閑話 もうひとつのなんにもしたくなかった日
※※※
一目見て、かっこいい人だなぁと思った。
このアパートに引っ越してきた初日のこと、あたしは扉を開けて現れたかっこいいお姉さんに憧れた。
すらりと背が高くて、飄々としていて、落ち着いていて。着飾っているわけじゃないのに、自然体でだらしなくない。女性らしさを微塵も出していないのに、その人はとても魅力的に思えた。
「えっと……」
扉を開けるのも億劫だとでも言うように、初めて会ったお隣さんはワイルドに頭をかきながら困った顔を向ける。
「――あっ」
見蕩れてしまっていた。その事実に気付くと、途端に恥ずかしくなった。
初対面で失礼なことをしてしまった。何とか取り繕わなくては……!
視線を彷徨わせながら、どうにか頭の引き出しから
「隣に引っ越してきた者です。以後お見知りおきを!」
そこまで一気に言い切って、それから続く言葉がないことに気が付いた。
後から思えば、名前を名乗って、出身だとか、仕事の話だとか、花を咲かせる話題なんていくらでも思い浮かんできたけれど、その時のあたしは動転してしまっていて、思うように頭が回ってくれなかった。
「これ! うどん!」
持っていたうどんの箱を、無理やりお隣さんの手に押し付けて、どうにかこの場をやり過ごす。
えっと、挨拶して、つまらないものを渡して、えっと、それから……、それから……。
うん! ない!
あたしはやることはやったと確信して、扉を閉めようとする。
「ちょ、ちょっと待って!」
お隣さんは、閉まる扉を押さえて、慌てたように呼び止めた。
あたし、なにか粗相を……!?
「なんで、うどんなんだ?」
不思議そうに首を傾ける。
実を言えば、答えは用意していた。高校デビューや大学デビューがあるように、新居デビューなるものも必要なのではないかと、初めての一人暮らしに浮かれたあたしは考え、あえてうどんを持っていき、コミュニケーションを図ろうと考えていた。新しい土地、新しい人との出会いに、胸ときめかせていたのだ。
うどんについてツッコミを入れられたら、いろいろなパターンで返して盛り上げようと画策していたのだけれど、慌てていたあたしは頭の中が真っ白になっていて、残念ながらなにも浮かんでこなかった。
終いには、
「そばよりうどん派だから!」
などという、何の面白くもない宣言をするだけして、逃げるように去ってしまった。
それがのちに、うどん女という謎の妖怪を誕生させてしまうわけだが、この時はまだ知らない。
お隣さんに会いに行ったのに名前を言うことも、聞くこともできなかったことに、大きく落胆したことだけは間違いない。
かっこいいお隣さんの姿は、それからも何度か見かけていた。
通勤時間は被らないようだったけれど、あたしが部活で遅くなったりすると、駐車場で鉢合わせしたことが何度かある。あたしは車、向こうは駅から歩いて来ているようだったから、すれ違ったといっても顔を合わせたわけではない。車に乗っているあたしが、一方的に認識していただけだ。
お隣さんは何か普通の人とは違う雰囲気をまとっていた。
挨拶をしてしばらく、その謎の魅力について考えてみたがなかなか答えは出ない。
同じ女性として、何が違うのか。
その秘密を知ることができれば、あたしもあの人のように魅力的な女性になれるかもしれない。
この命題に答えが出たのは、随分後になる。
結論から言ってしまえば、彼女は、玲くんは、女らしくなかったのだ。
雨が降っていた。
強い雨音が聞こえて来て、あたしはまどろみから覚醒する。ぼんやりとした頭で時計を見ると、午前九時を少し過ぎたところだった。
「部活は休むって言ってあるし、もう少しまどろもう……」
あたしには予定がある。なんにもしないという予定がある。
心の中の正義感に言い訳をして、寝返りを打った。
今頃、世代交代を終えた新チームのメンバーたちは、汗を流してボールを追っていることだろう。練習が終わっても自主練をして、体力の尽きるまで自分を追い込む。スポーツに青春を傾けられる彼女たちを、あたしは時折羨ましくなる。
そんなことを考えていたら眠れなくなってしまった。罪悪感にも似た感情が胸の中にわだかまり、生産的な行動をせよと脳が命令を送ってくる。
「仕方ないなぁ。朝ごはんでも買ってこようか」
雨の中コンビニに行くのは正直面倒だったけれど、家の冷蔵庫には何も入っていない。背に腹は代えられない。
着古したパーカーを羽織り、髪だけ適当に梳かして化粧もそこそこに扉を開ける。お気に入りのブーツ型の長靴に足を通し、パステルカラーの傘をさす。憂鬱な雨に対抗するための、あたしのちょっとした贅沢だ。
「おや?」
扉を開けた瞬間、ドキッとした。
重く垂れこめる空の下、駐車場に立ち尽くす人影を見つけた。ワイシャツにスラックスという、今から仕事に行くサラリーマンみたいな格好をしたその人は、傘もささずただただ空を見上げている。
変な人かもしれない。
あたしは自分の格好を棚に上げてそう思った。
悲劇のヒーローでも演じているつもりなのだろうか。新手のかまってちゃんに捕まるのは正直困る。
迂回しようと回り込もうとしたとき、ちらりと横顔が目に入った。
「あ……」
お隣さんだった。
いつも斜に構えて、他人とは違う自分の世界を周りに展開しているお隣さんが、今、無防備で突っ立っていた。
好奇心が揺れる。
足は自然と、彼女のもとに向かっていた。
「雨、降ってるよ?」
そういって傘を差しだしたとき、運命が交わったのだと思う。
お隣さんはあたしと同じ悩みを抱えていた。
ううん。一緒というのはちょっと違う。
あたしはやりたくないことをやりたくないと態度で示し、日曜日の部活から逃げていたけれど、彼女はまだ戦っていた。責任感や正義感の塊みたいな人だった。
擦り切れてしまいそうな表情を向け、自嘲し、突き放そうとする。いっぱいいっぱいになっているのにまだ頑張ろうとする姿に、あたしはいつの間にか自分の生徒のことを重ねてみていた。
「……どうしたら、いいんだろう?」
泣きそうな声で問われて、あたしのスイッチが入る。
飾ることもせず、群れることもせず、頼ることもせず、責任を背負う。自分がかわいくて、かわいく見せようと考えているあたしとは、まったく違う生き物なんだ……。
この人からは、女性のずる賢さを全く感じない。
俄然知りたくなってしまった。
この人といたら、あたしは、あたしをさらけ出せる気がする。
日曜日なんにもしない同盟なんていうのは、その場で思いついた方便に過ぎない。でも、彼女は、そのネーミングをとても気に入ってくれたようだった。
びしょ濡れになったお隣さんをお風呂に入れるため、あたしはそのまま隣の部屋、103号室に転がり込んだ。
実をいうと、ものすごく緊張していた。女友達の家に入った気がしなかったのだ。部屋は機能的で無駄なものがなく、落ち着いた色合いが逆にそわそわさせる。だらしなさのかけらもない。これはあたしの部屋は見せられないと思ったものだ。
パンツ一枚でお風呂から出てくるお隣さんを、あたしはドキドキしながら迎えた。
いくら何でも無防備過ぎはしないか?
引き締まったお尻を突き出してクローゼットから着替えを取り出す姿は、堂々としていてこちらが恥ずかしくなってしまう。
「えっと、玲、ちゃん……?」
恐る恐る声をかけた。
彼女はしばらく辺りをきょろきょろした後、あぁと言って頷いた。
「私のことか」
他に誰がいるというのだろう。不審に思っていると、あたしの考えを先に読んで、説明をしてくれる。
「ちゃん付けなんて、されたことないんだ。もうこの年だし、大人だし、ちゃんはやめてくれ」
「か、かわいいと思うのに」
玲という名前から感じる鋭さみたいなものを、包んで和らげてくれる気がする。
「一人の女性としてならまだしも、『女の子』として扱われることが苦手なんだよ。私の唯一のわがままだ」
「んー。そう言われれば雰囲気とはマッチしてない気もする……」
あたしは今でもつむぎちゃんと呼ばれる。同年代の女友達や、姉や両親からは今でもちゃん付けだ。年齢は関係ないと思うのだけれど……。
「玲でいいよ」
難しい顔をしていたのか、苦笑して言う。彼女の顔をまじまじと見つめた末、出てきたのは……。
「玲くん?」
「くん!?」
女らしさを感じない彼女には、こっちの方がしっくり来た。
男女構わずクンをつけて呼ぶ室長以外に、くんをつけられたことはないなぁと照れたように言う彼女がまた魅力的で、あたしはこの呼び方を気に入った。
「決めたよ、決めました! 今日からあたしは玲くんと呼びます!」
「ちゃんじゃなければなんでもいいや。私はつむぎでいいか?」
「おーけーだよ」
顔がにやけている自分がいた。
新しい友達。でも、あたしの中で玲くんは、少しだけ特別な友達になった。
玲くんは友達でも家族でも恋人でもない同盟関係という宙ぶらりんな距離感が気に入ったみたいだった。あたしも最初はそうだった。
でも、一緒にいる時間が長くなればなるほど、玲くんのことを知れば知るほど、あたしはもっと近づきたいと思ってしまった。
一緒にドラマを見たり、赤ちゃんのお世話をしたり、モンブランを食べたり。からかわれることも多かったけれど、小説を書いたりおままごとをするようなあたしの得意分野では、玲くんの恥ずかしい姿を見ることができた。熱に浮かされているときの玲くんは素直で可愛かったし、あたしが塞ぎ込んでしまったときは、まるでヒーローみたいに助けに来てくれた。
あたしは玲くんのことを好きになっていた。
自分でもおかしいのはわかっている。
玲くんは女の子だし、あたしは男の人の方が好みだ。
でも、玲くんが好きだ。
矛盾するように聞こえるかもしれないが、あたしの中でそれは全く矛盾していなかった。
自分の気持ちに気付いたら、もう止められなかった。
どうしても伝えたい、繋ぎ留めたい……!
別の誰かのもとに行ってほしくない!
はやる気持ちが募り、思い切ってデートに誘った。
文面から、一歩引いた視線で見つめる玲くんの姿が見えたけれど、あたしは馬鹿でわからないふりをして、無理やり今日にこぎつけた。
わかっていた。
玲くんが、どんな答えを返すかなんて。
でも、言わなければならなかった。
この歯がゆく苦しい思いは、もうこれ以上あたしの中で飼いならしておくのは不可能だったから……。
玲くん。
どうか……。
どうか、あなたの本心を聞かせてください。
※※※
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