第8話 おままごとをしよう

 ままごととは、いわゆるごっこ遊びの一種であり、身の回りの人間によって営まれる『家庭』を模した遊びである。ままごとの『まま』は母親を指す『ママ』ではなく、ご飯を意味する『まんま』から来ており、漢字で書くと『飯事』となるらしい。

 であるからして、おままごとが幼児、それも女児の遊びである道理はなく、むしろ家庭の何たるかを経験した大人こそが、その心髄を楽しめる高尚な遊びなのだ、というのが、齢二十六歳、淑女つむぎの弁であった……。


「玲くん! 今日はおままごとをしようよ!」


 部屋に入ってくるなりキラキラした目を向けてそう宣言するつむぎ。

 時刻は午前九時。相も変わらず日曜日なんにもしない同盟の活動時間である。

 鼻息を荒くして捲し立てるつむぎの肩に手を置いて、私は大きく首を振った。


「その、疲れてるんだな……。すまん、労わってやれなくて……」

「そんな悲しそうな目を向けないでよ! あたしは本気なの!」

「可哀想に……」

「憐れまないでってばぁ!」


 必死に縋りつくつむぎを引きはがして、私は淹れたばかりのコーヒーを優雅に啜る。

 迫りくる喧騒から目を背けて窓の外を見れば、今日も雲一つない透き通るような青空が広がっている。絶好の何にもしない日和だなぁ。

 黄昏る私の肩を、つむぎが強引に揺する。


「いい? ただのおままごとじゃないの。あたしたちがやるのは、公園でレジャーシートをひいて繰り広げられるそんじょそこらのおままごととはわけが違うの。題して……」

「題して?」

「大人のおままごと!」

「大人のおままごと!?」


 なんだろう。なんだかいかがわしい響きだ……。

 まぁ、大抵のものに『大人の』をつけると、いかがわしくなるのだが……。

 つむぎは拳を握って力説する。


「知識の乏しい子供でさえ時代を問わず夢中になれる遊びなんだよ。大人になってからやったら、きっととんでもないことになると思うんだよ! うん!」

「……」


 大人になったら自分の家庭があるわけだし、そこに至るまでは恋愛という括りでおままごとをしている。おままごとの楽しさを忘れたわけではなく、ごっこ遊びが次第に現実に変わっていくだけなのだろう。そう考えると、人間の社会性というのは幼児の頃から何も進歩しないのかもしれない。


「どうかな?」

「ま、他にやりたいことないし、付き合ってやるよ」

「やったー!」


 無垢に喜ぶつむぎは、まだまだ子供の域を出ていない。本人はきっと気付いていないが、それがつむぎの持ち味だ。




 配役はつむぎが用意した。

 私が旦那で、つむぎが妻。

 二人は新婚で、ハネムーンから帰ってきたばかりという設定だった。


「おかえりなさい、あなた♪」

「お、おう。今帰ったぞ」


 リビングのドアを開けると、エプロン姿でお玉を持ったつむぎが出迎えてくれた。いつもの慈愛に満ちた笑顔が、私の顔を見てさらに輝く。小走りに近づいて来る姿が、いつにも増して愛らしい。私の目尻も緩むというものだ。

 私のただいまにおかえりと返してくれる人がいる。随分長いこと忘れていた感覚が蘇り、首筋がむず痒くなった。


「今日は早いのね。ご飯もう少しかかるわ」

「プロジェクトが片付いたからな」

「じゃあしばらくは早く帰れるのね?」

「そうだな」

「うふふ。嬉しいわ」


 スキップでもしそうなほど軽やかに、キッチンへと戻って行くつむぎをしばらく目で追った。空の鍋の中にお玉を入れて、くるくるかき混ぜ、時折楽しそうに味見をする姿に、心惹かれない男性はいないだろう。

 私はネクタイを緩めソファーにどかりと腰かけた。キッチンからはつむぎの鼻歌が聞こえて来る。テレビをつけて手持無沙汰にチャンネルを変えていると、つむぎがお皿を持ってリビングに顔を出した。


「今日はカレーですよ」

「いいな。なんとなくカレーが食べたい気分だったんだ」


 出されたお皿には一口チョコレートがこんもりと盛られていた。

 おままごとと言えば、砂利をご飯に見立てたり、ドングリをおかずに見立てたり、毛糸をうどんに見立てたり、とにかく身近なものを食材に代用した。あの頃は実物なんて使えないから、見立てるしかなかったんだが、そういう想像が今から思えば楽しかったのかもしれない。


「いいことでもあったの? 頬が緩んでるわ」

「いや、昔を思い出してただけさ」

「変な玲くん」


 つむぎは自分の分の皿も運んできて、私の隣に座った。


「じゃ、いただきます」

「ふふ、召し上がれ」


 隣りでつむぎが見つめて来る。スプーンを持つ手を見つめられると、なんとなく居心地の悪さを感じてしまう。

 チョコレートを掬って口の中に入れた。むせかえる様な甘さが鼻から突き抜ける。


「どう、かな?」

「うん。美味しいよ」


 定型的な決まり文句を返し、もう一口口に入れる。

 うん、甘い。


「そう……」


 けれど、私の感想を聞いて、つむぎは表情に影を落とした。


「やっぱり、玲くんはそう言うのね?」

「え?」


 雲行きが怪しい。つむぎの纏う空気が、さっき鼻歌を歌っていたときとはまるで違う。

 ただならぬものを感じて、思わずスプーンを手放した。


「優しいなぁ、玲くんは。あたしには、もったいないくらいに」

「ど、どうしたんだ、つむぎ?」

「……そのカレーね。カレールーと間違えて、チョコレートを入れてしまったのよ」


 えぇ……。

 いや、確かに甘いし、チョコレートが入っているが……。それ言ったら駄目じゃない?


「ちょっと、試させてもらったの。玲くん、優しすぎるから、不安になって。もしかしたらあたしに遠慮して自分の意見を殺してるんじゃないかって……」

「つ、つむぎ……? 何言ってるんだ……?」

「やっぱり、あたしには明かしてくれないんだね。玲くんの本心」


 エプロンの裾を掴んで目元を拭い、私から距離を取る。


「ちょっと待て、つむぎ!」

「待てないわ。あたし、もう、玲くんを信じられないの」


 どうしろって言うんだ……。これは新婚疑似体験のべたべたに甘いおままごとじゃなかったのか……?


「お、落ち着け。って、何持ってるんだ、それ」

「包丁よ。すれ違ってしまった思いは、こうするしか、ないと思うの!」

「ま、待てって! 話せばわかるっ!」


 あれ!? 私が思っていたおままごとと全然違うっ!

 ソファーから転げ落ち後ずさる私に、つむぎが乗り掛かって来る。目が本気だ。


「来世で会いましょう。玲くん」

「――カーーーット!」


 包丁が振り下ろされる寸前、私は声の限りで叫んでいた。つむぎの手がぴたりと止まる。

 馬乗りになったつむぎから解放されるのを待って、私は胸の中に溜まっていた息を全て吐き出した。心臓がまだバクバクと跳ねている。


「もー。いい所だったのにぃ。何が不満だったの?」

「不満しかないわ! なんだよ今のストーリー……」

「ん? 思いが強すぎる新妻が、思いつめて凶行に走る現代ドラマ」

「聞いてないっ!」


 少女漫画から一転、火曜サスペンス劇場に早変わりだ。


「大人のおままごとなんだからこれぐらいあるよ」

「日常茶飯事みたいに言うな。怖いわ!」


 つむぎをめとる男は大変そうだ。

 つむぎは玩具の包丁の先をツンツンして、刃を引っ込ませて遊びながら眉を歪めた。


「そんなに不満なら、次は逆にしてみる?」

「逆?」




 テイク2。つむぎが旦那で、私が妻。


「お、お帰りなさい、あ、あな、あなた……」


 つむぎのエプロンを付けさせられてキッチンに立つ。羞恥プレイ以外の何ものでもない。

 真っ赤になった顔を見せまいと俯きながら、何とか声を絞り出す。

 っていうかおかしいだろ! なんでこの配役なんだ!


「うーい。今帰ったぞー。うぃっく」


 頭にネクタイを巻いたつむぎがリビングのドアから姿を現した。足元がおぼつかず千鳥足、ふらりと揺れた拍子にドアのへりに縋りついた。

 また、変なキャラで来たな……。


「……。ご飯、もう少しで出来るから」

「あんだぁ? 旦那様が帰ったのに、飯ができてないだと!?」


 絵に描いたような酔っ払い。つむぎの配役はろくでなしのクズ亭主らしい。


「……。今日は帰りが遅くて、ご飯がまだ炊けてなくて……」

「んだとぉ。大方どこぞで男でも引っ掛かってたんじゃあないのかぁ? あぁん?」

「い、いや、そんなことは……」


 顔を歪めて迫りくるつむぎに、私は顔を引きつらせて一歩引いた。

 これがつむぎの中の亭主という人間のイメージなのだろうか。随分偏ったイメージをお持ちだ。


「ほ、ほら。ビールなら冷蔵庫に買ってあるから。先に晩酌を始めていて……」

「けっ」


 私が出した空き缶をぶんどると、肩を丸めてリビングのソファーへと歩いて行った。ほっと胸をなでおろす反面、形容しがたいやるせなさが心の隅にわだかまる。

 しばらく料理をしていると、丸まったつむぎの背中が小刻みに揺れ始めた。空き缶をあおりながら、嗚咽のようなものが聞こえて来る。

 構ってオーラ全開である……。

 仕方なしにお皿にチョコレートを盛って、リビングに近づいた。


「ほら、ご飯ができたよ」

「うぅ……。ぐそぉ……。うぉおん」

「ど、どうしたの?」


 隣に座ると、嗚咽の声がさらに大きくなった。ただ事ではない雰囲気に、私はいつでも逃げられるように少し身を引いた。


「ほら、泣かないで」

「ぢくしょう。俺が、俺が悪いんだぁ」


 つむぎは自分の膝に握った拳を振り下ろす。


「俺に、もっと魅力があれば。玲を、悲しませることなんてないのに……。くそぉ……。間男なんかに……。ぢくしょう……」

「わ、私、悲しんでなんてないし、男と会ってたなんてあるわけない。誤解だよ」

「いいや、お前は悪くねぇ。俺が、俺が全部悪いんだぁ!」

「……」


 要するに、つむぎがいない間に私が他の男と会っていたと勝手に勘違いして、それが自分のせいだと思い込み、自己嫌悪に陥っている、と? なんて面倒くさいんだ!

 なおも泣き続けるつむぎの肩を叩いて、私はお皿に入ったチョコレートを勧めた。


「ほら、料理が冷めちゃう」

「優しくしてんじゃねぇ! 同情なんていらねぇんだよ!」

「つむぎ……」

「……俺が、出て行く」

「え? ちょっと待てって!」

「止めるな!」


 私の制止を振り切り、大きな足音を立てて部屋を出て行く哀れな亭主。

 もはや見ていられなくなって今にも消えてしまいそうな小さな背中に向かって叫んだ。


「カーーーット!」


 途端につむぎの雰囲気が元に戻る。


「また途中で止めるぅ。いい所だったじゃん」

「なにもよくないだろ! あれ、あのままいったら亭主自殺するんじゃないの?」

「ううん。奥さんと一緒に心中するの」

「もっと後味悪いわ! バッドエンドにしか向かわないのか!」


 大人のおままごとってこういうことなの?

 子供には見えなかった仄暗い関係を表現するの? ストレスたまるだけで全然楽しくないんだけど。


「何がいけないんだろうね?」

「つむぎのキャラ設定がおかしいんだって。もっと理想を追求しろよ」

「夫婦という配役がいけなかったのかもしれない!」

「……聞いてないし」




 テイク3。私が旦那で、つむぎが家政婦。

 ただいま、とリビングのドアを開けようとすると、それよりも先に中からつむぎが出てきた。

 メイド服だった。


「お帰りなさいませ、ご主人様。お風呂の用意も、お食事の用意も整っていますよ」

「……あぁ、ありがとう」


 服装についてはツッコミを許されないようだ。事務的な口調で連絡事項を告げ、丁寧に頭を下げる仕事人の顔。

 実際にこんな家政婦さんはいないだろうけれど、まぁ、百歩譲って前二回のキャラよりはマシか。

 そう思ったのも束の間、ドアノブへ手をかける私を静止して、つむぎは大きく首を振った。


「ご主人様、そんなことよりも……」


 辺りをキョロキョロと見回した後、少しだけ背伸びをして私の耳元に顔を近づけてきた。


「リビングに入る前に、言い訳を考えてから向かったほうがよろしいかと」

「言い訳?」

「えぇ。その……」


 もじもじとしたまま言い渋る。

 自分の家に帰ってきたのにどうしてこそこそしなければいけないのだ。私は清廉潔白で誰に対しても言い訳する必要などないのだが……。


「あたしとの関係が、奥様にバレてしまいまして……」

「……」


 また、ろくでもない亭主だった。


「玲がいけないのです。あんなに激しく迫るから……」

「……」

「あら、あたしったら。奥様がいる間は、『ご主人様』、でしたね」


 赤らめた頬を両手で隠すつむぎ。


「お願いします、ご主人様。奥様をどうか説得してください。ご主人様を失ったら、あたし、もう、生きていけない……」

「……」

「どうか……」

「カット……」


 私は頭を抱えた。

 また昼メロ展開に突入していた。

 私たちの間に平和な世界は訪れないのだろうか。




 テイク4。私が執事で、つむぎが家政婦。

 ソファーの上にはつむぎが家から持って来たらしいクマとウサギのぬいぐるみが置かれていた。私たちはその脇に立って、ぬいぐるみを見下ろしている。


「おい、これでいいのか?」

「これでいいんだよ」

「私たち、何もしてないぞ?」

「だからいいんじゃない?」


 ニコニコするつむぎはただ私の隣に立っているだけだ。

 変に関わろうとするから、私たちの関係は崩れてしまうのだろうか。適度な距離間、薄いけれど確実に存在する隔たりが、今の私たちの関係を象徴しているかのようだった。


「これはこれでつまらんな」


 ポロリとこぼれた不満が、そのまま私の感情を表していた。

 なんにもしない同盟としては、これが一番理想形なのかもしれない。ストーリーの中心から外れて、ただなんにもせず眺めている。私とつむぎは家族でも恋人でも友達でもない。

 でも、居心地の良い距離感だけれど、どこか寂しさを覚えてしまう。


「なら、玲くんがあたしの手を取ればいいよ」


 はい、と言ってつむぎの手が私の前に差し出される。白く透き通るような掌が、私を誘っている。


「玲くんはどんなおままごとがしたいの?」


 差し出された手を見つめて、私は考える。

 関係が深まれば、これまでのおままごとのようにバッドエンドへ向かってしまう。そんな未来は迎えたくない。

 でも、本当にそうだろうか。

 今回の私はずっと受け身だった。つむぎの作ったキャラクターに振り回されていたと言ってもいい。あの茶番に、私の意志は介在していなかった。

 ならやはり、少し勇気を出してみるべきかもしれない。ただ一緒にいるだけで心地がいいのは確かだけれど、なんにもしないを超えない範囲で何かをしてみるのも悪くない。


「そうだな。一緒に料理でもしようか。おままごとらしく、な」


 私はつむぎの手を取る。


「普通じゃん」

「一緒にいることが普通だからいいんだろ」

「……うん。そうかもね!」


 納得したように頷くと、つむぎは私のエスコートに付いて来てくれた。

 クマとウサギのぬいぐるみが、恨めしい表情でこちらを見ていたが、私は敢えて触れないことにした。自然とおままごとは終了していた。


「今日は何作るの?」

「ハンバーグだ」

「ハンバーグ!」

「この前読んだ小説で、滅茶苦茶うまそうにハンバーグ作ってたんだ。いつも玉ねぎ焦がしちゃうんだけど、レンジでチンしたらいいって書いてあってさ……」


 キッチンに並び、料理を始める。

 私はこの距離感のその先を少しだけ見てみたくなった。

 つむぎも同じように思っていてくれたら、嬉しいんだけどな。

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