第6話 小説を書こう
午前九時。
インターフォンが鳴り、私はつむぎを迎え入れる。
「今日はまた荷物が多いな」
肩から掛けていた大きなトートバックがつむぎの柔い肌に食い込んでいた。持ち上げる手に力がこもっていて、そこそこ重量級な持ち込み物があるらしい。
「へへへ。巷で噂のハイテク機器。ぱーそなるこんぴゅーたなのだ!」
「なんだその謳い文句は。昭和の人かよ」
「何を言う。ばっちり平成生まれだし」
「パソコンならうちにもあるのに」
「いやいや、玲さんや。人のパソコンを勝手に覗けるわけないじゃありませんか。人に見られたくないあれやこれやがいっぱい詰まってるのでしょう?」
「変な妄想はやめなさい」
「いてっ」
とりあえずつむぎの頭を叩いておく。存外外れた推理でもないわけだが、ここは人のプライドに懸けてノーと言っておかなければならない。
「ま、それは置いておいて。二台欲しかったんだ」
「二台?」
「そ。あたしの分と、玲くんの分」
「私も何かするのか?」
ふふふ、と不敵な笑みを浮かべるつむぎ。こういう表情から出て来た提案が、まともな物であった試しがない。
「小説を書こう!」
書斎からノートパソコンを持って来てリビングのローテーブルの上に設置する。つむぎもトートバックから取り出し、向かい合うように置いて液晶部分を開いた。
「なんにもしない同盟はいいのか? 盟約違反って奴じゃないのかこれ」
私は白い目でつむぎを睨む。
先日のモンブラン再命名事件の時に露呈したように、私は自分で作ったものを誰かに披露するのが苦手なようなのだ。正直言うと気が進まない。
「いいのです。これはあたしも玲くんも自発的にやることだから」
「私はやるとは一言も……」
「本、好きだよね?」
私の言葉を遮るように、つむぎは確信を突く。
「自分で書斎って呼ぶ部屋を作るぐらいだし、これだけいっぱい本あるし。いっぱい本を読んでるとさ、どうしても自分ならこうするっていう妄想が浮かんでくるじゃん? 自分も同じようなストーリーを書きたいとか、こういうキャラクターがいたら楽しそうとか」
「……」
「そう言うのを形にするだけ。妄想を妄想のままにしておかないだけ。簡単だよ、玲くんなら」
「……まぁ、そういう妄想は嫌いじゃないが……」
「ほら、決定! 早くワードを立ち上げて」
隣に回られて、背中をバシバシ叩かれる。なんだか今日のつむぎは強引だ。
「裏があるな。吐け。今ならその意図を汲み取ってやらんでもない」
「な、何のことかなぁ……。ひゅーひゅー」
口笛を吹いているつもりらしい。脇腹を軽く突くと、わひっと変な声を上げて身をくねらせる。何度か突くと、溢れた涙を拭いながら諦めたように白状した。
「いやぁ、次の授業で生徒たちに小説を書かせるんだけどさ。調子に乗った生徒に乗せられて、あたしも発表しなくちゃいけなくなったんだよねー。あははは……」
「……」
中学校の国語の先生。
私も先週知った事実だが、つむぎの口から仕事の話が出るとなんとなく実感が湧いた。
でも、生徒に乗せられるのは先生として大丈夫なのか?
「もう全然自信なくて! お願いだから生徒に笑われる前に誰かに笑ってほしいの!」
「笑われる前提なのか……」
先生も大変だ。
実直真面目で堅苦しく授業するだけでは生徒と心を通わせることは難しいだろう。だからと言って友達感覚で接すれば、今のつむぎのような目に遭う。緩いつむぎの性格に、年が近いことも手伝って、指導者ではなく友達、あるいは先輩程度の認識になっているのかもしれない。
生徒たちからすれば、その方が楽だし、気軽に授業を受けることができるのだろうが、果たして教師という職業人として、正しいのだろうか。私が答えを出せるわけもないが……。
「事情は分かった。百歩譲ってつむぎの小説は読んで感想を言おう」
「さっすが玲くん!」
「でも、待て。どうして、私まで書くことになる!?」
「そりゃ、連帯責任って言うか……。あたしだけ恥ずかしい想いするのは不公平じゃん?」
「コノヤロウ」
「わーっ。髪ぐしゃぐしゃにしないでー」
つむぎのこういうところは相変わらず憎めない。
制限時間は三時間。つむぎの掛け声とともに、小説執筆は始まった。
2000文字程度の短編で、完結させること。どんなジャンルでも構わないから、書き切ることが条件だという。
三時間という制限時間が2000文字書くために十分な時間なのかはわからない。ひとまず、テーマと構想を一時間ほどで練り上げ、1時間で執筆。最後の一時間で添削という配分を、私は取ることにした。
書斎からノートを持って来て、真っ白なページを広げた。
私の本棚には統一感がない。ファンタジーもあればミステリーもある。超常現象が出てこない恋愛ものや医療ドラマ、ぶっ飛んだSFなども眠っている。好みが偏っておらず、読む本は本屋に行った時に決めることがほとんどだ。いざ自分で書くとなったとき、自分の得意がどこなのか、いまいちわからない。
ならば仕方ない。書きやすいジャンルに絞ろう。
特別な知識が必要ないという点で、ラブコメが無難。次いで、今ある生活にワンポイント加える現代ファンタジーか。でもラブがない日常でラブコメなんて思いつきもしないし、今ある生活だって、出社して仕事して帰って飯食って寝るだけだ。ファンタジーが入り込む余地などない。
難しい……。
大きく溜め息を吐いて辺りを気にすれば、カタカタカタとリズミカルな音が聞こえて来る。目の前のパソコンの向こうで、つむぎは既に書き始めていた。
「……は、早いな、つむぎ。構成とかネタとか考えないのか?」
「ん? めんどくさいじゃん、そういうの。あたしは思ったことをビシッと書くことにしたんだよ。後先考えず書く! 着地したところが着地点だよ」
言うだけ言って、キーボードの打鍵音が再開される。
つむぎらしいと言えばつむぎらしい考え方だ。とはいえ、その手法は私には使えない。
頭の中に全体像がないと、不安になってしまうのだ。
ボールペンを親指と人差し指で挟んで振ってみる。仕事でも考え事をするとき、手に持った何かを弄る癖がある。でも、そういう場合、大抵妙案は思いつかない。
揺れるボールペン越しに、つむぎの頭が揺れていた。リズムを付けて書いているのか、打鍵音に沿って揺れの強弱が変わる。普段とは違い真剣な表情でパソコンに向かう姿は、コンクールで熱演するピアニストのようだった。
……あぁ、そうか。書きたいものを書けばいいのか。
私は思いついたネタを自分の小説のテーマに決め、それを活かす構成を考え始めた。
二時間は経った。
当初の予定では、私は既に物語を書き終えていて、読み直し、校正作業に入っているところだった。
しかし、目の前に表示されているワードの画面には、たった数行の文章しか刻まれていない。
「……」
どうするんだ、これ。
気付かれないように首を垂れ、抱えた両手で髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回した。
文章が、浮かばない……!
平穏な日常の描写をして、登場人物を少しずつ紹介していこうと思ったのだが、初めからもう躓いた。描写ができない。
『部屋にはテーブルがあり、ソファーがあった。買ってきた弁当をテーブルの上に置く。女は椅子に座って、割り箸を割った。残念ながら上の方が上手く割れなかった。ご飯を食べた。冷めたご飯は冷たくて不味い。それでも栄養を取らなければいけない。女は仕方なく食べた』
こんな調子である。何がおかしいのか自分ではわからない。書いていることは書きたいことのはずなのに、無機質で味気なく、何度読んでも違和感が払拭できない。
これまで数百という小説を読んできたはずなのに、どんな文章で構成されていたのか、まったく思い出せなかった。小説の中の風景は、映画のように脳裏に映し出され、いつの間にか文字を追いかけているという感覚がなくなってしまう。きっとそういう文章が、綺麗な文章というのだろうけれど、それがどうやって書かれているのか全く思い出せなかった。
と、とにかく時間がない。おかしくても話を進めよう。
弁当を食べる描写を何とか乗り越え、テレビを見て、就寝するまで書いた。
そして次の日会社に行く。会社で上司に叱られ、お局さまからいびられる。けれど女は気にする風もなく、我が道を行く。
途中からは無心で思いついた言葉を文章にした。いつの間にか時計の秒針の音も、つむぎがキーボードを叩く音も聞こえなくなり、私のスローペースな打鍵音だけが1LDKに木霊する。
主人公の行動を淡々と書いているだけだけ。綺麗な文章なんて気にしている余裕はない。何でもいいから前に進む。私は始めに作った構成通りに文字を綴った。
そして……。
「しゅーりょーっ!」
つむぎの楽しそうな声がタイムアップを告げる。
私はキーボードから手を放し、そのまま床に倒れ込んだ。
上気した頬が熱い。首筋と額に嫌な汗をかいていた。
やり切ったという達成感と解放感が途端に私を包み込む。
「はぁ……。ひと月分の仕事を凝縮してやり切った気分だ。もう頭が回らない……」
「ふふふ。なんだかんだ言って、玲くんは真剣にやってくれるんだね」
対するつむぎは余裕の表情。
よく考えてみれば、途中から打鍵音が聞こえなくなったのは、つむぎが執筆を終えたからだったのかもしれない。やっぱりこういうのは才能が物を言う世界なのか。
「お疲れ様。今日はあたしがコーヒー淹れてあげるよ」
「お。気が利くな。……って、つむぎ。豆からコーヒー淹れれるか?」
「……。きょ、今日は紅茶の気分かなー。らららー」
「紅茶でいいよ」
倒れた視界の端で、つむぎがキッチンへと入って行く。
コーヒーにはこだわりがあって、インスタントは愚か、挽いた豆も置いてはいない。ただお湯を注げばいいわけではないから、知らないつむぎにやらせるのも酷だろう。紅茶ならティーバックがあったはず。
「へい。お待ち」
「ラーメン屋じゃないんだから」
つむぎからマグカップを受け取ると、暖かさに強張っていた緊張が少しだけ解けた。ティーバックは取り出されておらず、カップの淵から紐が垂れていた。
「さて、お互いの作品を見せ合おう」
「いやに緊張するな、これ」
「そりゃそうだよ。なんてったって、自分が作ったものを他人に見せるんだから」
パソコンを交換する。つむぎの小説はびっしり文字で埋まっていた。
二人してじっくりと小説を読む、静かな時間が流れた。活字を追うことには慣れているが、ちょっとこの量は想定外だった。食い入るように見入ってしまう。
先に読み終えたのは、つむぎの方だった。
「感想言っていい?」
「忌憚ない意見をお願いしたい」
「滅茶苦茶読みづらい」
「……」
本当に忌憚のない意見を投げつけてきやがった。プロの作家の自信作でも夏休みの宿題の読書感想文でもない、なんのプライドも持たない遊び感覚の作品だったけれど、ズバリ言われると傷つくものがある。
「文体が全部過去形なんだよね。んで、描写が全て客観的過ぎるの。例えばこのご飯を食べるところ」
つむぎがパソコンの画面を指差す。
『ご飯を食べた。冷めたご飯は冷たくて不味い。それでも栄養を取らなければいけない。女は仕方なく食べた』
「ここは疲れたOLを表すんだから、『いつも食べているはずなのに、今日の弁当は味気なく感じた』って感じで意味を持たせたり、『一口食べた。味がしない。もう一口食べる。それでもやっぱり味がしない』みたいにリズムを刻むといいと思う。どうして美味しくないかを読者に想像させるの」
「お、おう。いつになくつむぎがまともに見える」
「称えなさい!」
調子に乗ると胸を張る。
でも、指摘は正確だった。その後も、淡々と展開するだけだった私の文章に緩急をつけたり、心情を深堀させたりと、いろいろなテクニックを駆使して訂正してくれた。
終わる頃には私が書いた文章はほとんどないが、とても整った小説が出来上がった。
「ちなみにだけどさ」
「なんだ?」
「この主人公の女。モデル、あたしでしょ?」
「――っ!」
「その反応、やっぱりねー」
にやりと笑うつむぎを見て、私は両手を上げて降参した。
「つむぎが同じ職場にいたら、というIFを想像してみたんだよ。それ以外思いつかなかった」
「へへー。玲くんにはあたしがこんな風に見えてるんだぁ」
「いいだろ。悪く書いてるわけじゃない」
「嬉しいなーって思ったんだよ」
マグカップで口元を隠しながらつむぎが言う。
「あたしが振舞っている通り、玲くんはあたしを見ていてくれている。そこに齟齬がないってわかって、あたしはちょっと安心しました」
「そうか。拙い文章で悪かったな」
改めて言われると恥ずかしくて、私も素っ気なく言葉を返した。
悩んだ末に必死に書いているつむぎの顔を見つけ、思わずこれだと思ってしまったのだ。そこに偽りはない。
「で、本題のあたしのお話なんだけど」
身を乗り出すつむぎに、私はパソコンを突き返してやる。
「非の打ち所がない。新人賞に応募したら賞を取れるレベルじゃないか」
素晴らしい完成度だった。
世界の崩壊を止めようとする男女の物語。ヒロインが犠牲になることで世界が救われると知った男の心情が丁寧に描き抜かれていた。
たった2000文字の中に、世界を一度滅ぼしかけた超スペクタクルな恋愛ドラマが凝縮されている。
これを見せることのいったいどこが恥ずかしいのか、そのテーマで2000文字書いてほしい所である。
「え? そんなに良かったの?」
「自覚ないのか」
「うん。ふと浮かんだ物語をそのまま書いてみただけだし。ありふれてるでしょ」
やはり、才能なのだろうか。嫉妬と羨望の二つの感情が、心の中にわだかまる。
「自信持てよ。謙遜が過ぎると嫌味になる」
つむぎはしばしぽかんと口を開けていたが、私の言葉を理解すると大きく一つ頷いた。
この話を例題として出される生徒たちの方が可哀想だ。
日が暮れて夜になる。
いそいそとパソコンを畳み、つむぎが帰り支度を始めた。
「いやぁ、寒くなったねぇ。玄関の扉を開けるのが苦しい季節だ」
「だからって居座られても困るぞ」
「わかってますぅ」
そう言うつむぎの首にはマフラーが巻かれている。落ち着いたワインレッドで、とてもよく似合っていた。
「私が言ってもどうしようもないが、あんまり生徒に舐められるなよ?」
「玲くんみたいな生意気な生徒はいないから大丈夫!」
「模範生を捕まえて馬鹿なことを」
「ま、何にしてもありがとね。っていうか、またあたしが借りを作っちゃったじゃん」
「取り立てるのが楽しみだ」
「無利子無担保無制限って聞いた」
つむぎは手を振って玄関扉を開けた。
「また来週ね」
「あぁ。また来週」
つむぎが先生と聞いて、全然想像つかなかったが、今日は少しだけ近づけた気がする。
生徒に寄り添い一緒に笑い合える中学の先生。
私にもそんな先生が欲しかった。
少しだけだけれど、彼女の生徒が羨ましくなった。
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