格させられてしまう。


このとき張敞は笑いものとなった。

やがて劉裕りゅうゆうが桓玄を倒し、

実権を握った時に、

張邵、父の誠意ある人柄を懸命に説く。

その振る舞いを善しとした劉裕は言う。


「張敞殿を悪く言う者あらば、

 軍法にて裁くことになると思え」


後日、張敞を呉郡太守とした。

……えっ? 本貫地の太守?

本気ですか?

そんなん不正の温床じゃね?



王謐おうひつ揚州ようしゅう刺史に任ぜられると、

張邵を秘書に任命した。


劉毅りゅうきが宰相クラスの実権を得た時、

多くの人士を集めようとした。

これに応じたものは非常に多かったが、

張邵は劉毅とは距離を置いていた。


えっ劉毅さまだよ?

お近付きにならなくていいの?

そう問う人がいたので、

張邵は答える。


「わざわざそんな事を聞かれてもな。

 人傑、と言えば劉裕様だろう?」


この話を聞き留めた劉穆之りゅうぼくし

さっそく劉裕に報告する。


おぅ、張邵のやつ!

わかってんじゃねえか!


劉裕、それからますます

張邵を信任するようになり、

自らの幕僚に迎え入れた。



盧循ろじゅん建康けんこう襲撃の時の話である。

劉裕、張邵には南城なんじょうを守らせた。


この時南城周辺の人びとが、

水際にまで出て、

五斗米道ごとべいどう軍見物をしている。


えっ?

何やってんのこいつら?


彼らの振る舞いについて、劉裕、

張邵に質問した。

すると張邵、答えるよ。


「もし劉裕様が

 お戻りになれなかったのであれば、

 逃げることなど叶いませんでした。

 見物なぞ、しておれるはずも

 ありませんでしたでしょう。


 しかし、今はこの場に

 劉裕様がおられる。

 ならばどうして、

 奴らを恐れる必要がありましょう!」


五斗米道の乱が片付いた後、

張邵は楊州主簿に命じられた。




張邵,字茂宗,會稽太守裕之弟也。初為晉琅邪內史王誕龍驤府功曹,桓玄徙誕於廣州,親故咸離棄之,惟邵情意彌謹,流涕追送。時變亂饑饉,又饋送其妻子。桓玄篡位,父敞先為尚書,以答事微謬,降為廷尉卿。及武帝討玄,邵白敞表獻誠款,帝大說,命署其門曰:「有犯張廷尉者,以軍法論。」後以敞為吳郡太守。王謐為揚州,召邵為主簿。劉毅為亞相,愛才好士,當世莫不輻湊,獨邵不往。或問之,邵曰:「主公命世人傑,何煩多問。」劉穆之聞以白,帝益親之,轉太尉參軍,署長流賊曹。盧循寇迫京師,使邵守南城。時百姓臨水望賊,帝怪而問邵,邵曰:「若節鉞未反,奔散之不暇,亦何能觀望。今當無復恐耳。」尋補州主簿。


張邵は字を茂宗、會稽太守の裕の弟なり。初に晉の琅邪內史の王誕の龍驤府功曹と為る。桓玄の誕を廣州に徙したるに、親故は咸な之を離棄せど、惟だ邵のみ情意彌謹にて、流涕し追い送る。時に變亂饑饉あらば、又た饋を其の妻子に送る。桓玄の篡位せるに、父の敞は先に尚書と為りたるも、答事にて微謬せるを以て降ぜられ廷尉卿と為る。武帝の玄を討ちたるに及び、邵は敞が表獻誠款なるを白わば、帝は大いに說び、命じ其の門に署せしめて曰く:「張廷尉を犯したる者有らば、軍法を以て論ず」と。後に敞を以て吳郡太守と為す。王謐の揚州と為りたるに、邵を召し主簿と為す。劉毅の亞相と為りたるに、才を愛し士を好まば、當世に輻湊せざる莫く、獨だ邵のみが往かず。或るもの之を問わば、邵は曰く:「主公が命は世の人傑なり、何ぞ多問にて煩ぜんか」と。劉穆之は聞きたるを以て白さば、帝は益ます之に親しみ、太尉參軍に轉じ、長流賊曹に署す。盧循の京師に寇迫せるに、邵をして南城を守らしむ。時に百姓は水に臨みて賊を望まば、帝は怪しみて邵に問う。邵は曰く:「若し節鉞の未だ反らざらば、奔散に暇あらず。亦た何ぞ能く觀望せんか。今、當に復た恐るる無きのみ」と。尋いで州主簿に補せらる。

(宋書46-10_識鑒)




宋書巻46って完全散佚ですねこれ……ならもう「散佚しました」のまんまにしておけばよかったのに、なんでちまちま宋書のフリするかな。ただこの巻には最後に


臣穆等案「高氏小史」,「趙倫之傳」下有「到彥之傳」,而此書獨闕。約之史法,諸帝稱廟號,而謂魏為虜。今帝稱帝號,魏稱魏主,與「南史」體同,而傳末又無史臣論,疑非約書。然其辭差與「南史」異,故特存焉。


って記述がある。ざっと言えば宋書だと劉裕のこと高祖って呼んでるし北魏のこと虜って呼んでんのに、ここだと帝って呼んでるし北魏は魏主だしで、南史の書き方まんまじゃん、これ沈約しんやくが書いたもんじゃねーだろ、けどそしたらなんで南史と記述が違うところあんのかよくわかんねー、もういいや、考えるのやめた、って言ってる。まぁ実際、傍証が出てこなきゃ何の検討もしようがないですしねえ。


どっかから突然魏晋期の歴史記述がどかっと出土されたりしませんかね?

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