第4話 空想旅行に行こう

 午前9時にインターフォンが鳴る。

 ……のは、わかり切っているので、今日は趣向を変えて、玄関で待ち伏せしてみることにした。


 つむぎは毎週9時ぴったりにインターフォンを押す。律儀な奴だなぁと思っていたけれど、昨日ふと気づいたのだ。玄関扉の前で、インターフォンを鳴らすまで待機している時間があるんじゃないか、と。

 いくら隣の家とはいえ、時計の秒針のように正確に行動するなら余裕をもった五分前行動ぐらいはしているだろう。私の家の玄関扉の前に、見られていると意識していない空白の時間が存在している。つむぎは一体何をしているのか……。


 見たい! 


 そんな邪念に駆られ、今日は先にシャワーと着替えを済ませ、準備万端で待機しているわけである。


「さてさて、つむぎさん。あなたの素の姿を見せておくれよ。ぐふふふふ……」


 丸窓を覗きながら、私は悪魔の感情に身を委ねた。

 魚眼レンズに見える駐車場に、変化があったのは8時45分のことである。

 視界の右側からうにょんと歪んだ女性が一人映り込んできた。怠惰先生である。

 やはり私の思った通りつむぎは時間前の行動を心掛けていた。怠惰先生と呼ばれていても、時間にルーズではない。そういうところは、つむぎらしいと言えた。

 私の部屋の前に立つと、つむぎはスマホを取り出し、柔らかな陽光を反射させる画面と睨めっこを始めた。どうやら鏡のアプリを起動しているようで、目元や前髪をしきりに気にしていた。

 顔のチェックを一通り終えると、今度は自分の服装の点検に入る。ボーダーのTシャツに山吹色のロングスカート。私から見てもおかしい所はないけれど、スカートのヒダが気になるのか、かなり入念にしわを伸ばしていた。

 いわゆるデート前の女の子のような行動に、私の頬はいつの間にか緩んでいた。

 あと5分。迫った時間を確認しつつ、つむぎは空を見上げた。今日は秋らしくうろこ雲が浮かんでいて、人差し指を伸ばしながらうろこの枚数を数えている。数えきれなくなると、腕を組み、


「ふふふ。今日は大物が釣れた」


 などと独り言を言う。つむぎには蒼海に跳ねるヌシの姿が見えているのかもしれない。

 あと3分になると、急にそわそわし始めた。再び鏡のアプリを開き、しきりに前髪を気にしている。綺麗に流された前髪に綻びは全くない。

 そして、よしと一言口の中で呟いて、まっすぐにこちらを見つめた。

 普段まじまじと見る機会がないつむぎの顔。笑った顔もいいけれど、自然体のままの素顔も十分魅力的だ。


 けれど、理想的な女の子の姿はそこまでだった。


 整った顔に見蕩れていると、つむぎは突然自分の頬をつねりだしたのだ。

 両側から引っ張られ、綺麗な顔が不細工に顔が歪む。白い肌はお雑煮のお餅のようにうにょーんと伸びた。


 ……何やってるんだ、こいつ。


 引っ張ったかと思うと、今度は両側から押しつぶした。頬と鼻が中心に寄せられて、さらに不細工になる。鼻を人差し指で持ち上げたり、眉間に力を込めて舌を出したり……。変顔のパレードを眺めている気分だった。

 最後に唇をタコ入道のように突き出し、ぱたりと目を閉じる。


「んむちゅー」


 ゆっくりと丸窓に近づいて来る。


「……」


 覗いているのがいたたまれなくなってきたところで、スマホが9時を告げてくれた。

 私は問答無用で扉を開いた。


「あいたっ」


 重いもの同士がぶつかり合う音がして、開いた隙間から顔だけ出せば、額を押さえたつむぎがコンクリートにうずくまっていた。


「何やってるんだよ、お前は」

「うぅ……。痛い……。お、おはよう、玲くん」

「あぁ、おはよ」

「いいお天気のはずなのに、あたしの目の前にお星さまが散っているよ」

「人の家の前でタコ入道の顔真似なんて練習してるからだぞ」

「へ? えっ! えぇ!? 見てた? 見てたの!? 見ちゃったの!? 馬鹿ぁ!」


 顔真っ赤にして大きな瞳がゆらゆらと揺れる。そんなつむぎが可愛くて、やっぱりもうちょっとからかってやりたくなる。


「ゾンビに迫られるモブの気分だった」

「その感想は、落第!」


 弱いパンチが私の腹にめり込んだ。



「ほら、たまにあるじゃん。なんとなく手持無沙汰で変顔して遊ぼうって思う瞬間」


 あるだろうか? 一人暮らし長いが、思い返しても記憶にない。

 つむぎはうちに入ってくるなり、いつものソファーに溶け込んだ。穴があったら入りたいという慣用句を行動で表しているのかもしれない。可愛いのでしばらくそのままにしておこう。


「玲くんも人が悪いよね。覗き見なんて変態のすることだよ!」

「ま、私は変態みたいなもんだからな」

「私は変態と一緒の部屋にいてもなんにもしないよ!」

「はいはい、今日も清く正しくなにもしませんよ」


 二人分のマグカップを用意して、いつものようにコーヒーを淹れた。



「旅行に行こう!」


 コーヒーを飲み、読みかけの小説をベッドに転がったまま読みふけっていたときである。つむぎは唐突に立ち上がってそう宣言した。

 私は怪訝な顔を向ける。


「日曜日はなんにもしないんじゃないのか?」

「あ、ごめん。言い間違えた。――おほん」


 咳ばらいを一つして、再び指をさす。刺した先には何もないのだけれど。


「空想旅行に行こう!」

「空想旅行?」

「そうそう」


 つむぎは肩に掛けていたトートバッグの中から一冊の雑誌を取り出しリビングのテーブルの上に置く。


「ひょんなことからあたしは五日間のお休みをいただきました。時を同じくして、まったく同じ期間、玲くんも五日間のお休みをもらいました。突然のお休みなので二人とも何も予定がありません」


 唐突に始まる状況説明。語り口は熱い。


「そこで、あたしたちは旅行に行くことにしました。まだ見ぬ土地を二人で歩く。そんな夢のような日々が、今幕を開ける! ……という設定」

「という設定か」


 鼻息荒い怠惰先生は、本気の目だ。ギラギラと燃えている。

 なるほど。面白い思考遊びかもしれない。

 NNDの盟約を守りつつ、旅行に行った気になって、時間も潰せる。

 以前働いていた会社では、同期と仲が良くたまに旅行に行っていたけれど、転職してからこっち、なかなかそういう友達に巡り合えていない。新しい場所を訪れて新しい文化に触れるのは好きな方だが、一人の時間が多いとどうしても出不精になってしまう。


「ちなみに、行き先はハワイだよ!」

「ハワイか。五日じゃ駆け足になっちゃいそうだな。一日は移動でつぶれるだろうし。でもなんでハワイなんだ?」

「最近寒くなって来たから暖かいところに行きたいと思って」


 身体の欲求に正直な奴だ。


「この観光ガイドは?」

「借りて来た、図書館で。図書館にはこういう本も置いてあるんだよ」


 雑誌を裏返してみると、裏表紙の右上にバーコードと数字の羅列が書かれたシールが張り付けてある。新品を買ってきたにしては表紙も中のページもくたびれているわけだ。


「図書館なんて意外だな。つむぎ、本読むのか」

「うーん。読書というよりは、お仕事の資料を集めに。たまに行くんだよ。ネットじゃ集められない資料もあったりするし」

「へぇ」


 ちょっとだけ感心した。

 今のご時世、図書館へ資料を探しに行く人がいるんだな。スマホがあれば何でも瞬時にわかると錯覚しまいがちなのに。

 そう言えば随分長いこと行ってないな、図書館。本屋とはまるで違う静かで、けれど温かみのある森ような空間が、昔は好きだったのに。


「というわけで、やってきましたハワイです! 玲くん、アロハー」

「アロハー」


 親指と小指を伸ばし残りの指を折りたたむ、ハワイ特有のジェスチャーをこちらにフリフリ。

 空想旅行は唐突に始まった。


「いやぁ、やっぱ暑いね、こっちは。もう、日本が懐かしくなっちゃうよ」

「あぁ。でも、湿気がないから不快感はないな。過ごしやすそうだ」

「まずはアロハシャツ買って、ハワイモードにならないと!」


 つむぎは元気よく手を振り、歩いているふりをする。時折額に手をかざして、物珍しそうにあちこち見て回る。彼女の目には今、ホノルル空港を行き交う無秩序な人の群れが見えていることだろう。


「レンタカー借りたことだし、市内を観光してみよう。大型ショッピングモールとかあるみたいだぞ」

「え!? 左ハンドルだよ!? 玲くん、運転できるの?」

「大丈夫だろ。つむぎはナビ頼むな」

「うん。あ、そこ左」

「ほい。……あ」

「ふふ。ワイパー動かしてる、ふふ」

「慣れなきゃこんなもんだ!」


 私も目を瞑って、ハワイの街並みを想像する。

 海が見える広いストリート。南の島のイメージから自然にあふれた場所を想像していたけれど、日本と変わらないくらい高層ビルが立ち並んでいる。リフレッシュに来た観光客はみんなにこやかで、下を向いて歩いている人はいない。誰も彼もがアロハシャツを着て楽しそうに束の間の贅沢を謳歌している。

 ここは時間の感覚を忘れられる場所だ。

 買い物中の会話劇をしていたら日が暮れてしまった。青い海は優雅な時間を過ごしている間に茜色に変わる。海岸の向こうにそびえる巨大な岩肌まで、海と同じ夕暮に染まっていた。


「ちぇっくいーん。ここがあのハレクラニです!」

「ここか? ここでいいのか? 奮発し過ぎじゃないのか?」

「いいんだよ。贅沢なんだから!」


 つむぎがガイドブックで指差したホテルは、私でも知っているぐらい有名なホテルだった。

 日本人の海外挙式の定番ともいえるホテル。内装やサービスにも言葉を失うほど感動したけれど、部屋に案内されてまた驚いた。

 ベランダから見えるオーシャンビュー。ここが天国かもしれない。


「綺麗だな」

「あたしのこと?」

「ふっ」

「あ、鼻で笑った!」


 トロピカルなBGMと波の音を聞きながら、ワイングラスをぶつける。おほほほ、うふふふ、なんて大人ぶった笑い声を真似するあたり、私たちはまだ大人になり切れていない。


「二日目です! 今日はこの旅行のメインイベントっ! ダーイービーンーグー」


 二日目もやる気満々のつむぎである。


「玲くん、ダイビングの経験は?」

「昔家族で海外旅行した時に一度。高校の頃だったかな?」

「へー。あたしは初めて。どうだった?」

「楽しかったぞ。一面のマリンブルーに赤や黄色の魚がすぐそばを泳いでるんだ」

「おぉ! それは期待だね! ウミガメにも会えるかな?」


 海はホテルから見た場所よりも透き通って見えた。照り返す日差しにくらっとと来たのか、つむぎが眩しそうに手をかざす。


「ウェットスーツよし。ボンベよし。フィンよし」

「いざ、海底散歩へ」


 片手で鼻を摘まみ、もう片方の手を天井に向けて、ソファーへとその身を沈めていくつむぎ。十分に沈み込むと、うつぶせになってぶくぶく言いながらクロールを始めた。

 私はベッドに寝ころんだまま、フィンだけをゆっくり動かした。

 海中じゃクロールはできないだろうに。


「ををう。をうをう。おぼぼぼ。あばばばおぼぼ」

「ぶくぶく。ばぼぼ。ぶく」


 ジェスチャーとアイコンタクトだけでつむぎと意思疎通を図る。大したことは言っていないはずだから、適当にぶくぶく言っているだけで、なんとなく話が進むのだ。


「いやー。楽しかったねぇ。日本に帰ったらダイビングの免許、取ろうかな」

「お気に召して何よりだ」

「ウミガメにも会えたし、文句なし!」

「さ、運動の後は美味しいディナーとしゃれこもうぜ」

「おー。いいねいいね。今日のディナーは?」

「ステーキだ!」

「素敵! ……なんちゃって」


 ちらりと舌を見せるつむぎ。その可愛さに免じて、脳内審議は取り下げた。


「見てよ、玲くん。肉が、立ってる!」

「いいかつむぎ。これ一つが札束だと思って食うんだ。噛みしめ、味わうんだ」

「わ、わかったよ。はぐ。うむむ。――うーんっ!」


 頬を押さえて幸せそうな表情をする。私も真似して、ナイフでとりわけ口の中に放り込む真似をする。


「んーっ。これは旨いな。油がくどくなくて肉の味をしっかり味わえる」

「こんなおいしい世界がこの世にあったなんて……。幸せ……」


 とろけそうな表情は、見ているこっちまで幸せになる。

 つむぎは何でも美味しそうに食べる。日曜日はいつもここでお昼を食べるわけだが、大体私が作った昨日の残り物が昼食になる。冷蔵庫から取り出してチンしただけの料理でも、つむぎは目を輝かせて美味しい美味しいと言う。なんていうか、お粗末なものを出して申し訳なくなるほどだ。

 料理は嫌いじゃないが、やっぱりこういう人に食べてもらうのは嬉しいもんだ。


「三日目です! 本日が最終日です」


 つむぎはガイドブックを指差す。


「まだ夜明け前だけど、これに参加するなら仕方ないよね」

「ダイアモンドヘッドからのサンライズな」


 辺りは真っ暗だ。昨日ホテルの人にタクシーを予約してもらったわけだが、どういうわけか私たちを迎えに来たのはリムジンだった。リムジンタクシーというものが、ハワイでは割と一般的に走っているらしい。


「VIP! この薄暗く怪しい雰囲気。裏の世界ごっこができちゃうね」

「おいおい、空想の中でさらに新しい妄想を始めないでくれ。流石について行けなくなる」

「わかってる。それはまた今度」


 今度があるのか。

 リムジンを降りると、まだ辺りは真っ暗だった。山肌の舗装されているとは言い難い道を歩いて昇っていくと、長い長い階段に出る。急な階段を上った先、開けた空間に人が集まっていた。


「ベストタイミングだよ、玲くん」

「ご来光って奴だな。英語ではなんていうんだろう」

「Go like a cow! 牛のようにゆっくりと、けれど確実に前へ進もう! って訳すんだよ」

「嘘吐け!」

「バレたかー」


 本当に神経から口までがバイパスで繋がっているようだ。

 海の向こうから徐々に明るくなり始め、やがて一筋の光の帯が浮かび上がる。一瞬の静寂の後、光量は爆発的に広がっていった。魔の口へ引きずり込もうとしていた薄暗い海が、淡い水色に浄化されていく。


「綺麗だね」

「景色のことだろう?」

「違うよ。玲くんのことだよ」

「――」


 海のように深く、澄んだ瞳が私のことを見つめていた。曇り一つないつむぎの瞳は、見る者を魅了する宝石のようだった。

 たまらず私は視線を逸らした。


「綺麗とか言っても、嬉しくないだろう普通」

「ふふふ。恥ずかしがっている玲くんも可愛い」

「こら! からかうな!」

「えへへー」


 だらっとしたまま表情を崩すつむぎの姿が、妙に印象に残った。


「名残惜しいけれど、あたしたちは日本人です。日本に帰らなければいけません」

「最後に、このパンケーキ食べれてよかったな。さすが、観光ガイドの一面を飾るだけはある。旨い」

「それが最後の晩餐になろうとは、その時の玲くんは知る由もなかった……」

「怖いこと言うなよ」


 空想旅行がどうしていきなりホラーになるんだよ。幸せな気持ちで終わればいいじゃないか。

 つむぎは、作ったような笑顔を辞めて、私の方を向く。


「どう? あたしとの旅行楽しかった?」

「あぁ。最近引きこもりがちだったからな。いい気晴らしになった。……まぁ、身体はベッドから一歩も動いていないわけだが」

「そりゃNNDだからね」


 充実感が胸いっぱいに広がっている。

 やったことは旅行のガイドブックを見ながら、二人で妄想を膨らめただけだけれど、なんだかすごく充実した日曜日を過ごした気がする。



「あ、そうだ玲くん、来週なんだけどさ」


 玄関で靴を履きながら、つむぎが振り返る。


「ん? 来週? 予定でもあるのか?」


 そう言えば、ここしばらくずっと私と二人で日曜日を怠惰に過ごして来たけれど、つむぎにだって予定の一つくらいあるだろう。

 それならそれでいい。別に日曜日なんにもしない同盟は強制されてやるものじゃないらしいから。


「ううん。予定はないんだけど、ちょっと面倒な事、頼まれちゃって。協力してほしい」

「いいけど、面倒な事って?」

「それはまぁ、来週になればわかるよ」

「え? 来週まで教えてもらえないの?」

「大丈夫。たぶん、きっと、おそらく、そんなに迷惑はかけないと思うから」

「不安しかないんだけど」


 まぁ、つむぎが私を頼ることなんて今までなかったし、悩みの一つくらい聞いてやるか。


「じゃ、また来週ね!」

「寒くなって来たから、そろそろ布団出せよ」

「お母さんか!」


 バイバイと言って扉が閉まる。

 しんと静まり返ると、いつもの平穏が戻って来た。戻ってきて嬉しいのか嬉しくないのか、最近じゃわからなくなっている。

 だいぶ汚染されたな。

 私は自嘲気味に笑った。


「ハワイか……」


 いつか空想じゃなくて、つむぎと一緒に行けるだろうか?

 きっと、空想以上に楽しい思い出になるに違いない。

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