最終話 ショートケーキを食べよう

 午後三時三十分。

 それが私の会社のコアタイムだ。フレックス制度を使用すれば、時間休を使わずにこの時間に帰ることができる。もちろん、どこかで残業をしてその埋め合わせをしなければならないわけだが、大品質会議前の忙しさで貯金はたんまりとあった。

 パソコンの右下に表示されている時計が定刻を告げ、私はそそくさと退社の準備を始めた。

 今日は12月24日。クリスマスイブ。夕方からはつむぎとの大事な約束がある。

 パソコンを閉じ、書類をロッカーに片づけて、マフラーを首に巻く。忘れ物はないかもう一度机の上をチェックして、席を立った。


「あれ? 片瀬、もう帰っちまうのかぁ?」

「あ、三森さん。今日は早く帰らせてもらいますよ」


 椅子をしまっていざ退散と気配を消そうとしたところで、打ち合わせから帰ってきたひょろり先輩と鉢合わせてしまった。ひょろり先輩は、この寒いのに腕まくりをしていて、また技術部の人たちと舌戦を繰り返していたのであろうことが想像できた。飄々とした態度からは全く想像もできないけれど、本当にこの人やり手だ。

 あくまで事務的にやり過ごして、逃げ出そうと思っていたけれど、ひょろり先輩はハッと何かに気が付くと、悪だくみを思いついた子供の用にニヤニヤした表情を向けてくる。

 嫌な予感しかしない。


「そういや今日はクリスマスイブだったなぁ」

「そ、そういえばそうですね」

「そんな聖なる日に早帰りですかぁ。カァー、いい御身分ですなぁ」


 面倒くさい絡まれ方をしてしまった。先輩には悪気しかなく、面白がっているから厄介だ。……いや、悪気ばかりではないか。そうでもなかった時も、たまに、ほんの少しだけ、あるような、ないような……。


「さては、彼氏だな? 彼氏に違いない。白状しろ」

「だから、一番に彼氏を出してこないでください。セクハラで訴えますよ?」


 早帰りする理由なんて、ほかにいくらでもあるだろうに……。体調不良とか、家庭の事情とか……。


「なんだよ、つれない奴だなぁ。じゃあやっぱり彼女なんじゃないか」


 面白くなさそうにさっきまで使っていた資料を丸める。


「実は、そうなんですよ」

「だよなぁ。……ん?」


 ちょっとだけ躊躇したけれど、私は偽らずに真実を告げた。照れたように微笑む私の顔を、ひょろり先輩の真剣な顔が覗き込む。

 冗談だと疑われているのだろうか? まぁ、それでもいい。どう思うかは、その人の自由だし、どう思われようと私のやりたいことはもうぶれない。


「じゃ、お先でーす」


 余計な追求をされる前にその場を逃げ出した。私の考え方が変わったとはいえ、根掘り葉掘り聞かれるのには抵抗がある。

 ぽかんとしたままのひょろり先輩が、私の言葉を理解する前に姿をくらましてしまえ。


「三森クン三森クン。今、セクハラって単語が聞こえたんだけどね? コンプライアンス、大丈夫だよね?」

「室長……。最近の若いもんは、ほんとわからないです」

「はっはっは。キミもこっち側に足を踏み入れてしまったか」


 遠くで聞こえる室長とひょろり先輩の声を聴きながら、私は駆け足で階段を下りて行った。



 ※※※



「うはー。終わったー」


 職員室の自分のデスクに、使っていた赤ペンを放り投げて、あたしは大きく伸びをした。

 先週行われた期末テスト。三年生にとっては受験前に行われる最後の腕試しともいえるテストの採点を終え、あたしは解放感に満ちあふれていた。

 気合を入れて作った甲斐があって、勉強した子は伸びているし、勉強しなかった子は明らかに点が落ちている。受験生を応援するのが教師の役目かもしれないけれど、厳しい現実を突きつけるのも大人の役目だと思う。

 冷たくなったコーヒーに口をつけて、窓の外を見る。テスト期間終了とともに部活が解禁された二年生以下の生徒たちが、今日も声を張り上げてスポーツに勤しんでいた。暖かな職員室からコーヒーを啜るあたしは、さながら縁側で日向ぼっこをするおばあちゃんの気分だ。


「ちょっと、立石先生?」

「は、はいっ!」


 突然名前を呼ばれて、あたしはピンと背筋を伸ばした。振り向けば、クリスマスツリーのように髪を巻き上げた教頭先生が立っている。

 とぐろを巻いて天を衝く髪型に、オーナメントを飾りたい衝動がうずうずとせりあがってきたけれど、どうにか表情には出さずにやり過ごす。


「今日早帰りだそうじゃないですか。どういうつもりですか?」


 どういうつもり、と言われても……。早く帰るつもり以外の何物でもないのだけれど……。

 いきなり喧嘩腰の教頭先生の機嫌がいいとはとても思えず、あたしはとりあえず下でに出て様子を見る。


「私用があるので、今日は先に帰らせてもらいます」

「あなたねぇ、先日一週間お休みしてるの。わかってます?」

「それは、インフルエンザで……」

「インフルエンザじゃないでしょうに!」


 あぁ、そうだった。校長と教頭だけは、あたしのアパートまで来て、本当の理由を知っているのだった。タカヒロくんの名前は伏せたけれど、色恋沙汰でサボっていたことは伝えてしまっている。今更取り繕っても仕方がない。

 眼鏡の奥の三白眼が、獲物を捕らえたといわんばかりに鋭くなる。


「いいですか? 若いうちは失敗して覚えていくものです。失敗するのは仕方りません。校長先生も若い先生の失敗は多めに見てくれているところがあるんです。ですが、それは甘やかしているわけではありません。失敗するチャンスを与えてくれているんです。考えてみてください。その事実を知っていたら、早く帰るなんて選択、できないんじゃありませんか?」


 あなたはやろうとする気概が足りていない。性格からなにから全否定する言葉を浴びせられて、たまらずあたしはうんざりしてしまう。

 今に始まったことではない。教頭先生の若手いびりは、この学校の名物の一つだ。若い女性の先生は大概ターゲットにされ、精神的にもろいと、それで体調を壊してしまったりしている。あたしはこの手の嫌がらせには全然へこたれないのだけれど。

 前時代的と言い返すこともできたが、こちらに全く非がないわけではない。でも、これ以上問答を繰り返していたら、玲くんとの約束に遅れてしまう。

 どうしたものかと思案していると、横から割って入ってくる人がいた。


「おや? どうしたんですか、立石先生」

「校長先生!」


 職員室中に聞こえるような声で怒鳴っているものだから、当たり前のように校長先生にも聞こえていたのだろう。見かねて助け舟を出してくれた。


「校長先生。立石先生が、この忙しい時期に、早帰りをしようと言っているんです。何か言ってやってくださいませんか?」

「ええ、存じておりますよ。私が許可を出しましたから」

「許可!?」


 素っ頓狂な声を上げる教頭先生。


「立石先生は今朝、三時間も早く出勤してテストの採点をされていたんですよ?」

「三時間!?」

「仕事はちゃんと終わっているように見えます。何か問題がありますか?」

「……。ありません」


 勝った! あたしは教頭先生にバレないように、胸の中でガッツポーズをした。

 教頭先生と違って、校長先生は頑張っているところを見てくれている。見合った分だけ評価してくれる。確かに校長先生の気を引くために、寒い中、花の水やりも率先してやったけれど、そういう打算も含めて、校長先生は理解してくれていた。


「生徒の模範となるように、節度ある行動を心がけてくださいね」

「任せてください!」


 胸を張って答えた。教頭先生の悔しそうな顔に胸が素っとして、返事は大きくなってしまった。




 周りの先生たちに挨拶をして職員室を出ると、廊下の向こうから歩いてくる二人組とすれ違った。


「あ、むぎちー先生。こんにちは」

「こんにちは。じゃなくて、立石先生だってば」

「へへへ」


 一人はうちの中学随一のイケメン、タカヒロくん。世の女性を虜にする屈託のない笑顔を持ち、振られたあたしに堂々と挨拶ができる強靭な精神の持ち主だ。どんなに寒くても、その爽やかさだけは衰えない。

 もう一人は、元女子バスケット部キャプテンの吉川さん。引退する前、部活動で散々関わってきたけれど、役立たずな顧問よりも、動ける外部講師の方に懐いしまって、あたしとの仲はそれほど良くなかった。今も、タカヒロくんの隣でトゲトゲしい視線を向けている。


「むぎちー先生は、もう帰りですか?」

「まぁねー。そういう君たちは勉強、……って雰囲気じゃないね」

「あ、ばれちゃいます?」


 照れたように言うタカヒロくん。タカヒロくんほどの爽やかさを備えていなかったら、世界中を敵に回すほどの嫌味に聞こえていただろう。


「今日ぐらい受験勉強はお休みです」


 この前の土曜日だって、二人で遊びに行っていたというのに、過ぎたことはすっかり棚上げにされていた。いろいろな意味で将来が楽しみだ。


「それを言うなら、そういう、先生だって」

「あ、ばれちゃいます?」


 仕返しとばかりに、同じセリフを使ってみる。

 ほんの少し、ほんの少しだったけれど、タカヒロくんの頬がピクリと動いた。

 本当に聡い子だ。たったそれだけの会話で、あの日曜日からこっち、なにがあったか気付いてしまったんだろう。中学生相手に意地悪をしすぎたかもしれない。


「じゃあ、先生は帰るけど、君たちも羽目を外すんじゃないぞ」


 学生服の肩をポンと叩いてやり、あたしは颯爽とすれ違う。

 吉川さんからの視線もそろそろ無視できなくなっていたことだし、何より寄り道していたら玲くんとの約束に遅れてしまう。

 あたしが通り過ぎると、頑なに口を閉ざしていた吉川さんが、タカヒロくんに抗議の声を上げていた。あたしの前でほかの女に色目を使ってとかなんとかかんとか……。初々しい中学生の恋愛模様を垣間見て、ほっと胸を撫で下ろした。

 私の大好きなタカヒロくんは、ちゃんと中学生の幸せをつかんでいる。そのことに安心したのだ。


「さぁて、あたしもあたしの幸せを堪能しないと!」


 足取りは軽く、あたしは玲くんが居場所を守ってくれた学び舎を後にする。



 ※※※



 帰る前に会社の近くのケーキ屋に寄った。

 以前つむぎのためにチーズケーキを買った店で、私のお気に入りの一軒だった。

 つむぎはチーズケーキがいいと言うかもしれないけれど、クリスマスにチーズケーキはなんか違う気がする。やはりここは正統派のショートケーキだろう。ショーケースに並ぶ宝石のようなケーキたちに目移りしつつも、赤いイチゴの乗った生クリームたっぷりのケーキを選び店員さんに声をかけた。

 慣れた手つきで会計を済ませる店員さんに、チョコレートのプレートとサンタさんの砂糖菓子を乗せてもらい、箱を持って店を出る。

 電車に揺られる時間が勿体なくて、しきりにつむぎにメッセージを送った。つむぎからの返信もすぐに届き、今学校を出て向かっているとのことだった。

 ワクワクした気持ちを抑えながら、私も家路を急ぐ。

 家に着いた私はキッチンから必要なものをリビングに運ぶ。ランチョンマットにシルバー、いつか使おうとしていた高級感漂うティーセットも出してきて、準備は万全だ。

 後はつむぎを待つばかり。

 つむぎと約束した時間まであと十分。ソワソワした気持ちを必死で抑えながら、テレビを見て時間を潰した。

 ……。


「あれ?」


 午後五時を十分過ぎた。インターフォンはならない。

 あの時のトラウマが蘇ってきて、気が焦り始める。もしかしたらつむぎに万が一のことが起こったんじゃないだろうか。そう思ってスマホを取り出したとき。

 ぴんぽーん。

 私を呼ぶ音が部屋に響いた。

 待ち望んでいた合図。床に落ちていた座布団に躓きそうになりながらも、私は玄関へと駆け寄る。確かめずにはいられなかった。


「つむ……。……。……誰?」

「わしじゃよ」


 玄関を開けた先に待っていたのは、赤服に白いひげを生やしたお爺さん風の変な人だった。


「格好を見ればわかるじゃろう。サンタさんじゃ」


 精一杯押し殺して低い声を出しているけれど、女性の声では限界がある。格好と声のミスマッチに、笑いそうになってしまった。


「自分の名前にさんをつけるのか?」

「あっ! えっと、えーっと。……ごほん、サンタです」

「言い直した……」


 どう見てもつむぎだった。サンタのコスプレをしたつむぎが、玄関に立っていたのである。

 これは一体どういう演出なのだろう。


「サンタはいい子にしていた玲くんを見ていたのじゃ。だから、とびっきりのプレゼントを持ってきてやったのじゃな」

「とびっきりのプレゼントって……」


 私は目の前に現れた怪人物を、つま先から脳天まで嘗め回すように見た。けれどプレゼントらしきものは見当たらない。手ぶらだった。トレードマークである大きな白い袋はなく、プレゼントの小包も持っていない。駐車場にトナカイが引くソリが停まっているわけでもなかった。


「それはな……」


 勿体ぶってタメを作る。そして、なにを思ったか、サンタは着ていたサンタ服の裾を握りしめ、力いっぱいに脱ぎ捨てた。

 中から現れたのは、紛れもなく私の大好きなつむぎだった


「つむぎちゃんです!」


 ババーンと自分で効果音をつけて、盛大にアピールする。


「はい、びっくりして!」

「リアクションを強要するなよ」


 真剣な表情で迫るつむぎが面白くて、私はたまらず笑ってしまった。笑ってしまう私を、つむぎが不服そうに睨む。その仕草まで楽しくて、涙まで出てきた。


「最高のクリスマスプレゼントだな」

「でしょ?」


 得意顔のつむぎがまたかわいい。

 私はつむぎを促した。パーティの準備は整っている。


「メリークリスマス、玲くん」

「メリークリスマス、つむぎ」


 二人で言い合って、リビングに向かった。




 今日は年に一度の聖なる日。恋人たちが愛を囁くように、私たちも甘い夜を過ごしてみたい。

 でもきっと、それは単なる口実しかなくって。

 私は毎日、つむぎとこんな日々を過ごしていたい。

 なんにもしない日々の大切さを、もう知ってしまったから……。




《日曜日なんにもしない同盟》 了

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