第26話 二人で未来を見据えよう

 日付が変わった。

 時を刻む秒針の音が、静かな部屋に響き渡る。

 私は、書斎の椅子の上で膝を抱えうずくまったまま、秒針の音を聞いていた。普段ならベッドに入って夢の入り口をノックしている時間だが、今日は全く眠くはなかった。

 いや、眠かったところで、眠ることはできない。私のベッドはつむぎが占領してしまっていたから……。




 車から降りた私は、力強いつむぎの迫力に負け、彼女を家に上げてしまった。

 つむぎはずっと、泣いているのか怒っているのかもわからない説得を繰り返した。私の答えはとっくの昔に決まっていて、言うだけ無駄だと何度も言ったけれど、つむぎも大概頑固だった。全く折れず、必死に言葉を紡ぎ、そして不貞腐れたように私のベッドにもぐりこんだかと思うと、数分も経たずに眠ってしまった。

 居心地が良い関係を崩してしまいかねない告白を胸に抱えながら、歩きなれない寒い公園を歩き通し、そして膨大なエネルギーを使って感情を言葉にし私にぶつけてくれた。エネルギーが空になってしまったのだろう。泣きつかれた少女のように、今は穏やかな寝息を立てている。

 おかげで私は、自分の部屋だというのに、部屋の隅に追いやられてしまったわけだ。


「はぁ……」


 白い息とともにため息が漏れる。

 何度目かわからないため息。吐くたびにその意味合いは変わっていた。

 一体何が優しさだったのだろう……。

 デートを断ることだったのだろうか?

 それとなくつむぎに諦めさせることだったのだろうか?

 強く拒絶してつむぎを否定することだったのだろうか?

 答えは出ない。そもそも答えがあるのかもわかっていない。堂々巡りの思考の迷宮に囚われて、もう数時間もなにもできないでいた。

 こうしてつむぎを部屋に入れてしまった時点で、未練は断ち切れていないことは明白なのに……。

 私の願望を言葉にするなら、恋人という特殊な関係にならず、つむぎとずっと一緒にいたい、だ。

 矛盾した感情かもしれないが、私の中のくすぶった感情に素直に従うならば、その二つは矛盾しない。

 思い返せば今までの関係が十全だった。つむぎが一歩踏み出そうとさえしなければ、鋭い針の上に成り立った世界は、保たれたままだった。


「……」


 抱えた膝の隙間から、ちらりとベッドに視線を送る。つむぎは私に背を向け眠っていた。

 彼女は一歩を踏み出した。事実は事実。もう後戻りはできない。

 つむぎだってその決断をするのに、人生を揺るがすほどの葛藤をしたはずだ。考えて、考えて、考え抜いて。そして告白という大事を成した。その勇気は私にはないもので、純粋にうらやましいと思う。

 私もつむぎだったらよかった。つむぎのように天真爛漫で、好きなことを好きと言って、嫌いなことを嫌いと言える。自分の感情に忠実で、どんな結末になったとしても、自分がしたいと思ったことを行動に移す勇気がある。もし私にそんな勇気があったなら、こんな葛藤なんかせず、楽しい世界を築けていたのかもしれない……。

 現実は違う。私は常識という殻を破れない。

 普通の女性は同じ女性を好きにはならないし、男性を好きになるべきだ。LGBTだのなんだのと世間は揺れ始めているようだけれど、所詮それでもマイノリティ。受け入れられることはない。

 他人から見られて恥ずかしいと思ってしまうし、気持ち悪いと思われる可能性を考えると身がすくむ。私はそんな風に周りから見られたくない。常識的な大人でありたいと思ってしまう。


「つむぎ……」


 こんな頭の固い私を許してくれ。私はレズビアンにはなれないし、つむぎをレズビアンにもさせたくはない。

 つむぎ……。大好きだ、つむぎ……。

 大好きだから、愛せない。

 つむぎ……。




 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。人が動く気配を感じて薄目を開けた。


「わ」


 気配がすっと離れていく。

 辺りはまだ暗い。強張ってしまった身体がバキバキと悲鳴を上げる。窓際の椅子の上で寝てしまったからか、冷気にさらされた鼻の頭がキンと冷たくなっていた。だが、自然と体は冷たくない。

 上体を起こすと肩に掛けられていた毛布が床に落ちた。眠る前に私がくるまっていたものではない。ということは……。

 視線を上げていくと、リビングの真ん中につむぎが突っ立っていた。


「えっと、おはよ」

「……あぁ、おはよう」


 気まずい沈黙が二人の間に漂う。

 視線を合わせられなくて、冬でも静かに葉を広げる観葉植物の方へと逃げた。月明りだけが差し込む部屋でも、常緑種のパキラは生き生きと輝いていた。


「これ。つむぎが?」

「あ、え。うん。そうだよ」

「そうか。ありがとな」

「うん……」


 会話が終わる。

 一歩踏み越えてしまった私たちは、もう元の関係には戻れない。今の会話が、崩れてしまった関係を象徴しているようだった。


「寒いだろ。布団被っとけよ」

「いいよ。ちょっと、冷ましたい気分」

「そうか」


 再び沈黙が落ちる。

 今までどんな風に会話をしていたのか思い出そうと試みるも、明確な答えは出てこない。私たちの関係のように、ふわふわしているだけで時間が過ぎていた気がする。考えながら喋ることなんて、なんにもしない日曜日には不要だった。

 それはつむぎも同じようだった。目のやり場を探しながら、私とだけは目を合わせないように視線を彷徨わせていた。


「あの」

「あのね……」


 ようやく意を決して口を開いたというのに、つむぎと被ってしまった。ばつの悪そうな表情をして見つめるつむぎを見て、即座に順番を譲る。


「そっちからどうぞ」

「ううん。玲くんからでいいよ」

「つむぎからでいいって言ってるんだ」

「玲くんからでいいって」

「……」

「……」


 言葉が強かっただろうか。別に怒っているわけではない。つむぎを拒絶したいなんて、これっぽちも思っていないのだから。


「じゃあ、言う」


 つむぎはベッドに腰かけると、枕を抱き寄せて深呼吸を一つした。……いや、それ私が普段使ってる枕なんだが……。匂い嗅ぐな。


「あたしは、諦めてないよ」


 枕に半分顔をうずめたまま、きっと睨みつけるように宣言する。声は震えておらず、語調の強さからつむぎの覚悟が読み取れた。


「ちょっと寝てスッキリした。スッキリしたうえで、もう一回玲くんを説得する」

「説得ってなぁ……」


 私の決意は変わらないというのに……。

 私も書斎の椅子に腰かけて、距離を取ってつむぎと対峙する。


「何度も言っただろう。女同士は違うって」

「それはもう何度も聞いた」

「私は男が好きで、付き合うなら男の人だ。芸能人で言えば西島秀俊がタイプなんだよ」

「おぉ、渋い!」


 驚いたように目を丸くした。

 渋いか? かっこいいだろう、西島秀俊。


「でも、それを言うならあたしだって! あたしの好みは嵐の櫻井君!」

「私は櫻井君と似ても似つかないじゃないか」

「タイプなんて関係ないんだよ。あたしも男の人が好きで、男の人を好きになる。でも、玲くんも好きになった」

「矛盾してるぞ」

「してない!」


 ぴしゃりと言い切るつむぎ。


「あたしは男の人が好き。でも、玲くんも好き!」

「私は男じゃない」

「知ってるよ。あたしは女の子の玲くんが好き! 男の人なら誰でもいいわけじゃないし、女の子なら誰でもいいわけじゃないの。玲くんがいいの!」

「それでも、その気持ちはアブノーマルだ。……普通じゃ、ない」


 普通じゃない。

 それだけは言わないと心に決めていたのに、つむぎに煽られて口から出てきてしまった。

 普通じゃない。特殊である。

 私はたぶん、世間とか、常識とか、そういうものからかけ離れるのが怖いのだ。

 その一言が、つむぎを傷つけるとわかっていても……。


「普通の恋愛している人なんて、この世界には一人もいないよ」


 けれど、つむぎはそんな言葉ではへこたれなかった。つむぎ自身、すでに普通じゃないことをしている自覚があるのだろう。


「カテゴライズするのがそもそもおかしいと、あたしは思う!」


 力強く迷いがない。


「男女で付き合わなければいけないっていうのがもうおかしいんだよ。男の人が男の人を好きになることもあるし、女の子が女の子を好きになることがあってもいいと思う。必要なのは誰のことを好きになるか、なの! 玲くん!」


 人差し指を突き付けられる。


「玲くんはあたしのこと、好きじゃないの?」

「そりゃ、お前……」

「好きじゃないの?」

「……嫌いじゃない」


 本音を口にしてしまえば、つむぎのペースに飲まれてしまう。及び腰になりながら、嘘だけは吐きまいと言葉を紡いだ。


「ほら。嫌いじゃないんじゃん!」

「そりゃ嫌いじゃないさ! 嫌いな奴と三カ月もの間、一緒に過ごせるものか!」

「だったら素直になればいいじゃん!」

「それと、つむぎと付き合うということは別の話だ!」


 胸の中がだんだん熱くなってきていた。こみ上げるものがある。膨れ上がる思いは、けれど理性で封じ込める。私は、私を手放してはいけない。


「考えてもみろ。私たち二人が一緒に手をつないで歩いていていたらどうだ? 私たちはそれで楽しいのかもしれないが、何の事情も知らない人が見たらどう思うと思う? 気持ち悪い人たちだって思うだろう。今日のレストランの店員さんだって困惑していた。普通の恋愛をしている人はいなくても、外野は普通というフィルターを通して私たちを見るんだぞ」


 一息に言い切る。感情に任せて、息つくタイミングがわからない。


「つむぎと付き合って、私は知り合いにつむぎのことをなんて紹介すればいい? 友達ですってごまかすのか? 気心が知れた知り合いにも嘘を吐かなければいけない関係……。そんなもの到底耐えられやしない」


 そんな未来がちらついてしまうからこそ、私はつむぎを否定するのだ。


「私は周りからそういう目で見られるのが怖い。道を踏み外してしまうのが怖いんだ」


 小さな沈黙。

 ここまで言うつもりではなかった。でも本心には違いなかった。

 私は弱い人間だ。周囲という大多数に簡単に取り込まれてしまう。そこから外れるのが、怖くて怖くて仕方がない。


「そんなの、あたしだってそうだよ」


 力強い声が沈黙を破った。


「あたしだって怖いよ! 言ったでしょ。あたしも女の子だけが好きなわけじゃない。女の子を好きになったことだって、これまで一度もなかったんだよ」


 抱きしめた枕をさらにぎゅっと力を込めて、小さな体でつむぎは言う。


「どうなるかなんて、あたしにもわからない。後ろ指さされるかもしれないし、玲くんの言う通り気持ち悪がられて、酷い目に遭うかもしれない」

「……それでもいいっていうのかよ」

「それでもいい。それでもいいの。周りの知り合いも、世間の目もあたしにとってはどうでもいい!」


 つむぎは一度息をついて、そしてまた、私のことをきっと睨みつけた。

 

「さらに言うなら、性別だってどっちでもいい!」

「どっちでもって……」

「玲くんが、どうしても男がいいというのなら、」


 しんと張りつめた空気を、つむぎの熱が溶かしていく。


「あたしがタイに行ってちんちんつけてくるから!」

「ちんっ――! おい、つむぎ!」


 驚いて椅子から転げ落ちそうになった。かわいい顔して何言ってるんだ。


「何度でも言う! あたしが男の子になる! タイに行ってちんちんつけてくる! パスポート取ってくる!」

「自暴自棄になるな! 自分が何言ってるかわかってるのか?」

「わかってるよ!」


 まっすぐに向けられた瞳は、まったくぶれていなかった。


「あたしは、そうまでして、玲くんと一緒にいたい! ……玲くんだって、そうじゃないの?」

「私は……」


 言い淀む。肯定も否定もすぐに出ては来なかった。


「私は、そうじゃ、ない……」

「そうじゃなくない! それは本心じゃないよ、玲くん!」

「なんでつむぎがそんなことを言う」

「だって、今の玲くんは……」


 つむぎは一瞬躊躇したように言い淀む。けれど、すぐに決心して、再び繰り返した。


「だって、今の玲くんは!」


 はっきりと口にする。


「塞ぎ込んで引きこもっていた、あの時のあたしと、おんなじだから!」

「おん、なじ……?」


 薄暗い部屋に、月明りが差し込む。膨張したエネルギーが爆発するように、つむぎの周りから色彩が広がっていくようだった。


「やりたくないことを放り出しちゃえって言ってくれた。放り投げていいって赦しを与えてくれた。でも、切り捨ててはいけないとも教えてくれた!」

「……」

「玲くんは、あたしに手を差し伸べてくれたんだよ。それは、いつかあたしがしたことへのお返しだったのかもしれないけれど、あたしはそれで救われた」

「……」

「胸に手を当てて考えてみてよ。玲くんが言っていることは、本当に玲くんがやりたいことなの?」

「……」


 言葉を、返せなかった。

 なんにもしないとは、切り捨てることじゃない。やりたいことをやりたいようにするということだ。

 そのせいで会社の上司に迷惑が掛かっても、部活をサボって教頭先生に目をつけられても、それは仕方のないこと。それ以上にやりたいことがあるから、私たちは同盟を結んだのだ。


「玲くんのやりたいことって、世間体を気にすることなの?」


 ――。

 ……違う。


「玲くんは、本当にあたしと一緒にいたくないの」


 違う。


「玲くんは、あたしの気持ちを切り捨ててしまいたいの?」


 違うっ――!

 気が付いたらこぶしを握り締めていた。柔らかな手のひらに、鋭い爪がぐいぐい突き刺さる。感情を我慢して肩が震えていた。


「教師と生徒という枠組みを取っ払って、一人の人間、一人の女性としてタカヒロくんを振りなさいって教えてくれたのも玲くんだよ。だからあたしは、性別って枠組みも取っ払えた」

「……」

「玲くんも、すべての制約を取っ払って、自分の気持ちに素直になってみてよ」

「……つむぎっ」


 違う。違う違う違うっ!

 こんなんじゃない。こんなつもりじゃないんだ!

 私だってつむぎが好きだ! 大好きだ!

 この気持ちを伝えたいと思っている。今まで好きになった男たちなんて月とスッポンに思えるほど、つむぎのことが大好きだ。

 伝えたかった。聞いてほしかった。

 つむぎが素の自分をさらけ出してくれた時、私も自分の思いをぶちまけてやりたかった。

 でも、弱い私がそれを否定する。

 お前は普通でいなければいけないと、常識という鎖で縛りつける。

 ずっと苦しかった。

 呪縛のようにまとわりつく感情から逃げ出したかった。

 思ったことを口にできる子供でいたかった。

 いろいろなしがらみが私を邪魔して、邪魔した結果つむぎまで傷つけて……。こんなもの、私がやりたかったことでは全くない!

 私は。

 私は――!


「つむぎ」

「なあに、玲くん」



「私は、つむぎが好きだ」



 あぁ。言えた。やっと、口にできた。

 万感の思いが胸の内をめぐり、たまっていたストレスは、清い感情へと形を変え、浄化され消えていった。

 つむぎの顔が、笑って、ゆがんだ。


「うん……! うんっ!」

「つむぎが、好きだった。ずっと、ずっと」

「うん。うんっ!」


 つむぎは、笑ったまま、目じりに溜まった涙を、袖口で拭った。


「私も、やりたいと思ったことをして、いいのかな?」

「いいんだよっ。いいっ。全く問題ない。あたしが赦すからっ!」

「私は弱くて、怖がりだ。いつも周囲の反応を気にしてしまう。これからもきっと……」


 震えは止まらない。つむぎへの気持ちを口にしても、恐怖は私の周りにまとわりついている。


「だから」


 つむぎの目を見て言う。


「また、私が本当にやりたいことを見失ったら、また目を覚まさせてくれ」


 視界は涙でゆがみぐにゃりと形をゆがめた。

 擦っても擦っても、後から後から涙があふれてきた。それでも、思った言葉は伝えようと声を張る。


「私はつむぎなしでは、あっという間に道を踏み外してしまいそうなんだ」

「うんっ」

「不束者かもしれないが、よろしく頼む」

「それはあたしのセリフだよ」


 つむぎがとてとてと近づいてきて、私の手を取る。掌に触れたつむぎの手は、冷え切った私の手よりもさらに冷たかった。


「寒くなっちゃった」


 窓の外は黒から紫へと移り変わりつつあった。もうすぐ夜が明ける。


「今日は日曜日。なんにもしない日曜日。だから、ね? 一緒に二度寝をしようよ!」


 引っ張られた私は、つむぎとともにベッドに倒れ込む。重なった拍子に顔が近づいて、心臓が跳ねた。

 見つめているとおかしくなって、どちらともなく思わず笑ってしまった。

 随分久しぶりに笑った気がする。

 好きな相手とデートをしていたというのに、おかしな話だ。


「んむー」


 つむぎが薄っすら目を瞑って唇を突き出してきた。

 すべてがつむぎの思い通りになってしまったことが、私のプライドを少なからず傷つけていたので、私はつむぎの唇を遮って、代わりにおでこにチュッとした。

 違和感を感じたつむぎが目を開ける。すぐに何をされたかに気が付いて、リスのように頬を膨らませた。そんな表情も、かわいいと思えてしまう。

 先のことはわからないけれど、私の考えは確実に変わった。目の前にある現実の困難や障害が消えるわけではないし、今からそれらと戦っていかなければならないことに不安を感じている。

 だが、それでも。私には私の過ちを正してくれる相方がいる。

 つむぎがいる限り、私はやりたくないことに負けず、やりたいことを貫ける気がする。

 日曜日だけでなく、毎日だって……。


「そうだ、つむぎ。パスポートを取りに行こう!」

「えっ!? さっきの話、本気で実行するの!? あたし、ホントにつけに行かなきゃダメっ!?」


 勢いで言ったには言ったけど言葉の綾というか……、と小さくなるつむぎ。緊張していた時とは違い、途端に赤くなるつむぎがかわいくて、ずっと見ていたくなった。

 でも、それが本題じゃない。苦笑して、私は今思いついたとびっきりの楽しみを言葉にする。


「いや、行き先は変更だ。タイじゃなくてハワイだ!」

「ハワイ……?」

「いつか一緒に空想しただろ? 二人で旅行する夢のプランをさ」

「……うん!」


 頷くつむぎを胸の中に感じて、温かい感情があふれてくる。

 空想旅行が実現するのも、そう遠くない未来かもしれない。そう思いながらも、今はただ、手の届く幸せに、身をゆだねていたかった。


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