第5話 赤ちゃんのお世話をしよう

 ハロウィンを終えて11月に入った。街行く人々の服装には暖色が増え、ムードは徐々にクリスマスへと変わっていく。私もワイシャツの上に薄手のマウンテンパーカーを羽織って通勤するようになった。これがコートに変わるのも時間の問題かもしれない。

 午前九時。今日も律儀にインターフォンが鳴る。


「はいはいっと……うん?」


 インターフォンに表示された映像を見て、私は首を傾げた。

 いつも元気いっぱいに笑顔を振り向いているつむぎの顔が、こちらを向いていなかったのだ。画面には丸まった背中だけが映っている。

 先週私が覗き見していたからその対策だろうか? つむぎらしい小さな抵抗だ。

 少しだけ微笑ましく思えて、私は玄関を開けた。


「おはよ、つむぎ」


 声を掛けると、彼女が振り向く。そして、抱えていたものを見て、私は次の言葉を失った。


「……」

「……」


 つむぎの顔が困ったように笑う。

 肩から掛けられた袋のような布に抱かれて、大きな黒目がこちらをじっと見つめていた。


「おぁー」


 モミジの葉よりも小さくて、ぷっくりとした掌が、私の方へと伸びて来る。まん丸の鼻、モチモチの頬っぺた、穢れのない真っ白な肌。髪の毛は薄く、秋の日差しを浴びて茶色に輝いている。

 どこからどう見ても人間の赤ちゃんだった。


「ど、どうしたんだ、その子?」

「えへへ……。出来ちゃった。玲くんとの子だよ!」

「そんなわけあるか!」


 思わずチョップを振り下ろす。つむぎは両腕で赤ちゃんを支えていて頭が無防備だ。


「ひどいっ。あんなに愛し合ったじゃない、あなた」

「おいコラ寄るな。変な誤解を招くだろ」

「誤解だなんて……。よよよ、あたし、もう生きていけないわ……」

「……」


 玄関の向こうを犬を連れた散歩中のお爺さんがゆっくりと通り過ぎて行った。

 今日のつむぎは昼ドラ気分らしい。


「知ってる? 今の科学に不可能はないのよ。あたしと玲くんとの子だって手段は……」

「わかったわかった! とにかく入れ!」

「ふふふ。ウブなんだから」

「そういう問題じゃねぇ!」


 なんだろう。いつになく波乱の予感がする。


「あ、玲くん。そっちの荷物も一緒に持ってきてね」

「あぁ? って、ベッドも椅子も持って来たのか」

「そりゃ当然だよ。しおりちゃんを汚い玲くんの部屋に転がしておくわけにはいかないからね」

「……」


 とりあえず、徹底的な掃除を決意した。




 部屋に入ると、つむぎは早速肩から掛けていた紐を外して赤ちゃんを下ろした。頭の後ろと腰のあたりを抱えて、自分もソファーに座り込む。流石にいつものように溶けたスライムのようにはならなかった。

 後で調べたところ、あの赤ちゃんを入れる袋のようなものは抱っこ紐と呼ばれるものらしい。残念ながら、私には縁遠い単語だ。


「ふいー、肩凝ったぁ。ほら、玲くん。その椅子貸して」

「あ、おう」


 両手の塞がったつむぎの代わりに、リビングのローテーブルの側に、赤ちゃん用の椅子をしつらえてやった。お尻がすっぽり収まる形の柔らかそうな椅子だ。つむぎはそこに赤ん坊を座らせて、また一息ついた。

 赤ちゃんは初めてきた場所に興味があるのか、物珍しそうにあたりを見回していた。


「意外と、落ち着いてるな」

「いい子でしょー。誰に似たのかしらねー」

「少なくともつむぎじゃないと思うが……。いったい誰の子供なんだよ」

「だから、あたし……いたっ」

「正直に」

「……お姉ちゃんの子供です。今日一日預かります」


 強めに力を籠めると、つむぎは頭を押さえたまま白状した。

 姪っ子ということか。考えてみれば、そのぐらいの選択肢しかないな。いくらつむぎでも、その辺の子供をさらってくることはないだろうし。


「そういや、先週お願いしたいことがあるとか言ってたが……。これか」

「そうそう。お姉ちゃんに子守り頼まれちゃってさ。NNDの活動もしつつとなると、連れてくるしかないと思ってたんだよ」

「歳は?」

「26歳だよ?」

「違うわ。子供の」


 ぺろりと舌を出すつむぎ。


「1歳と3カ月だって。名前はしおりちゃん。もう歩けるし、ママとパパくらいは見分けがついてるみたい」

「へー」

「人見知りもしないし、手のかからない子で助かるって、いつもお姉ちゃん言ってる」


 くりくりとよく動く黒い瞳は今、私のことをじっと見つめていた。知らない人間を見つけて興味を抱いているのか、ただ単純に音が出るものを見る習性があるのかはわからないが、知らない場所で騒ぎだすということはなさそうだ。

 私はそっと、赤ん坊、しおりちゃんに指を近づけてみた。無垢な瞳が指の先を追いかけ、身を乗り出して掴もうとする。指を振ると、両手でぱちんと押さえつけられた。


「おあー」

「……」


 ……意外と可愛いなコイツ。

 関節で絞られてハムのような見た目の腕はマシュマロのようにぷくぷくで、触っているだけで幸せを充電できる気がした。頬を突くと、程よい弾力。アンパンマンのように垂れ下がった頬が妙に愛らしい。

 なるほど。これが赤ちゃんのかわいらしさか。邪気のないあざとさか。


「ふふふ。玲くんもメロメロだね」

「まぁ、これだけ可愛いのだから仕方ないところがある」

「あたしもこんな柔肌だったのになぁ……」

「一歳児と競ってどうする」


 嫌がらないのをいいことに、私はしおりちゃんの柔らかな頬を引っ張ってみた。まるで大福のようにうにょんと伸びる。低反発クッションとは比べ物にならない触り心地だ。


「で。私たちは一体この子に何をしてあげればいいんだ?」

「何にもしないよ。一緒にいて過ごしてあげるだけでいいって。まぁ、おむつ替えたりご飯あげたりはしなきゃだろうけれど」


 穏やかな顔がそう告げる。

 普段は自分の方が子供のようにふるまっているのに、いざ赤ん坊を前にすると慈愛の女神のような表情になる。そのギャップに、ちょっとだけドキッとした。




 何時間でも見ていられそうだったけれど、しおりちゃんの方が先に飽きてしまった。

 ぐずり始めたのを察して、つむぎはすかさず持って来た鞄に手を突っ込んだ。


「ガラガラ~!」


 取り出したのは、私でも見たことがある赤ちゃん用の玩具。取っての先に円筒形の物体が付いていて、振るとやかましい金属音を奏でるアレだ。

「ほらほらー、こっちですよー。カラン、コロン。カラン、コロン」

 顔を近づけ、ガラガラと一緒に自分の頭も振りながら、しおりちゃんをあやす。

 およ? という顔をしたのも束の間、可愛らしい顔は再び崩れてしまう。


「ぐぬぬ……。ならば!」


 次に取り出したのは手のひらサイズのクマのぬいぐるみだった。つむぎがお腹を押すと、ぷにゅーと一つ大きく鳴いた。


「こんにちは、しおりちゃん。ボクは森のくまさんだよ」


 一オクターブ高い声を出して今度はクマをしおりちゃんの鼻先に近づけた。目を丸くして手を伸ばす姿を見て、つむぎはクマを渡してあげる。


「君に会いたかったんだ。名前を教えておくれよ」

「おぁー」

「ふむふむ。しおりちゃんというんだね。一緒に遊ぼう」

「おああー」


 コミュニケーションは成り立っているようである。つむぎのアテレコに、しおりちゃんは夢中になり、ぬいぐるみをじっと凝視する。そして、パクリと鼻に噛みついた。


「わっ。い、痛い。痛いよしおりちゃん。ボクの鼻は、食べ物じゃないよ」

「おぐ?」

「そう。離して、ボクは君と遊びたいんだ。決して食べられるために来たわけじゃないんだよ」


 その弁解はどうだろうか。


「そうだ。握手をしよう。握手だ。親愛の証だよ」

「おあー」


 つむぎがクマの手をひょいと伸ばしてやれば、しおりちゃんの小さな手も、おずおずと伸ばされる。固い握手を結ぶと、しおりちゃんは満足そうにクマの腕を持ち、そのまま右手を振り上げた。


「おあー!」

「あー! ぶつかるー!」


 ばしん。ばしん。

 しおりちゃんの友達からただの玩具へと関係を変えた哀れなクマが、椅子のひじ掛けに叩きつけられる。


「あぁ、駄目だよ。駄目! 物は大切にしないと! 痛い痛いでしょ?」

「おあぁ……」


 楽しみを邪魔された暴君は当然不機嫌。皺ひとつない眉が歪む。


「あー。また泣いちゃう。えっと、次の秘密道具は……」


 つむぎが次の玩具を取り出そうとしたのを見て、私はふと、自分の部屋にも一つだけ赤ちゃんのためのものがあったのを思い出す。

 慌てて鞄の中を漁るつむぎを跨いで、一人書斎へと移った。

 小学校の頃、『ハリーポッター』を読んで、読書の楽しさを知った私は、それ以来ずっと生活の一部に本を置いていた。中学校の頃からは漫画も増え、勉強のための参考書や、旅行用の雑誌なんかも、捨てられずにとってある。綺麗に並べられたこの空間は、私の人生を記録した年表と言っても過言ではない。

 その一画に、確かあったのだ。きっと、私が人生で初めて読んだ本も……。


「お! あったあった! やっぱ実家から持って来てたか。なつかしー」

「ん? 何それ?」

「知ってるか? 『きんぎょがにげた』って、絵本だ」


 ぶんぶんとつむぎは首を振る。

 あまり有名じゃないのかな? でも、今でも本屋さんで見かけるし、定番な絵本だと思うんだけどな……。

 表紙では斬新なデザインの金魚が、いろいろな物の中に隠れている。すっかり手垢で汚れてしまっているけれど、中身に問題はないはずだ。

 私は絵本をしおりちゃんから見える位置に置いた。


「おあー?」

「絵本って言うんだ。面白いぞ」

「おあー」


 手に持っていた輪投げの輪っかをその辺に放り投げる。それを見たつむぎが悲しそうな顔をした。

 隣に座るのは、なんだか気恥ずかしいので、私はテーブルの反対側に座り、身を乗り出して絵本を開く。


「きんぎょが にげた。どこに にげた」


 金魚鉢を飛び出した金魚が、カーテンの模様に隠れている。大人から見たらバレバレの隠れ場所に、しおりちゃんは釘付けになった。


「おー、おあ!」

「おぉ! すごい! そう。それが金魚だ。まさかカーテンの模様に隠れるとは予想外だよね」

「おあー」


 どこか誇らしげな顔をするしおりちゃん。誇らしいという感情すら知っているのかわからないけれど、手をバタバタと振って先を促す姿から、楽しんでくれていることは理解できた。


「おや また にげた。こんどは どこ」

「おあー?」


 さらに身を乗り出して絵本を覗き込む。

 今度は少し難しい。花瓶に生けてある花束。茎の先にパクリと食いついて花に擬態しているのだ。


「おあ!」

「そう! それだ!」


 けれどしおりちゃんは案外早く、金魚の居所を見つけ出した。見ているこっちまで嬉しくなる。


「なぁ、つむぎ。この子はもしかしたら天才かもしれないぞ!」

「うえーん。玲くんがしおりちゃんにとられちゃったぁ。しおりちゃんが玲くんにとられちゃったぁ」

「まずい、こっちにも子供がいた……」


 泣いてこそいないが、取り出した赤ちゃん用の玩具を両手に抱え、薄暗い廊下に佇む様子はなんだか無性に物寂しい。


「だから赤ちゃんと競うなって」

「だって、あたしがあやしても玩具放り投げられるし……。玲くんの方がカッコイイからなんだぁ! このスケコマシ!」

「スケコマシって……」

「あたしもやるもん。一緒に金魚みつけるもん」


 頬を膨らましたまましおりちゃんの隣に腰を下ろすつむぎ。鼻息が荒い人が隣に来て、しおりちゃんもびっくりしたように目を丸くする。


「ほら、玲くん。ページめくって! 早く早く!」

「おい……。まぁいいか。しおりちゃんは大人な対応してるし」

「おあー」

「なんでー! あたしが一番子供みたいじゃん!」


 不貞腐れるつむぎをなだめつつ、絵本の読み聞かせは進んでいった。

 自分のこんな時代なんて当たり前ように覚えてはいないけれど、絵本の内容だけは今でも覚えている。誰が読み聞かせてくれたかなんて忘れてもいいけれど、私としては、これを機に本が好きな素敵な女性に育ってほしいと切に思う。




 例の動画配信サービスでアンパンマンを流しているうちにしおりちゃんは眠ってしまった。寝かしつけが大変だと周りの子供がいる知り合いから聞くが、こうやって眠ってしまえばなんと可愛い生き物なのだろうか。

 起こしてしまわないように気を付けながら、つむぎがベッドに移してくれる。しおりちゃんのことを考えながら、頭を撫でるつむぎの姿を見ていると、先ほど我儘を言っていた淑女とはとても同じ人物とは思えない。


「ありがとう、玲くん。助かった」

「何の礼だ? 今日は日曜日なんにもしない同盟の日じゃないか。私は何もしてないぞ」

「ふふふ」


 私はようやくできた自由な時間に、コーヒーを二杯入れて戻って来る。

 嵐の去った後のような、静かな時間。大人の時間と名付けたら、ちょっと気障すぎるだろうか。


「あたしもいつか、親になるのかな」

「なるだろう。つむぎなら」

「玲くんもなるんじゃないの?」

「私は、どうだろうな。想像できない」


 力なく笑う。

 自分が子供をあやしている姿なんて、これまで考えたこともなかった。今日の一場面を切り取ってしまえば、楽しい思い出だったと言えるけれど、親になるなら楽しいだけでは済まないいろいろがあるのだろう。その苦労を私が背負えるかと問われると、素直に首を縦に振れない。


「でもま、今日が楽しかったのは事実だ。いい気晴らしになった」

「あたしの方こそ助かったよ。あたし一人じゃ、たぶん泣き止ませることもできなくて、あたふたしてた。お姉ちゃんに連絡しまくってた」

「そうか? 割と筋は良かったと思うぞ。子供あやすの慣れているのかと思った」

「ま、職業柄子供は好きなんだよ。好きじゃなきゃやってられないしね」

「そう言えば、聞いたことなかったな。つむぎ、何の仕事してるんだ?」

「ん? 言ってなかったっけ?」


 つむぎがこちらを振り向いた。

 聞いたことはない。私たちは同盟であって友達じゃない。お互いの素性なんてほとんど知らないのだから。つむぎに姉がいたことも今日初めて知った。

 つむぎは少しだけ迷ったけれど、眉にしわを寄せたまま静かに言った。


「先生だよ。中学校の、国語の」

「……先生?」

「あー、似合わないって顔した!」


 そんなことは思っていなかったけれど、意外だったのは事実だ。

 少しの間、つむぎの顔をまじまじと見つめてしまう。


「そんなに見ないでよ」

「あぁ、すまん」


 先生という職業に特別思い入れがあったわけではない。けれど、大人になった今、教師の大変さはひるがえってわかるようになった。

 思春期の少年少女たちと身体一つでぶつかる毎日。

 日曜日なんにもしない同盟……。だからつむぎは、こんな同盟を作ったのか?


「あ、電話」


 つむぎの鞄に入っていたスマホが、着信を告げていた。撫でていた手をいったん止め、鞄のところまで行って電話に出る。電話の先は、どうやらつむぎのお姉さんだったようだ。


「ごめん、玲くん。まだちょっと時間早いけど、お姉ちゃん帰ってきちゃったみたい。帰らなくちゃ」

「了解。ま、こんなかわいい我が子がいるんだ。予定も切り上げて帰ってくるだろう」


 つむぎが片づけを始める。慌ただしい雰囲気を察したのか、しおりちゃんも目が覚めてしまった。起き抜けにも泣かない。本当に手のかからない子だ。

 しおりちゃんを抱っこしたつむぎの後ろを、大きな荷物をかけて追いかける。

 玄関まで出て振り返ったつむぎは、柄にもなく深々と頭を下げた。


「ホントありがとう。今度は玲くんのお願い聞くからね! 何でも言って! なんにもしないけど!」


 楽しそうに手を振った。しおりちゃんも理解しているのかはわからないが、手を振ってくれた。


 扉が閉まれば今日が終わり、新しい月曜日が来る。

 忙しく息つく暇もない平日が始まる。

 もしかしたら彼女は、私が思っている以上に、なんにもしない日曜日を切望しているのかもしれない……。

 そうは思ったけれど、日曜日を終わらせない魔法なんて、私には使えない。来週もまた、同じように迎えてやるのが、私にできる最善だ。

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