第15話 葛藤する金曜日

 会議のために一時間早く家を出る。

 出がけに102号室の扉を見ると、昨日掛けておいたコンビニのビニール袋がなくなっていた。

 つむぎはちゃんと受け取ってくれた。

 少なくとも拒絶されていないことが知れて、今日も一日頑張ろうと思えた。




 怒涛の質問攻めを受けた大品質会議が終了する。

 用意していた回答は打ち尽くし残弾ゼロ。いくつかの追加調査を命じられたものの、ようやく呪縛から解放されたその事実が、私から緊張感を奪い去ってくれる。

 おデブ先輩もひょろり先輩もどこか安堵した表情で言葉が軽い。

 一か月後のこの時期までは、ひとまず延命できたような心地だ。


「おい、片瀬。お前、午後休んでいいぞ」


 会議室で使用したプロジェクターを片付けていると、ひょろり先輩がおもむろに声を掛けてきた。使っていた資料の束を丸め、肩を叩くやる気のない姿は、さっきまで鬼のような形相で舌戦を繰り広げていた人物と同じ生き物とは思えない。


「え? どういう意味ですか?」

「言葉通りの意味だ」


 ひょろり先輩は時折言葉が足りない。結論だけを言いつけられても、意図が読めずに戸惑ってしまう。


「でも、この間の報告書……」

「あれはよくできていた。リテイクはもういらん。他の調査も煮詰まってるのはないし。休み時だ。休んどけ」

「でも、それなら三森さんの方が……」

「俺はいいんだ。残業して稼がないといけないからな」


 家庭があると辛いぜ、と愚痴とも自慢ともつかないことをぼやきながら、使っていたノートパソコンをパタンと閉じる。議事録だけは作ってから帰れよと手を上げて言うと、そのまま私を置いて会議室から出て行ってしまった。

 どういう風の吹き回しだろう。


「三森クンね、随分と君のことを心配していたよ」

「室長!?」


 片付けの手が止まっていたところに、落ち着いた低い声が聞こえてきた。

 室長も室長で、顔に似合わず、お偉方の執拗な攻めに一歩も引かずに戦い切った。今は凱旋パレードをするラグビー選手のようにとても清々しい表情をしていた。


「最近帰り遅いし、仕事中手が止まってることが多いって。気付かれていたんだろうね」

「それは……。すみません」

「ここは甘えておきなさい。仕事がすべてではないですからね」

「はい」


 少し前の私だったら、意固地になっていたかもしれない。私情で誰かに迷惑をかけるのは間違っている、と。

 でも、今は違う。私は甘えていいことを知っている。

 室長の提案に素直に返事を返し、会議室を後にした。

 遠くへ去っていくひょろり先輩の背中が、今日はなんだか大きく見えた。




 まだ日が高いうちに家に帰るのは新鮮だ。

 電車を降りてから家までの帰り道、端々から子供たちの元気な声が聞こえて来る。公園でドッチボールをする子供たちを横目に、今日の午後の予定に思いを馳せていると、アパートにはすぐに到着した。

 駐車場から入って正面に見える103号室が私の部屋。そして一つ左、壁を挟んでお隣さんがつむぎの部屋だ。

 今日も無言を貫いている開かずの扉に思いを馳せていると、私の目の前でかすかに扉が開いた。


「つむ……。ん?」


 思わず駆け出そうとして、足が止まる。

 開いた扉から出てきたのは、頭が白くなった品のいいお爺さんと、髪を巻いて背筋を伸ばした性格キツそうなおばさんだった。

 つむぎの両親……、というわけじゃなさそうだ。歳が随分離れているように見えるし、二人の間に和やかさはない。身なりに随分気合が入っていて、行動の端々からはビジネスなオーラが滲み出ている。

 そうこうしているうちに102号室の扉は閉まってしまった。そこからつむぎが顔を出して、二人を見送る気配はない。ちらりとつむぎの顔だけでも確認出来たら安心できたのに……。


「あの、何か?」


 つむぎのことで頭がいっぱいで気付かなかったが、どうやら私は、部屋から出てきた二人組を凝視していたようだ。眉を吊り上げたキツいおばさんが大股でこちらに近づいて来る。


「私たちに何か用でも?」

「い、いえ。何でも……」

「そうですか」


 嘗め回すような視線に、身が縮こまる。私は蛇に睨まれた蛙のように口ごもるしかない。眼鏡の奥の三白眼に宿るのは敵意以外の何物でもなく、私を獲物だと勘違いしている節がある。

 負けじと引かずに睨み返していると、抑揚のない柔らかな声が私たちの間に割って入った。


「ほら、教頭先生。そんなに見つめては失礼ですよ。今日は一旦帰りましょう」


 こういうトラブルに慣れているのか、品のいいお爺さんは声を荒げることなくその場を制す。


「そうですね。職員会議に間に合わなくなってしまいます」


 引きつったロバのような顔が離れていく。まるで何事もなかったかのように踵を返し、二人は路駐していた黒いプリウスに向かっていった。

 教頭……、職員会議……。

 二人の会話で出てきた単語が頭に引っかかり、唐突に正体にたどり着く。

 この人たちはつむぎの学校の先生か……!

 食ってかかってきたキツいおばさんが教頭。だとすると会話を終わらせてくれた品のいいお爺さんは、校長先生なのだろう。

 学校というものを卒業して久しいが、記憶の中の校長先生と教頭先生は、確かにこんな力関係だった気もする。

 だが、事実が分かっても納得はできない。こんな時間に一教師であるつむぎの部屋を訪れているのは一体どういうことなのか。

 嫌な予感がよぎる。


「あ、あの……」


 勇気を振り絞って声をかけてみる。

 振り向いた教頭先生の眉は、さっきの三割増しで鋭角だった。

 ぎゅっとこぶしを握り込む。


「つむ……、立石さんに、御用だったんでしょうか?」

「失礼ですが、どちら様ですか?」

「と、隣に住んでいる者です……」

「そうですか」


 冷たく言い放って、距離を取る教頭先生。


「立石さんには会えました。用件は済みましたので帰るところです。お騒がせしましたね」


 明らかな拒絶を表す物言い。暗に関わるなと警告しているようでもあった。


「まぁまぁ。教頭先生。そう角を立てなくても……。こんにちは。私は立石さんの学校で校長を務めている飯島いいじまというものです。あなたは?」

「立石さんの隣に住んでいます。片瀬玲と言います」

「片瀬さんですね」


 物腰の柔らかな校長、飯島さんに教頭先生がまたキイキイと文句を言うが、やんわりとそのすべてを受け流した。

 これが年の功か。いや、感心している場合ではない。


「つむぎは、その、学校にも、行ってないんですか……?」

「ふむ。そういう話は、私の口からは言えないんですよ。これでも管理職なものですから」

「そうですか……」


 そうはいっても、言外に漏れてくる情報もある。二人の表情が私の疑問をはっきりと肯定していた。つむぎに何かあったことは明白だった。


「いいんですよ、校長先生。部活にも来ない先生です。責任感が足りていなかったんですよ」

「そうはいってもね、部活動を職務とするかどうかは難しい問題です。今はそういうご時世ですから。それに土曜は頑張っていらしたじゃないですか」

「試合は日曜日にもあるんです。練習試合をやりたいという生徒たちの要望も上がっていますし、外部のコーチに任せっきりというのはやはり問題だったんです」

「まぁまぁ」


 飯島さんは、私の方に向き直って、これは内緒ですよと片目をつぶった。

 けれど、そんなおちゃめな笑顔も、私には見えていなかった。

 気になる言葉が、今の会話にあった。


 ――日曜日にも試合はあるんです。


 焦燥が走る。私の唇はわなわなと震えて、止められなくなっていた。


「日曜日も、部活が、あるんですか……?」

「それはそうです。わが校の女子バスケ部は県大会で優勝する実力があるんですから」

「……」


 視線が足元に落ちた。

 つむぎに声をかけられてこの同盟がスタートしたのも三カ月前のことだ。その間、つむぎは毎週欠かさず私の部屋に来ていた。三カ月もの間、たまたま日曜日に一度も部活がなかった、なんて都合のいい展開、あり得ないよな……。

 つまり、あいつはずっと部活の顧問をサボって、私の家に来ていたってことになる。

 そんなこと、一度も言ってくれたことはなかったのに……。


「……」

「どうか、なさいましたか?」

「いえ……」


 言葉が出てこなかった。

 私はつむぎのことを知らなすぎる。いや、無関心すぎた。

 絶望のどん底から救ってくれた恩人だったのに、ついこの前まで苗字も連絡先も知らなかった。つむぎがどんなことを考え、どんな思いで私の部屋を訪れていたかなんて、考えもしなかった。

 その事実が私の胃の腑を重くする。


「あの、ありがとうございました。これで、失礼します」


 目も合わせずに頭を下げて、部屋へと向かう。罪悪感に似たどす黒い感情に支配されて、今にも叫び出しそうだった。


「片瀬さん」


 そんな私の背中に、校長先生のはっきりした声が掛けられた。


「私たちにとって生徒だけが守るべき同胞ではありませんよ」

「……?」

「一緒に生徒を導く先生もまた、私たちの同胞です」

「……ありがとう、ございます」


 よくできた先生だ。上司にいたら、さぞ働きやすい職場になっただろう。

 そんな先生がつむぎの上司でよかったと、本気で思った。

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