閑話 なんにもしたくなかった日

 雨が降っていた。

 夏の終わりを告げる長雨はやむことを知らない。私の髪を濡らし、服を濡らし、心を濡らしていく。駐車場のアスファルトを打つ雨音に紛れて、私の嗚咽は誰のもとにも届かない。汚れたワイシャツが肌に張り付いてとても気持ち悪かった。


 どうせならこの汚れ切った心も洗い流してくれればいいのに……。


 負のスパイラルに陥った感情はゴールのない迷路のように、深く重く心を塗りつぶしていく。

 見上げた空は薄暗く、今にも落ちてきて潰されてしまいそうだった。


 このまま死んでしまえばいい。


 ふと浮かんできた提案が、案外悪くないなと思える自分がいて、自嘲するように頬が緩む。重くのしかかった責任を放り投げる手段が他に思い至らなくて、それに縋りたくなってしまった。

 私は弱い人間だ。

 何かを変えることを恐れ、踏み出すことを恐れ、頼ることを恐れる。一人で空回りして、気が付いた時にはもう、首が回らなくなっている。歩んだ先に待っているものが絶望だと、とっくの昔に気付いていたにもかかわらず……。

 雨音が遠ざかっていく。

 景色から色彩が消失し、私は一人ぼっちになった。

 足を止めてしまった今、もう取り返しがつかない。私は、信用を失う。


「どうしたら、よかったんだよ……」


 取り返せない過去に向かって吐き捨てる。

 器用にごまかすことも、嘘を吐いて躱すこともできなかった。私は真っ正直に頑張って。頑張って、頑張って、そして、潰れた。


「もう、なんにもしたくない……」


 仕事も、人間関係も、趣味も、もうどうだっていい。

 消えてなくなってしまいたい。

 ミジンコみたいに小さくなって、誰にも知られず生涯を終えたい。

 何もかもが嫌でたまらない。


 もういっそ……。


 鮮やかなパステルカラーの傘が視界を遮ったのは、その時だった。

 頬を打つ雨粒の感触が消え、代わりにパツンパツンとビニールに跳ねる自然の大合唱が聞こえてきた。薄っすら目を開けると、私の顔を覗き込む女の顔がある。


「雨、降ってるよ?」


 どこかピントのずれた質問を、真顔で聞いてくる女。整った眉の横を、垂れた水滴がつるりと伝った。

 その顔には見覚えがあった。絶望に支配されていたはずなのに、一度しか会ったことがないその女の顔は脳裏に深く焼き付いていた。


「うどん女……」


 言葉が出た。

 自嘲でも絶望でもない、この場にまったく似つかわしくない言葉に、私はきっと救われた。




 うどん女と初めて会ったのは、このアパートに引っ越してきて三か月ほど経ったころ、今年の初夏のことだった。

 長い梅雨が明け、本格的な夏が始まる直前。彼女は隣に引っ越してきた。

 今の時代、隣にどんな人が住んでいるかなんて知る機会は少ないだろう。ましてや女性の一人暮らしなら、セキュリティや安全を考えれば、引っ越しの挨拶なんてしないほうがいい。

 けれど彼女は、そんな常識に囚われない。引っ越しのトラックが出ていくや否や、何のてらいもなく私の部屋のインターフォンを押した。


「隣に引っ越してきた者です。以後お見知りおきを! これ、うどん!」


 嵐のように訪れて、嵐のように去っていく。つむぎは言いたいことを一方的に伝え、戸惑う私の手に持ってきたうどんの箱を押し付け、出て行こうとする。

 かろうじて呼び止めて、どうしてうどんなのかを問えば、


「あたし、そばよりうどん派だから!」


 と、明瞭な答えを開示してくれた。

 挨拶に来ておいて名前を名乗らなかった彼女を、私は「うどん女」と名付けたのだった。




「うどん女、ってなあに?」


 私の言葉を反芻するように首を傾ける。つられて傘が傾いて、彼女の肩が雨に濡れた。慌てて傘の位置を戻せば、今度は私の背中に雨粒が滴ってきた。


「相合傘するには小さいからさ、とりあえず玄関まで行って雨宿りしようよ。えっと、お隣さん、だよね?」

「……」

「あれっ? 違ったっ!?」

「……いや、そうだけど」

「あぁ、よかった。あたし、滅茶苦茶恥ずかしい人になるところだったよ」


 ほら、と言って、私の背中を傘の柄の部分でつつく。

 私が彼女をうどん女と認識していたのは、初顔合わせの時のインパクトと、うどん女という珍妙なネーミングによるものだけれど、一日で十人以上の初対面の人と挨拶を交わしたであろう彼女が、私のことを認識していることに、少し驚いた。


「放っておいてくれ」


 降り注ぐ雨のように冷たく言い放つ。


「なんにもしたくないんだ」


 雨の中から連れ出そうとする彼女に背を向ける。

 おかしな人と思われたかもしれない。でもそれでもいい。もう、他人にどう思われようがどうでもいいのだ。

 今日会社に行けなかった時点で、私の未来は閉ざされたといってもいい。


「そうなんだ」


 淡白な彼女の声は、気分を害されたようには聞こえなかった。まるで天気の話でもするかのように続ける。


「じゃあ、あたしと一緒じゃん」

「……一緒?」


 振り向くと、そこで初めて彼女の全身が視界に収まった。

 スウェットの上にパーカを羽織った簡単な恰好。ブーツ型の長靴だけが、かろうじておしゃれと呼べる代物で、それ以外は真夜中にコンビニに行くような恰好だった。


「あたしも、なんにもしないを実行中」


 水たまりを避けるためにぴょんと跳ね、自分だけ軒下に退避すると、くるりとこちらに向き直った。


「でも、雨に打たれたくはないかな」


 ニッと笑う。


「今日は日曜日だから。あたしは社会人に赦された貴重な休日を、無為に過ごすことに決めてるの。できるだけ怠惰に、誰にも邪魔されずに、ね」

「日曜日をそんな風に使えるなんて幸せだな」


 精一杯の皮肉を込めて無表情で伝える。


「行きたくもないのに会社に行かなきゃいけない人間もいるってのに」

「だから、そこに立ち尽くしていたの?」


 核心を突かれて言葉に窮した。

 うどん女は玄関前の段差に腰かけ、膝の上に頬杖をつく。


「……責任が重いんだ。私が安請け合いした仕事のせいで、月曜日に、明日になってみんなが出社したら、多くの人に迷惑がかかる。やらなくちゃいけないことが、山のようにある……」

「でも、やりたくないんでしょ?」

「やりたくないからやらないがまかり通ったら、苦労はしない」

「そんなことはないと思うけど?」


 一般論だとでもいうように、頬杖を突く彼女は言う。さも当然だと言わんばかりの表情にむかっ腹が立った。

 私がどれだけのやりたいことを諦めて仕事をしているのか、きっとわからないのだろう。会社は一人で成り立っているわけではない。チームなんだ。誰か一人が手を抜いたら、そこから崩れて行ってしまう。自分がやると決めたことは、最後までやり遂げる。当たり前のことじゃないか。

 当たり散らしてやりたかった。

 彼女には何の関係もないけれど、私が抱えた理不尽のはけ口に、彼女に暴言を吐いてしまおうと思った。

 けれど、口を開いて出てきた言葉は全く正反対の言葉だった。


「……どうしたら、いいんだろう?」

「なんにもしなければいいんだよ」

「それができたら苦労はない」

「じゃあ、なんにしもないをすればいいんだよ」

「なんにもしないをする?」


 重箱の隅をつつくような発言に、思わず聞き返してした。


「やりたくない予定を無理矢理入れられるくらいなら、はじめからなにもしないことを予定にしておけばいいってこと」

「そんなことしていいのか?」

「いいも悪いもないよ。お休みの日なんでしょ? 自分で好きなことをすればじゃん」

「いや、だけど……」


 そんな子供みたいな真似、自立した大人ができるわけがない。


「じゃあ、提案。あたしが手伝ってあげる」

「手伝う?」

「来週の日曜日、あたしが訪ねてあげる。ほら、初めから予定が入っているなら、やりたくないことを断れるんじゃないかな?」


 口実があるということは、精神的に自分を優位にしてくれる。

 彼女がそんな論理的な理由で提案してきたのかは定かではないけれど、私の心が動かされたのは確かだった。


「だが、赤の他人のために仕事を放り投げるのは……。そんな無責任なこと、私には……」

「赤の他人でもないでしょうに。それにほら、もう友達だし」

「友達になった覚えもないけれど」

「もー。恋人ならいいの?」

「うーん」


 後ろめたさがぬぐえない。社会人として当然持つべき義務を、放棄する。私にとってそれは法律を犯すのと同じくらい、怖いことだった。


「なら、同盟だ!」

「同盟!?」


 耳が単語に反応する。


「友達でも家族でも恋人でもない同盟関係。盟約を結びそれを反故にしたら厳罰が与えられるような関係ならどう?」

「なんにもしないをするのに、破ったら罰せられるのか? おかしな話だな」

「変で結構!」


 高らかに宣言する彼女を見て、思わず頬が緩んだ。


「ふふふ。日曜日なんにもしない同盟。悪の秘密結社みたいでワクワクするね」

「そのユーモアだけは、賛同してやる」


 差し伸べられた手に、私は自然と手を伸ばしていた。




 あの日から、私は自分というものに対する考え方が少しだけ変わった。

 次の月曜日は上司や先輩に絶句され、何度もため息を吐かれたけれど、どうにか持ちこたえることができた。

 日曜日に何にもしない予定がある。それだけが救いだとでもいうように、一週間頑張ることができるようになった。

 私たちは友達でも恋人でも家族でもなくて、ただ日曜日を怠惰に過ごすだけの関係。それが心地よくないと言ったら嘘になる。

 この適度な距離感が、ずっと続けばいい。


 そう、思っていたのは私だけだったんだろうか……。

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