第17話 なんでもする土曜日 後編
「うわっ。汚部屋……」
「ちょっ! 失礼なこと言わないで!」
つむぎの話を聞くために部屋に入ろうとしたけれど、その惨状を目の当たりにして、見なければよかったと後悔した。廊下から見えるつむぎの部屋は、床に物が散乱したあられもない状態だった。
「ここ一週間、言葉通りの意味で何にもしなかったから……」
「女子の一人暮らしとは思えんな」
「見るなー!」
私の視界を遮ろうと、精一杯伸びをして手を振るつむぎ。身長差があるからそんなものでは隠し切れない。服とか、コンビニの袋とか、ポスティングされた広告とか、なんでもかんでも床に転がっていた。
「お前、赤ちゃん連れて来た時、私の家汚いって言っただろう」
「だからぁっ!」
「さっさと風呂入ってこい。私は家で待ってる」
「あっ! うん。ありがとう」
つむぎの受け答えははっきりしていた。大丈夫。これなら再び塞ぎ込んでしまうことはないだろう。
手を振るつむぎをしり目に扉を閉める。私もつむぎを迎える準備をしなければならない。
正午ちょうど、インターフォンが鳴る。
カメラには、ようやく見栄えがするようになった大人の女性が、おずおずといった調子で所在なさげに立っている。積乱雲のように盛り上がっていた頭髪は鳴りを潜め、うっすらと化粧した訪問者は、いつも私が見ているつむぎそのものだった。
「へへ。来ちゃった」
「失礼ですが、どちら様?」
「あ、あたしだよ! あたし!」
「あいにく宗教は間に合ってますので……」
「え、またあの面倒くさいやり取りするの!?」
「……」
面倒くさいって……。コミュニケーションだろう。
インターフォンの通話を切って廊下を歩いて玄関へ行く。扉を開けるのがなんだかすごく懐かしくて、またつむぎを迎えられることに嬉しくなった。
「ただいま、玲くん」
「……あぁ。おかえり、つむぎ」
「やっぱり、ここは落ち着くね」
いつものソファーに座ると、つむぎは溶けたようにくたっとなった。クッションを抱きかかえたままだらしなく手足を投げ出す姿は、やっぱりバブルスライムを彷彿とさせる。
キッチンでお湯を沸かし、いつものマグカップにコーヒーを淹れる。先週使おうと思ったとっておきのコーヒーカップも視界に入ったけれど、なんとなくいつもの方を選んでしまった。
「ほら、コーヒーと、それから先週食べ損なったチーズケーキだ」
「え!? それ、大丈夫? 賞味期限……」
「つむぎがベイクドを選んでくれたおかげでぎりぎりな」
コーヒーを運んだあと、冷蔵庫から化粧箱を取り出してくる。
私はベッドの縁に腰かけ、つむぎと一緒に手を合わせる。コーヒーの匂いを楽しみ、一口含んで苦さを堪能する。無機質なインターフォンに向かって話し続けて麻痺していた舌が、温かさと苦さに刺激を受けて、溶けだしていくようだった。
「はぁー。安心するー。このコーヒーがあると、帰って来たって感じがするよね」
「たった一週間飲まなかっただけなのに。大げさな奴だな」
「それくらい尊い一杯ってことだよ」
両手でマグカップを握り、手を温めながらチビチビ啜る姿は、確かに私が見たかった光景かもしれない。
つむぎはほっと息を吐きだすと、良しと言ってマグをテーブルに置いた。チーズケーキに手を伸ばすのかと思ったけれど、つむぎはその手を膝の上に置いて私の方に向き直る。
「玲くん、ご迷惑おかけしました。それから、ごめんなさい」
「なんだよ、いきなり」
「今からきっと怒られることを言うから、とりあえず謝っておいた方がいいかと思って」
「怒らないような話し方を心がけてくれ」
「あたし、告白されたの」
「――……」
フォークをチーズケーキに突き刺したまま、すぐに反応ができなかった。体をロウで固められてしまったみたいに、奇妙な体勢のまま動けなくなる。視界にはきれいなオレンジ色に焼かれたチーズケーキが映っていた。
「へ、へぇ。それで?」
「それで、どうしたらいいか、わからなくなっちゃった……」
消え入りそうなつむぎの声。不安を隠しもしないか細い声に、私にかけられていた金縛りがようやく解けた。
ホールのケーキの隅っこにフォークを突き刺し、切り分けることもせずそのまま口に入れた。濃厚なチーズの香りが鼻腔をくすぐる。
まさか、つむぎの塞ぎ込んでいた原因が恋愛関係の悩みだったなんて、思いもしなかった。
「わからなくなったってことは、まだ返事をしていないのか?」
心の中の動揺を隠すように、思いついた言葉を口にしていた。
つむぎは確かにかわいい。しぐさも、距離感も、考え方も、自然体で心地がいい。そんな存在を野に放っておいたら、寄ってくる男がいて当然だ。
つむぎが首を振る。
「ううん。お断りした」
伏せた表情の向こうに、どんな思いが隠されているのかはわからない。けれど、まだ心に引きずっているものがあることは確かだ。
「つむぎはその人のことが、好きだったのか?」
「当たり前じゃん!」
「当たり前……」
当たり前、なのか……。
そんな人がいたなんて、私は全く知らなかった。日曜日に毎日会っていたにもかかわらず、男がいるそぶりなんて微塵も見せていなかった。私が鈍いだけだったのか?
啜ったコーヒーが随分苦く感じた。
「でも、断った、と?」
「うん……。その子のためにならないと思ったの……」
「ためにならない、か……」
きつい振り文句だ。
「でも、それからずっと考えるようになっちゃって。その選択で本当に良かったのか……。もしかしたら彼の今後に大きなトラウマを与えてしまったかもしれないって……。いろいろ考えているうちにドツボにはまっちゃって……」
じっとマグカップの縁を見つめる。
「考えれば考えるほど苦しくて、答えが出せないことに腹が立って、情けなくなって。こんな状態じゃ楽しくおしゃべりもできないって思ったら、玲くんのところに行くのも怖くなって……。約束してたのに時間を過ぎても外へ出れなかった。時間が経ったら、想像以上の罪悪感に責め立てられて、もっと苦しくなった……」
たまには寝坊もいいだろう。そんなことを思っていた一週間前の自分を殴りたい。
「学校にもね、行けなくなっちゃった。行けば顔を合わせるし、どう接していいかもわからなかった。会ったらごめんって謝っちゃいそうだったし。行きたくないって思ったら、なにもできなくなっちゃった」
相手は、職場、学校の先生か……。確かにつむぎは、仕事の話をあまりしなかった。それは私も同じだが。
「一週間も休んじゃった。もう、戻れないよね……」
「だから昨日、校長先生と教頭先生が来ていたんだな」
「うん……。玲くんに見られちゃったね。あたし、女子バスケ部の顧問もやってるんだけど、運動なんてからっきしで、バスケのルールもあいまいなんだよ。それでも若いからって押し付けられて……。あの雨が降っていた日、玲くんに声をかけたのはさ、なんか似たものを感じたからなんだ」
「似たもの?」
「あたしも、あたしに免罪符が欲しかったってこと。日曜日を怠惰に過ごす免罪符。あの時、玲くんの方が先に擦り切れていたけれど、もし少しタイミングがずれていたら、立場は逆だったかもしれないね」
力なく笑うつむぎ。
そんなことは考えたこともなかった。つむぎはいつも天真爛漫で、悩みなんて持ち前のポジティブで吹き飛ばしていけると思っていた。
「先生が一週間も休むなんてよっぽどじゃない? たぶん今頃引きこもり先生とか噂されてるに決まってる。情けなくて戻れないよ」
「今は、どうなんだ?」
このままでは傷を掘り返しただけでまた塞ぎ込んでしまいかねないと悟った私は、はっきりさせることにした。
「今?」
「その人のこと、好きなのか?」
「……。好きだよ。好きじゃなきゃやってられないし……。でも」
「でも?」
「それはきっと恋愛感情じゃない」
好きなのに、恋愛感情じゃない……?
難しいことを言う。一かゼロでないことはわかるけれど、この年になって好きと恋愛が結びつかないということがあるのだろうか? それにやってられないって……?
その時、頭の片隅に光るものを見つけた。
私は、もしかしたら大きな勘違いしているのかもしれない。
「つむぎ、一つ聞きたいんだが?」
「なあに?」
「その人のこと、なんて言って振ったんだ?」
きょとんと首をかしげるつむぎ。質問の意図がつかめないのか不安な表情を浮かべつつも、私の質問にきちんと答えてくれた。
「教師と生徒の間に恋愛は成り立ちません」
「………………はぁあー」
私は深く息を吐きだした。座ったまま天井を仰ぐように後ろに倒れ、ベッドに跳ねた。
「生徒、ね」
「うん。私が担任を務める三年一組のタカヒロくんだよ。男子バスケ部の元エース。……玲くん?」
「そういうことか」
どうにもところどころかみ合っていないと思った。
男っ気のなかったつむぎに好きな人がいて、告白を断ったのに未練たらたらで、私との同盟活動だけじゃなく学校まで休むほど思いつめてしまう。私の知るつむぎとは別のつむぎが存在しているんじゃないかと怪しんでいたが、なるほど、これで筋が通った。
教え子に告白されたのか……。
人一倍お節介で、世話が好きで、自分の受け持つ生徒のことを案じていたつむぎのことだ。葛藤してしまっても不思議はない。
安心した。つむぎには悪いけれど、私の心は真実が明かされて随分と穏やかになった。思わず笑ってしまうほどに。
「ちょっと、真剣なんだよ!」
「わかってる。わかってるって」
「まだ笑ってるぅ」
頬を膨らませるつむぎがかわいくて、また笑ってしまう。
そうだな。つむぎはそういう顔をしていた方がいい。深刻な表情のつむぎなんて、見たくない。
「タカヒロくんはかっこいいのか?」
「かっこいいよー。イケメンだし、優しいし。ほら、名前からしてチューチュートレインしちゃいそうじゃん?」
なんだその判断基準は……。
「あたしが重い書類持ってると手伝ってくれるし、すれ違ったらさわやかに挨拶してくれるよ」
それはきっと、つむぎのことが好きだからしている行動だろうな。
「女の子たちにも人気でね。女子バスケ部の三年生にも、二年生にも狙っている子がいるって噂だよ。将来の有望株。玲くんも惚れちゃうかもしれないよ?」
「私が惚れるか」
にやにやとからかうつむぎに、私も大きな声を出してしまった。
「だからこそ、歳が十も離れたあたしなんかじゃなくてさ。中学生には中学生にしかできない恋愛があるじゃん。そういうのを経験してほしいなぁと、先生は思うわけだよ」
「そうだな。つむぎは五歳児だからな。その年でロリコンと呼ばれるのは耐えがたい苦痛だろう」
「違う! 上だから! 上に十離れてるの!」
それは冗談だとしても。プイっとそっぽを向くつむぎを見て思う。普段のつむぎが戻ってきた。やっぱりつむぎはこうでなくては。
「でもま、そういうことなら、解決は簡単だと思うぞ?」
「えっ!? あ、あたし、まだ学校行くの、怖いよ……。もう、玲くんの家で玲くんに養ってもらいたいとさえ思っているもん!」
「居候はいらん」
「いやーん」
縋りつくつむぎを足蹴にすると、あんまりかわいくない変わった悲鳴を上げた。
こぼさないようにコーヒーを飲んで一度落ち着きを取り戻して考え直してみれば、問題ははっきりしている。
つむぎが責任を感じてしまっているのは、ひとえにその断り方にある。真剣に男女の付き合いを申し込んできた生徒に対して、女性としてではなく、先生として接してしまった。たぶん、その違和感をつむぎの中で消化できていないのだろう。
「つむぎ、そのタカヒロくんの連絡先、知ってるか?」
「う、うん。連絡網回すために交換したけど……」
今の時代、連絡網もLINEなのか……。
「じゃあ、呼び出そう。呼び出してもう一度振るんだ」
「え? えぇっ!? 玲くん、鬼なの!?」
「鬼でも何でもいい。ただ、つむぎも覚悟して臨むんだ」
「覚悟?」
「今度は先生としてじゃなくて、一人の女として好きという気持ちに向き合って、そして振る」
「女として……」
そうしなければ、つむぎはずっと先へ進めない。もしかしたら、その男の子だって同じように傷を抱えたままかもしれない。自分が告白した後から、その相手が学校を休んでしまったのだから、責任を感じるだろう。
「解放してやれ。自分の気持ちも、相手の気持ちも」
「で、でも……」
また会うのは、怖い……。そう小さく呟くつむぎは、自分の生徒と同じ中学生の乙女のようだった。
「私たちは同盟関係だ。今日は土曜日。『土曜日なんでもする同盟』の日だ。やれることは何でもしよう!」
「そういう風に同盟を使うのはよくないと思う!」
「今まで好き勝手に解釈していたつむぎが何を言う」
「むぅ……」
少し苦し紛れの屁理屈だったけれど、つむぎの中にも後ろめたい気持ちがあったのか、それ以上反対の言葉は出てこなかった。
「じゃ、じゃあ! 一週間休んでいたのはどう説明すればいい!?」
乗り掛かるように私の襟元を掴む。
「タカヒロくんの告白に決着をつけられたとしても、あたしが一週間学校サボった事実は消えないよ」
「インフルエンザだったって言っとけ!」
「えぇっ!」
うっとうしく詰め寄るつむぎを、強引に引きはがした。
「でもでも! インフルエンザの証明書なんてもらえないし……」
「証明書が必要なのは公休をを取るためだけだろうが。公務員だって有給あるんだろう?」
「ある……。ほとんど使いきれないやつ」
「生徒にはインフルエンザって言っとけ。職員室の目は痛いかもしれないが、生徒にさえ気づかれなければ、それでやってけるだろう」
あの校長のことだ。生徒にも教員にもばれないようにしてくれているだろう。あの人は、つむぎが帰ってくることを信じていた。悪いようにはならないはずだ。
「いいか。お前はインフルエンザで一週間休まなければならなかった。復唱」
「……あたしは、インフルエンザで一週間休まなければならなかった」
「よし!」
肩をポンと叩くけれど、まだ不安な表情を浮かべている。
「ねぇ、玲くん……」
長いまつげを揺らし、上目遣いに見つめられた。
その表情はずるい。
「お願いがあるんだけど」
「なんだ?」
「あのね……。ここまで助けてくれて、お願いするのは虫のいい話なんだけど……」
「私についてきてほしいってお願いなら聞かないぞ」
「まだ言ってないし! それに、先回りしないでよ!」
つむぎが言いそうなことだ。表情だけでわかってしまう。
「ややこしいことになるのはごめんだ。告白を二回も断られるだけじゃなく、その横に私がいてみろ。どうなると思う?」
「恋人を見せびらかせに来たと思うのかな?」
「……。そういう風に見えればまだいいけどな」
「ん? どういう意味?」
つむぎは私の言葉の意味を理解できないでいるようだった。
おそらく、そう捉えられるのはずっと一緒にいたつむぎだからこそだ。普通、私たちは恋人関係には見えない……。
「とにかく」
この話題を避けるために、私は語調を強めた。
「私のことを恋人だと紹介して諦めてもらおうと思っていたのかもしれないが、それはダメだ。それはタカヒロくんに希望を与えてしまうことになる」
「どうして?」
「私さえいなければ、自分を選んでくれていたかもしれない、という可能性が残る」
年の差なんて関係なく告白してきた男の子だ。それなりに自信があったんだろう。だから、隣に立つ私と自分を比べてしまう。比べた結果、自分フィルターがかかった自分は、比較対象と比べて劣っていないという結論が出てしまう。
「未練を残さないように振ってやるんだ」
「できるかな……」
「隣には立てないが、近くまで行って見守っていてやるから」
「それはそれで恥ずかしいんだけどぉっ!」
確かにな。私が逆の立場だったら、絶対に見られたくはない。特につむぎには。
赤くなった顔をベランダの方へ向けて、すねたような横顔を見せる。そっと手が伸びてきたかと思うと、私の服の袖を、ちんまりと掴んだ。
「でも……、それでもいいから……、近くに来ていて」
小さな手は小刻みに震えていた。ぐっと唇を噛むそのしぐさが、たまらなく尊い生き物のように見えた。
「あぁ」
私は力強く手を握り返してやる。
暖かくて、柔らかい、小さな女の子の手だった。
タカヒロくんとは連絡が付き、明日日曜日、駅前で会えることになった。
同盟が始まって以来初めて、私たちは日曜日に外へ出る。
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