第16話 なんでもする土曜日 前編
一晩考えた末、私の決意は固まった。
つむぎに会いに行く。
これまで一緒に過ごした三ヶ月を思い出し、この同盟関係を始めた日を思い出したら、もはや建前すらいらなかった。
毎週必ず訪ねて来ていたのに先週連絡もなく来なかったこと。
日曜日の部活をサボり続けていたこと。
一週間ほとんど連絡を返してくれなかったこと。
そして、昨日つむぎの家に校長先生と教頭先生が訪ねて来ていたこと。
知らないことはたくさんある。私がもっと踏み込んでいたら、こんなに悩むことはなかった。踏み出す勇気を持てなかったのは、ひとえに私の意気地なしな性格ゆえだ。
つむぎは望んでいないかもしれないとか、つむぎのためだとか、つむぎをダシにして自分の意気地のなさをカムフラージュしていた。
きっと、この行動は取り返しのつかない変化を生み、今の適度な距離感には戻れなくなるだろう。けれど、苦しんでいるつむぎを放ってはおけない。
「よし」
顔を洗って気合を入れ、私は玄関の扉を開けた。
午前九時。102号室のインターフォンを押す。
指は震えたけれど、まっすぐにボタンを押すことができた。
いつもは逆の立場でつむぎを待たせていると思うと、少しだけ罪悪感が生まれた。私は毎週、こんな恐怖を味合わせてしまっていたのか。
中からの反応はない。
ピンポン一つで出てくれればラッキーと心の隅では思っていたけれど、一週間LINEにもほとんど連絡を返さなかった時点で、そんなラッキーはありえないと高をくくっていた。
どうせ土曜日もなんにも予定はないのだ。長期戦だろうと構いはしない。
ドアに背を向け駐車場の上に広がる澄んだ空を見上げる。ドタキャンされて、無視されて、遠ざけられていた相手に直談判に行くというのに、心はあの空のように澄み渡っていた。
五分ほど待ってみたが、扉の向こうからは物音一つ聞こえてこない。気付いていないのか、気付いていて無視をしているのか……。おそらく後者だろうことは想像に固くない。
LINEでメッセージを打ってみる。
『玄関の前にいるのは私だ。つむぎと話がしたい』
送信した瞬間、既読がついた。
てっきり、スマホの待受に私の名前が出たら、メッセージを開かないんじゃないかと思っていた。これは嬉しい反応だ。
『いるのか?』
送ってみたが、今度は既読がつかない。
私の訪問に気付いたつむぎが、意図を探ろうとしてLINEを開いていたところにメッセージが届いた。行動が気づかれたと思って、慌ててアプリを閉じたため、次のメッセージに既読がつかない。そんなところか。
自分の行動を知られたくない程度には、私のことを気にしてくれているということに、少しだけ勇気が湧いてくる。
私はもう一度インターフォンを押す。カメラに顔を近づけて、「つむぎ」と呼びかけてみた。
このアパートのインターフォンは受話ボタンを押さなくても、一分ほどこちらの音声と映像を垂れ流してくれる。つむぎが中にいて、私の訪問に気付いてくれているなら、きっと私の言葉も届いている。
「つむぎ。あー、なんていうか、今日は日曜日じゃないからな。同盟の盟約は適用されない。だから、部屋から出てきた」
インターフォンからの反応はない。
無機物に向かって話しかけるというのは、恥ずかしくて話しづらい。留守番電話に一方的に用件を吹き込んでいるような気分だ。つむぎはすぐそこにいるというのに……。
「つむぎがなにか重くて他人に話しづらいことをどっぷり抱え込んでいるのはわかった。あんなちゃらんぽらんでもつむぎも人間だからな。たまに塞ぎ込みたくなることもあるだろ。私だってそうだった」
ぷつりと言って、インターフォンのLEDが消えた。
あまり馴染みはないけれど、公衆電話でお金を入れた分の通話時間が経過したときも、こんな感じなのだろうか。
もう十円入れる感覚で私はインターフォンを押す。
「でも、これは違うぞ、つむぎ。今のつむぎの『なんにもしない』は、あの時私に教えてくれた『なんにもしない』とは違う。決定的に違うじゃないか」
こぶしを握って、ドアに軽く叩きつける。
「仕事に追われて、責任に押しつぶされそうになっていた私を解放してくれたつむぎは、放り投げてしまえと言ってくれた。赦しを与えてくれた。でも、すべてを切り捨てていいとは言わなかった。あの時、つむぎは手を差し伸べてくれたんだ」
つむぎにとって『なんにもしない』とは嫌なこと、やりたいくないことはせず、好きなこと、やりたいことをするという簡単な心理だった。欲望に忠実に、あるがままをさらけ出す。まるでつむぎの生き方そのものみたいな言葉だった。
「胸に手を当てて考えてみろ。今のつむぎは、本当にやりたいことをやっているのか?」
答えはない。LEDの光はまた輝きを失った。
家に一人で引きこもっていることが、つむぎのやりたいこととは思えない。
彼女は大して遊ぶものもない私の部屋で三カ月にもわたって楽しみ続けていたのだから。どんな所でも楽しいを生み出すのは才能だと思う。その才能を発揮させず、一人家でくすぶっているのは、つむぎらしくない。
私は再びインターフォンを押す。
「チーズケーキ、一緒に食べようって言ったじゃないか」
冷蔵庫に詰まっている大量の化粧箱。仕事から帰ってきて冷蔵庫を開けるたびに胸が苦しかった。
「子供をあやすのも、自分の生徒を心配するのもつむぎの良さだ。お前がやりたいことは、一人で閉じこもることじゃないだろう」
たった三カ月。週一で関わっただけの私が言っても響かないかもしれない。でも、私と同盟活動をしていた時のつむぎが、無理をしていたとは絶対に思えない。
日曜日なんにもしない同盟には、つむぎのやりたいことが詰まっていた。
「今のお前はあの時の私と同じだ。押しつぶされて自暴自棄になって塞ぎ込んでいる。私はつむぎの手を取った。つむぎはどうだ? 私が差し伸べた手を、握ってくれないのか?」
握った拳で玄関の扉を叩く。
「今度は……、私がつむぎを助けたい」
沈黙が返ってくる。ここまで言っても拒絶するという意思表示だろうか。
力のなさを痛感して、握った拳から力が抜けていく。背中を扉に預けると、足にも力が入らなくなって、ずるずると座り込んでしまった。
つむぎは何かと戦っている。
それが何かは私ではわからないけれど、でも、それはあの時のつむぎだって同じだった。
ほぼ初対面みたいな私の事情なんて分からなかっただろうに、声をかけて道を示した。
力になってくれた。赦しを与えてくれた。前へ進む勇気をくれた。
つむぎの言葉が私の力になったように、私の言葉もつむぎの支えになればいい。そう願った。
扉一枚隔てた向こうにつむぎがいるというのに、二人の距離は果てしなく遠い。
頭を抱える。もう言葉が、出てこない。
私が感情の迷路に囚われてしまいそうになったその時、不意に扉を叩く音が聞こえた。
トントン、と。
背中に振動が伝わって、慌てて私は飛び起きた。
音はそれっきりやんでしまったけれど、確かに内側から伝わってきた。
つむぎ、そこにいるのか……。
恐る恐る私も扉を叩いてみる。すると、叩き返す反応があった。
か細く頼りないノックだけれど、確かにつむぎはそこにいた。とんとん、とんとん、と。つむぎは叩き返してくれる。人込みで迷子になってしまった子供のように、弱弱しく、躊躇いがちに。
「つむぎ、つむぎ!」
インターフォンはもう押さない。扉の向こうにつむぎがいるのだ。小細工はいらない。
「力になりたい。つむぎがどんな悩みを抱えていたとしても。私が力になってやる」
私はつむぎに助けられた。
日曜日なんにもしない同盟という絵にかいたユートピアに連れて行ってくれた。
なら、私が提供できるのはこれしかない!
「つむぎ、同盟を結ぼう」
立ち上がって、扉のすぐ向こうにいるつむぎに声をかける。
届け! 私の願い――!
「『土曜日なんでもする同盟』。――お互いにやりたいことを言い合って、話し合って、外に飛び出して、遊び尽くす。文字通り、なんでもする同盟だ!」
なんにもしないなんて隠れ蓑を使ってごまかすんじゃない。
やりたいことをやりたいとはっきり言える関係。
そういう場を、つむぎに作ってやりたい。
「私の作る同盟に、入ってくれないか?」
ガチャリと、鍵の開く音がした。
うっすらと開いていくと扉の隙間から、凝り固まった空気が流れ出てくる。まるで千年の封印を破って、開かずの間の入り口がようやく開くように、扉はゆっくりと、けれど迷いなく開いた。
現れた懐かしい顔を見つけて、こみ上げてきた感情に涙腺が緩む。
「……玲、くん」
「つむぎ!」
目は真っ赤に晴れ、髪はぼさぼさで、肌にも艶がなく、着ている服は着崩れたパジャマのまま。自分のことを五歳児と言っていた二十六歳にはとても見えない。疲弊した表情には、けれどどこか安堵の色が広がっていた。
私は鼻頭を擦って言う。
「悪の秘密結社みたいでワクワクするだろう?」
「……うん!」
つむぎは満面の笑みで返事をした。
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